六章 さよなら学生
6-1
絶え間ない蝉の鳴き声と、ジリジリとしたコンクリートの照り返し。そして田舎町特有のむっとした草いきれは、何年経っても変わらない。
「旭、お帰りなさい。疲れたでしょう」
「ただいま母さん。別に疲れてはいないよ、バスの中で座ってただけだしさ」
大学が夏休みに入り、俺は二週間ほど家庭教師と居酒屋バイトの休みをもらって実家に帰省していた。しばらく帰っていなかったので、もう三年以上ぶりになる。心なしか母の背が小さくなったように思う。
「父さん、久しぶり」
「……ああ」
冷房が効いた居間で父はソファに腰掛けて甲子園の中継を見ていた。見慣れた実家の、当たり前の光景。両親が健在していて、帰る場所があること。たったそれだけのことが、今はとてつもなく愛おしいことのように思う。
「何ニヤニヤしてる」
父が俺の方を見て首を傾げる。俺が無愛想なのは、間違いなく父の遺伝だ。
「……なんでもない」
荷物を自分の部屋に運んで再びリビングに戻ると、テーブルの上には見たこともない華やかなコーヒーカップが並んでおり、母は地元で有名な和菓子屋の羊羹を切っているところだった。まるで客人扱いである。自業自得だが、少し心が痛い。
「あのさ、父さん、母さん。話したいことがあるんだ」
「なんだ」
両親は特別姿勢を正したりはせず、緑茶をすすり、羊羹を口に運んだ。だが大学入学以来初の帰省だ。何かあったのだろうとは薄々勘づいているはずだ。俺がちゃんと話をしやすいよう、かえって気を遣ってこの態度を取っているのだとしたらありがたかった。
「……俺、就活やめて教員採用試験を受けるよ」
「は?」
さすがに意外だったのか、父は羊羹に伸ばしかけていた手を止める。
「ちょっと旭、急にどうしたのよ……まだ新卒募集してる会社も全然あるってニュースで見たけど」
「うん、それは分かってる。驚かしてごめん。でも、就活しながら自分の進路のこととか色々考えて出した答えなんだ」
「逃げる気じゃないだろうな? 大手の企業に入って早く自立したいんじゃなかったのか」
父の低い声が居間に響く。俺は小さい頃からこの音が嫌いだった。この音で何か言われると、腹の辺りでふつふつと苛立ちが沸騰して、言い返したくなる。だけど今はぐっと抑えた。それこそ逃げになってしまうから。
「父さん。俺だってそれが自分の幸せだと思ってたよ。でもそうじゃないって最近気づいた。世間とか、周りに望まれるようなコースを進んでいい気になりたかっただけなんだ。自分が本当に力を尽くしたいことが何かなんて、見つける努力すらしてこなかったんだよ。……遠回りな生き方をしてしまったことは本当に後悔してる。もしかしたらこのまま自分を押し殺して大手の企業に就職する方がいいのかもしれない。でも、だからこそ、学校の先生になって、自分みたいに周りに流されるまま大人になってしまう学生を減らしたい、って思ったんだ。それに、直接誰かのためになれるようなことをするのが、自分にとっても嬉しいんだって気づいた。幸い教職課程の単位はとってたから、今年中に教育実習が受けられるところがないか今探してる。もしかしたら来年になるかもしれないけど……それでも、この道を進みたい」
父は黙って俺の方を見ていた。しばらくしてすっと席を立ち、冷蔵庫から冷酒を取り出す。ちょっと、まだ昼間ですよ、と止める母を無視して父は一気にそれを煽り、すぐに顔が赤くなった。酒など滅多に飲まないはずなのに。
「お前の好きにしろ、お前の人生だ。……だが、大人の男として、いや、俺の息子として、自分の言ったことを守らない奴は認めないからな」
「分かってる。結果で証明するよ」
父はふんと鼻を鳴らし、ふらついた足で自分の部屋へ戻っていく。母がため息を吐いた。それは呆れというよりも、何か安堵に近い響きだった。
「思えば、旭の本当にやりたいことを聞いたの、初めてかもしれないわね。今まであまりにも優等生としてやってきてくれて、ちゃんとそれがあなたの本心かどうか確かめてなかった。……だから、今ちょっと嬉しかったわ。茨の道だと思うけど、がんばんなさい。そしてお父さんを見返してやって」
俺の頭を撫で、母はにっこりと笑った。母の手は随分シワが増えていたけれど、その温もりは昔から変わらない気がした。
「さ、今日は久しぶりに家族揃ったし、餃子にしますかね。あ、それともハンバーグがいいかしら?」
「餃子にしようよ。俺も手伝うよ。バイトでだいぶ料理上手くなったからさ」
「あらそうなの? 助かるわ」
小さくなった母とキッチンに並ぶ。小気味良く響く野菜を切る音。いくら自炊ができるようになったとはいえ、このリズムにはいつまでも追いつける気がしなかった。
「母さん」
「んー?」
「親孝行、ちゃんとできてなくてごめん」
「今日は一体どうしたのよ、ほんと。東京で何かあった? 私たちはあなたが元気でいて、こうしてたまに顔出してくれればそれでいいのよ」
やっぱり今日の晩御飯はハンバーグにして貰えばよかったと、俺は強く後悔した。我が家の餃子には玉ねぎは入れないのだった。
***
「店長、ひとつお願いがあるんですけど。今月末に吉野や俺の浪人仲間が一人、留学に行くんですよ」
「おお、こんな時期にか」
『呑み屋あかぎ』の店内には、店長と吉野と俺の三人しかいない。店員しかいない静かな空間で、ホールだけ電気を消して、キッチンや水回りの後片付けをするこの時間が俺は少しだけ好きだった。
「海外の大学は九月に始業のとこが多いみたいで。それで、そいつんちで壮行会やろうぜってなってるんですけど、うちの店の料理をオードブルで頼んだりってできますか?」
「もちろん。友情サービスってことでまけといてやんよ」
「いよっ! 大将!」
「こんにゃろ吉野、調子いいこと言いやがって! しっかしうちの店も寂しくなるねぇ。シフト減らしてでも続けてくれりゃあよかったのに。旭はうちの店じゃ一番の男前なんだからよ」
「はは、やめてくださいよ。どうせ俺ずっとキッチンにいて見えてなかったから関係ないっすよ」
「そっすよ。それにここにプリンス吉野がいるじゃないっすか」
「なーにがプリンスだ。プリン吉野の間違いじゃねぇのか」
「あっやめて! お腹はやめて! くすぐったい!」
俺は教員免許取得に集中するため、今日で居酒屋バイトは辞める。少々生活は切り詰めることになるが、父がいつの間にか口座に振り込んでくれていた仕送りがあるので当面は心配ないだろう。
「そういや、こないだ旭が帰省してる間、お前らと同世代の女の子が一人で来たよ。黒柳くんはいますか、って」
「え、もしかして莉子ちゃん? クロ、いつの間により戻したの?」
「戻してねーよ。言ったろ、あいつ今もう別の彼氏がいるんだって。……ったく、なんで来たんだろ」
その日家に戻ってから、俺は気になって莉子に電話した。話すのはましろと喧嘩した日以来だ。
『……旭?』
「おう。なんかこないだうちの店来たんだってな。店長から聞いたよ」
『あ、うん。旭が帰省してるなんて言われたからびっくりしたよ。大学入ってから一度も帰省なんてしてなかったよね。何かあったの?』
「そっちこそ、何かあったから来たんじゃないの?」
莉子はしばらく黙ってしまった。電話の向こうの声は、いつもより小さくてどこか自信なさげである。
『……あのね、一社から内定もらえそうなんだ。旭が前に選んでくれた中の一社。ネットドラマとかの制作をやってる会社で、けっこうやりたいことにぴったりな気がするの。でも小さい会社で、名前も知られてないから、福利厚生も全然ないし、親にもまだ言えてなくて……』
「別にいいじゃん。ってか、おめでとう。ずっとやりたいと思ってた仕事なんだろ? そんな幸せなことってないよ」
俺は本気でそういったのに、なぜか莉子は一瞬黙った後、電話の向こうで爆笑した。
「なんだよ」
『あはは、正直、私は否定してもらいたくて旭に話したのになぁ。アテが外れちゃった。まさかあなたにそんなこと言われるなんて思ってなかった。でも、ちょっと勇気でたよ。ありがと』
「そう? ならいいけどさ」
なんだか不服だ。元々応援する気でいたのに、そんな風に思われてたとは。じゃあ頑張れよ、と言って切ろうとした時、莉子が止めた。
『……ねぇ、あの時さ、私ばっかりあの子に心読まれちゃって恥ずかしかったんだ。旭はあの時……どう思ってたの?』
囁く甘い声。シャンプーの香り。柔らかい手。頭に浮かぶのはすべて過去のこと。莉子に抱いていた感情は、もうあと一年で社会人というラベルを貼られなければいけない学生の、はかないノスタルジーだったのかもしれない。俺は本当に鈍い。自分の気持ちですら気づくのに時間がかかりすぎだ。
「……さあね。忘れたよ」
『ええ、ちょっと!』
「じゃ、おやすみ」
電話を切ってから、何の迷いもなく莉子の電話番号を削除した。さよなら、学生生活。これからの進路にまだ何の確証もないのに、なぜか胸の内はとても晴れ晴れとしていた。
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