3-2


「いらっしゃいませ! ……ってなんだ、クロかよ」


 『呑み屋あかぎ』と行書体で書かれた黒いTシャツにジーンズのシンプルな服装の吉野が元気よく出迎えた。大学一年の頃、俺があまりに接客に向いていなかったので、キッチン担当にしてもらう代わりにバイト先がまだ見つかっていなかった吉野を紹介したのだ。彼は元々まかないが目的でバイトを始めたが、持ち前の愛嬌あるぽっちゃり体型と元気の良さがあいまって想像以上に接客が上手く、常連客には特に評判が良かった。まかないを食べずとも常連客から差し入れてもらうことが多く、それはきっと彼を入学当初より太らせた要因の一つでもあるだろう。


 今日は平日だからか店はがらんとしていて、常連客くらいしか来ていない。


「店長いる?」


「いるよ。ってあれ、その子どうしたの?」


 吉野はましろを見て驚く。ましろのような少女が俺といることと、居酒屋に現れたことの二重の驚きだろう。


「私は早川ましろ。旭くんにいつもお世話になってます」


 ましろはうやうやしく吉野にお辞儀をして吉野に握手を求める。


「え、やっぱそういう関係なの?」


 吉野は引き気味に俺を見つめた。もうこういう見方をされるのにもそろそろ慣れてしまいそうな自分がいる。


「違うから。この子早川先生の娘さんで、俺はカテキョ頼まれてるだけ」


「そ、そうだよなぁ」


 吉野はわざとらしく笑いながら差し出された手を握る。案の定静電気が起きて吉野はぱっと手を引っ込め、ごめんとはにかんだ。ましろは俺に近づいてきて耳打ちする。


「ねえ、まだ疑われてるよ。どうすんの」


「どうするって……ましろがあんな風に言うからだろ」


 吉野は俺とましろを席に案内しておしぼりを出してから、店長を呼んでくると言って厨房の方に入っていった。体型に似合わず機敏な動きをしている。ましろはさっきからおしぼりをせわしなくいじっていて珍しく落ち着きがない。


「どうした?」


「や……居酒屋ってなんか初めてだから」


 そりゃそうか。三度の飯より研究を優先するような早川がそういう場所に連れて行きそうな気配は微塵もない。


「もしかして、未成年だと追い出されちゃう?」


「そんなことないし、そうだとしたらとっくに追い出されてるよ」


「え、そうなの」


 ましろはきょとんとする。この年頃の少女は自分の見た目の幼さに対して、思いのほか鈍感なのかもしれない。


「ま、せっかく来たんだし何かソフトドリンク頼んだら?」


 ドリンクのメニュー表を渡すと、ましろは物珍しそうに端から端まで目を通していた。背伸びしてノンアルコールカクテルを飲むのだという。注文しようと思って厨房を見やると、ちょうどいいタイミングで店長が現れた。ただし血相を変えて、である。


「旭! 吉野から聞いたぞ……! お前、そんな年下の子に手を出してっ! 俺はこれでもなぁ、親御さんの元を離れて生活費は自分で稼ぐっていうお前の気持ちを見込んで、せめて東京で学生やってるうちは父親代わりでお前を育ててきたつもりなんだ! それがこんなっ……」


 店長は言葉を詰まらせ、涙目で口を覆う。そしてまた「そもそも最近の若い奴はなぁ」と一方的にまくし立て始めた。奥多摩生まれの自称江戸っ子、この中年男はとにかく情に厚く、それゆえに語りだしたら話が長い。ましろは店長から飛ばされる唾を避けるような体勢をとりながら、なだめるように言う。


「店長さん、それ誤解だよ。旭くんはただの家庭教師で……」


「いや、これは教育担当としての俺の責任に関わる話なんだ! 嬢ちゃんは黙って」


 店長が急に口をつぐんだ。ましろの顔を見て、まるで石になったように動きを止める。彼が自分の話を途中で止めるなど、めったにないことだった。


「店長?」


 俺が声をかけると、魔法が解けたように店長はハッとして首を横に振った。


「あ、いや……そうだよな、しおちゃんがこんなところにいるわけ……」


 店長はぼそぼそとそう言ったかと思うと、「悪いがまだ仕込みが終わってなくてな」と言って厨房に戻ろうとした。しかしましろはすかさず店長の腕を掴む。


「待って。私のこと、見覚えあるんでしょ?」


 店長はぴたりと立ち止まった。ましろは瞬きひとつせずその背中を見つめる。やがて観念したように力を抜くと、店長はすとんと俺の隣の席に座り込んだ。


「……とにかく驚いた。君は一体どこの子だい。俺が知ってる人によく似ているよ……怖いくらいにね」


「もしかしてそれってこの人のことですか」


 写真を差し出すと、店長は食い入るようにそれを見ながら言った。


「どうしてこんな古い写真を?」


「私のママなの」


 店長はましろの顔と写真の女性を幾度も見比べると「ああなるほど、親子か」と感嘆の声を漏らす。


「いや、懐かしいなぁ。まさかこれくらいの娘さんがいたなんて聞いてなかったからさ。お母さんは今どうしてる?」


「わかんない。もう五年になるかな、突然うちを出てっちゃったから」


「そうか……まさかしおちゃんが……そんなことするような人には見えなかったんだがな」


「本当だよ。私には何も言わずにいなくなっちゃった。でも、もう一度会いたいから今こうやって探してる」


 店長はましろの話に悲痛な表情を浮かべ、苦労したなとましろの頭を撫でた。ましろは不思議そうにその手を見つめた。


「ねぇ、店長さんはママと知り合いだったの?」


「まぁ一応な。この写真の中に名前の入ったボトルがあるだろう? この中の一番手前のこれ……ここに書いてある名前は俺の名前だよ」


「やっぱりそうだったんですか。筆跡が似てるとは思ったけど」


「当時俺はこの辺りの飲み屋を見て回って色々と勉強してたからなぁ。特にしおちゃん……嬢ちゃんのお母さんは界隈ではかなり評判のいいバーテンでね、ここの店にはよく通ってたんだ。カクテルはいつも微妙に味がずれていたけど、とにかく美人でいつも明るく笑顔で接してくれてさ、彼女の元気を分け与えてもらえるような気分になるんだ。あの頃は彼女に夢中になった男はたくさんいたんだよ」


「ママが……明るく笑顔?」


 ましろはぽかんとした表情で店長を見つめる。確かに意外だ。ましろの母親は娘に冷たくあたり、突然失踪してしまうような人物のはずだ。この写真の表情を初めて見た時も思ったことだが、どうにもましろの中での認識とバーテンダーをしていた時とではギャップがあるらしい。


「本当のことだよ。俺たち常連組にとっちゃまるでアイドルだった。だからさ、彼女が結婚して突然辞めることになったとき、すっげーショックだったわけよ」


 ましろと目が合う。つまり、ましろの母がバーテンダーとして働いていたのは結婚する前までということになる。


「バーの常連だったやつといつの間にか恋人になってたんだよ。俺らしおちゃんのファンはそりゃもう必死で引き止めたよ。だけど、もう決めたんで、の一点張りでさ。それ以来しおちゃんの話は聞いてなかったんだ。旦那が自殺したって噂で聞いて、心配はしてたんだけどな……」


 自殺、という言葉でましろの表情が少し曇る。前は自分から父親の最期について話していたが、やはり他人に言われると堪えるのかもしれなかった。


「そうですか……それじゃましろのお母さんが今どこで何してるかは知らないんですね」


「ああ。力になれなくて悪かったなお嬢ちゃん」


 店長はもう一度ましろの頭を撫でた。ましろの表情は照れたような複雑な顔をしていた。店長は厨房に戻り際、「あ、そうだ」と言って振り返った。


「あいつなら何か知ってるんじゃないか? よくしおちゃんの旦那とバーに来てたんだよ。ほら、何て名前だっけ、お前の大学のさ、あの妙に偉そうな先生。苗字に川がついてたきがするんだけど……」


 うちの大学の先生で、妙に偉そうな、苗字に川がついている人物など、容易に想像がつく。


「それってもしかして、早川先生のことですか」


「そう! そいつだよ! しおちゃんの旦那、照れ隠しなのかよくそいつを連れて来てたんだ。なんかいつも一緒にいるから、最初はそっちの気があるんだと思ってたけどな」


 そう言って店長は手のひらを返して頬に寄せる。その時、厨房から吉野が店長を呼ぶ声がして、店長は慌てて戻っていった。ましろが「そっちの気って何?」と首を横に傾げたが俺は聞こえなかったふりをして言った。


「元共同研究者ってだけで娘を引き取るもんかなとは思ってたけど、まさか秋山教授と一緒によく飲みに行くような仲で、ましろのお母さんとも顔見知りだったとはね。そのことを先生から聞いたことは?」


 ましろはノンアルコールカクテルを飲みながら首を横に振る。ましろ自身も驚いているようだった。


 心を読めるわりに何でそのことに気づかなかったのかと思ったが、そういえば早川にはあの絶縁体のリストバンドがある。ましろの両親と仲が良かったというのを伝えていなかったのは、それが早川にとっては彼女に知られたくないことだったからなのかもしれない。でも、それはなぜだ? 早川のような計算高い男なら、隠し事の一つや二つ持っていてもおかしくはないが、どうにもしっくりこない。


「そういえばお父さん、パパの話になるとなんか話そらしたりするんだよね。昔、嫌なことでもあったのかなぁ」


「ますます怪しいな、それ。先生から聞き出すにしても、ましろのお母さんを探してることはバレたくないわけだし……」


 ふと、カウンターに座る常連客が吉野を捕まえて仕事の愚痴を言っているのが目に入った。真っ赤に酔っ払って呂律が回っていない。あのおっさん、またか。吉野もよく毎回相手をできるな。企業秘密をベラベラ喋るし、聞いているこっちが申し訳なくなるくらいだ。……そうか、その手があった。


「ましろ」


「ん」


「ましろの能力を持っていない大人が他人の心を知りたい時、どんな手を使うと思う?」


「え、そんな方法あるの」


「あるんだよ」


 そう言って俺は自分の手元にあるビールを掲げた。


「おさけ?」


 ましろが不思議そうにグラスの中の黄金色の炭酸飲料を見つめる。


「酒が入ると大人はぽろっと秘密をこぼしたりするんだ」


 勘のいい彼女の顔がぱぁっと明るくなる。


「なるほど、お父さんにお酒を飲ませて……!」


「ああ。それとなくましろのお父さんとお母さんの情報を聞き出そう」


 ましろがうんうんと何度も首を縦に振る。俺もなんだか楽しい気分になってきて思わずにやける。料理を持ってきた吉野が「クロが笑ってるの怖っ! 悪役顔!」と言って去って行ったが、全く気にならなかった。


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