1-4


 早川に応接用のソファに座るよう促される。ソファの上にも本や論文が積み重ねられており、俺が座るとバランスが取れなくなった本の山が崩れた。直そうとすると早川は「ああいいよ」と言い、自身のデスクの回転椅子に腰掛けて向き合うように座った。


「二つ、君に内定の話だ」


 早川はもったいぶって二本指を立てる。からかわれているだけだと思いつつも、喉は唾を飲み込む音を鳴らした。「ひとつ」と言って中指が折り曲げられる。


「自覚しているとは思うが、君のゼミの出席日数は危うい」


 頭の中で手帳に書き込まれたこれからの予定がぼろぼろと崩れていく音がした。嫌な予感ほど当たるものだ。早川に呼ばれた時から想定していた、最も聞きたくない言葉であり、最も言われるであろう言葉だった。


「悪いが、といってもこれは君の自業自得でもあるが、このままだと単位はあげられない。つまり、卒業条件の必須項目をひとつ埋められないことになる」


「留年、ですか」


 ゼミの単位を落とすということは、一年留年が決定するということだ。真っ先に浮かんだのは学費のことだった。大学に入る前、浪人して塾に通っていたこともあって、両親とは金の相談はしづらい。かといってあと一年分の学費を払えるだけの貯金は当然持っていなかった。落胆して声すら出ない。しかし早川はこちらの様子など気にせず「そしてもうひとつ」と続ける。


「君に頼みたい仕事がある。特例ではあるが、この仕事をこなしてくれたら出席とみなしてちゃんと単位をあげよう」


「え?」


「実のところ、ゼミの単位を落とすほど出席をしなかった学生は君が初めてでね。こういう時のことは何も決めていなかったんだ」


 それはそうだろう。早川ゼミは早川自身のカリスマ性と心理学という人気分野であるがために、毎年多くの学生が応募し、簡単な試験と面接によって十人以下まで受講者を絞られる。俺はたまたま成績が良くてなんの下調べもせずゼミに入ったが、その他の学生は何年も年上のOBにまで話を聞き、試験と面接の対策を入念に行っていた者ばかりだった。


 くっとコーヒーを飲み干すと、早川は姿勢を崩して頬杖をついた。重力で下がったシャツの袖から、スーツには不似合いな黒の磁気リストバンドのようなものがちらりと顔を出す。


「ここからは正直な話をしようか。私にとってもね、留年の学生が出ると手続きやらもう一年の論文指導やらで面倒なんだよ。ただでさえ客寄せパンダみたいに学部生のゼミを毎年任されるのも辟易しているんだ。……だから、君にチャンスをやることにした」


「チャンス?」


「そう、それがさっき話した内定の二つ目ってわけだ。……聞く気はあるかい?」


 随分ぶっちゃけるんだな。だが下手に包み隠されるよりは良い。それに、留年を回避する方法があるのならそれに乗らない手はない。俺は縦に頷いた。すると早川は嬉しそうに顔を輝かせる。


「おお、こんなにあっさり交渉成立とは予想外だ。なに、過剰な肉体労働やらブラック企業がするようなことを押し付ける気はないから安心しなさい。仕事っていうのは……」


 その時、コンコンとドアをノックする音がした。ちょうどいいタイミングだ、と言って早川はノックの主に入るよう促す。来訪者が誰なのか分かっているようだった。ドアが開いてその姿が見え、俺は思わず目をこすって二度見した。相手も目を丸くしてこちらを見ている。


「紹介しよう。今日から君に家庭教師をお願いする私の娘、ましろだ」


 ドアのそばに立っている来訪者は、昨夜公園で出会った奇妙な少女だった。


「昨日のタバコのお兄さん?」


 少女は俺の方を指差した。早川もさすがに想定外だったのか、ましろと俺の両方を見る。なんだか隠れんぼで見つかってしまった時のようにいたたまれなくなった。


「まさかお前が昨日会ったのは黒柳くんなのか? 彼とは知り合いだったわけじゃないだろ」


 うん、と無邪気に答える娘を見て早川がため息を吐きながら眼鏡を外して眉間を押さえる。ましろが現れてから、早川の顔はすっかり年頃の娘を持つ父の顔になっていた。


「昨日娘が何か失礼なことをしなかったかい」


 首を横に振ったが、俺は昨夜彼女にことごとく考えを言い当てられたのを思い出し、ますます早くこの部屋を出たくなった。ましてや早川の言う仕事というのがこの変わった少女の家庭教師となると、急に不安になってきた。なるべく目を合わせないよう扉の方から顔をそらしていると、いつの間にかましろが近くまで来ていて俺の手を取った。


「君が旭くん? 私は早川ましろ。昨日は驚かせてごめんね。この通りちゃんと生きた人間だよ」


 ましろの腕はやはり雪のような白さだったが、触れている手から体温が伝わってきた。ほらね、と言わんばかりににっと歯を出して笑いかけてきたが、俺はむしろぞっとした。幽霊だと疑っていたことまでばれている。


 しかし早川に娘がいるというのは初耳だった。娘どころか妻がいる気配すら感じたことはない。月に三度は研究のため各地を転々とし、論文を書く時は研究室から二十四時間一歩も出ないこともあると聞く。どう考えても甲斐性とは縁遠いタイプの人間だ。


 それに二人はあまり似ていない。いや、むしろまるきり他人のようだ。普通親子と言われると実際に親子でなくてもなんとなく共通点を見つけて、そのようだと自分を納得させてしまうのが人間の性だ。しかし――ましろが色白で日本人らしからぬ外見をしているせいもあるかもしれないが――パッと見二人の共通点は見つからない。くせ毛で濃い黒色の髪をしている早川に対し、ましろの髪は栗色の細いストレート。目元も、早川は細目で切れ長であるが、ましろはぱっちりと縦に大きく開いた瞳をしていた。似ているとすれば、俺を小馬鹿にしてくる態度しかない。


 色々と気になることを頭の中で羅列していると、ましろと触れている部分で静電気が起こった。そんなに電気を滞留しやすい生地だったかと洋服の袖を見つめたが、今日着ているのはごく一般の綿のパーカーである。


「私は養子なんだ。だからお父さんとは似てないの」


 ましろはさらりと疑問に答える。しかしそれは声には出していないはずだ。


「なぁ、なんで昨日から俺の考えてることがそんなに分かるんだ? 顔には出てないと思うんだけど……」


 つい先日までは無自覚だったのだが、俺はどちらかと言えばポーカーフェイスの方らしい。そうだと知ったのはそれが理由で去年の夏に一年付き合った彼女に振られたからだ。旭は何を考えているかわからないから気を遣って疲れると言って、挽回のチャンスを与えないまま恋人という契約を一方的に切られた。決して考えを隠しているつもりはなかった。後ろめたいことも何もない。ただ言葉にならなかったのだ。しかしそう伝えようと思った時には彼女の隣にはすでに別の男がいた。それも俺と同じゼミの男子学生で、やたらとディスカッションを仕切りたがる、リーダー風の振る舞いが苦手な男だった。


「もしかしてそれって恋人か誰かに言われた? ねぇ、その人ってどんな人?」


 目の前の少女が興味津々に聞いてくる。だからなんで分かるんだ。これではまるで――


「心が読めてるみたいでしょ」


 ましろが悪戯な微笑みを浮かべる。顔かたちの作りは似ていないが、仕草や表情は早川によく似ている気がした。要は、二人とも意地が悪い。最悪な親子だ。


「ましろ」


 遠目で一連のやりとりを眺めていた早川だったが、何も言い返せなくなった俺を見かねたのかましろに手を離すように言った。ましろは「はいはい」と言って渋々手を離して距離を取る。瞬間、パチっとまた静電気が起こった。


「どういうことなんですか、一体……」


 あながち昨夜感じた悪寒は間違いではなかった気がしてくる。見た目には可憐な少女が急に得体の知れないもののように思えてきた。


 「こんなに早い段階で伝えることになることとは思わなかったんだが」と早川は呆れたように娘を横目で見る。ましろは抗議するように口を尖らせ、その表情に彼は溜息を吐きながら言った。


「この子は人の心を読むことができるんだ。私はこれを心の盗聴、つまりマインド・タッピングと呼んでいる」


「……はい?」


 思わず気の抜けた声が出た。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る