もう一度この場所で

富升針清

第1話

 私の話をしましょう。

 私の生まれは尾張一のお宮がございます、天火明命様が鎮座なされるこの街で、私は産まれました。

 私は生れつき、体が弱く、右眼が余り見えません。家はそれ程裕福でもなし。それでも、私は幸せでした。

 母は私に『糸』と言う名を与えて下さりました。我が家はこの繊維の街で、細々と糸の小売をしております。それ程、大切なものの名を、母は惜しげも無く私に与えて下さりました。母に頂いた名は、私の唯一の宝物でございます。

 私が糸と呼ばれで、幾度かの季節が巡り彷徨った頃、母の腹には私の可愛い妹の灯火が宿りました。しかし、不憫な話で父はなし。

 母は泣き崩れ、妹の火は揺れ動く。

 しかしながら、妹は美しく、強く、まるで桔梗の様に、この世に根を張りました。

 妹は愛おしく、可愛らしい。

 彼女が店に顔を出せば、人々は足を止め、笑顔を向け、口を開け、私と同じ名を呼ぶのでございます。

 お一つ、糸を、くださいな、と。

 えぇ。喜んで。

 喜んで、喜んで。

 外は火事だと騒いでいると言うのに。内は酷く穏やかでまるで、それは風呂の様に。

 それでも、季節は色を持つ。

 外の熱が冷めやらんのに、あたりは全て花嫁の薄化粧。

 人が一人、また一人と店の前から消えてゆく。

 それでも、私は目を閉じて家族を思うふ。

 春になればきっと、私の可愛い妹にも穏やかで優しい大きな手が、愛はここにあるとばかりに愛おしそうに抱き上げてくれることでしょう。

 私は生涯、子を成した事はございません。良きご縁に恵まれなかったのでしょう。

 しかしながら、良き人が現れなかった訳ではございません。風の様な殿方と一夏の恋をしました。

 彼は風来。北へ南へ。東へ、西へ。まるで木の葉の様な方でした。

 境内に佇む私の元へ、花もない手で触れては話をしてくれました。

 優しき殿方でした。見たことも聞いた事もないような、素敵な景色を私に教えてくれる、方でした。

 さて、明日はどんな話をしようかね?

 七夕の喧騒が続く夜。

 そう私に悪戯っぽく笑った顔を最後に、私は彼の顔を見る事は出来ませんでした。

 でも、良いのです。

 彼がまた、何処かで私に聞かせてくれた景色を見ているのならば。

 彼が、また、あの悪戯っ子の顔をして笑ってくれているのならば。

 その事だけに感謝を尽くし、その事だけを喜び、その事だけを思いましょう。

 それから、幾ばくかの季節が、炎に包また頃の、母の泣き声を聞きました。

 それは、あの、暖かくて大きな手が、二度と私の頭に触れられない事を知らせる物でした。

 私は居ても立っても居られずに、境内へと駆け上がる。

 どうか、どうか。神様。

 私の大切な人達をお護り下さい。

 天火明命様が鎮座される社で、私は何度も何度も首を下げ、叫びました。

 まだ、言の葉の意味を理解しない私の妹を。

 私達を優しく、そして力強く守ってくれる母を。

 木の葉の様な、あの殿方の笑顔を。

 どうか、どうか。

 祈りを、願いを。


 我ら尾張の子、真清田の子。


 どうか、願いを。

 どうか、どうか。


 祈りを、願いを。

 私は目を覚ますと、あたりは炎に包まれておりました。すぐ前には、可愛い妹。母の姿はございません。

 ついに、あの日が、やってきたのです。7月28日。その日は赤い赤い日でありました。

 私は妹にも駆け寄ろうと体を起こします。しかし、家の瓦礫に挟まれ、私は思う様に動けない。

 泣き声をあげる、可愛い妹。煩い程の空の音、蠢く様な炎の声。

 誰か、誰か!  私の妹が!

 しかし、答える声はありません。それでも、私は叫びます。誰か、誰かと。喉が引き裂かれてもいい。私の体はどうでもいい。遠に見えなくなった右眼を必死で開き、喉の奥で唸り声をあげるのです。

 その時、一人の巫女が私の前に現れました。

『其方は、糸屋の糸殿だとお見受けする。私は真清田の狛犬である。こんな所で何をなさっておれるか』

 ああ、神様、私の可愛い妹を助けて下さい。

『それは出来ん。私に許されるのは、一人を助ける事だけだ』

 何故!?  私はもう助からない。だから、せめて、妹を!  母を!  

 私の命など要りませぬ!  どうか、どうか、可愛い可愛い妹を!!  一人しか助けられないと仰るならば、その一人とは妹の方でございます!

 だって、私は……。


『ただの薄汚い犬畜生でございましょう!』


 私は、糸。糸屋の女将に拾われた、小さな小さな犬でございます。

 なんの価値もないこの命、どうか、愛する人達の為にお使いください。

 神様の遣いが一人とおっしゃるならば、それは人である妹の事でございましょう。

 その子の未来の糧となるのらば、私はこの炎に喜んで、焦がれましょう。

『私は、ここで、土になる。土になっても、母と妹を思い、見守り、思い続ける。それが、我ら犬の役目でしょうに』

 だから、きっと、悲しくない。

 どうか、どうか。

 神様。私の願いを叶えて下さい。

『……貴女の願いは主の心に届かぬ』

 どうか、どうか。

『しかしながら、私の心にはしかと届いた。良い。貴女の妹を助けよう』

 そう、狛犬と名乗る女は笑い、妹を優しく抱き上げるのです。

 妹は、誰の腕かわからぬ手で大きく声をあげ、顔を歪めて泣きました。

 桔梗の様な美しい顔が台無しだ。桃の花の様な笑顔が見たいと思いましが、それは叶わぬ夢でございます。

 それが、私が妹を見た、最後の姿でございます。

 どうか、元気で。どうか、幸せで。

 どうか、どうか。


 強く、強く、生き抜いて。


 天火明命様が鎮座なさるこの真清田で、私はずっと、私の愛する人達の幸せを祈り続ける。

 もしも、あの子が私を覚えてくれるのならば、もう1つ、私のワガママを言われせて下さい。


 願わくば、もう一度、この場所で貴女の笑顔に逢いたいと。

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