魔術書

 朝のHRホームルームまえ。古手川姫子こてがわきこは忘れられずにいた。昨日、六錠扉りくじょうとびらを襲っていた影達のことを。そしてその戦いを。

――今見たことは忘れろ。おまえには関係のないことだ

 そんなことを言われたって、忘れるだなんて難しい。あれは確実に、命を取るための戦いだった。

 片方はその命を頂戴すべく刃を振るい、片方はそれに足掻くために拳を振るう。そんな衝撃的な戦闘を目の当たりにして、忘れることなどそう簡単にはできない。

 ましてや襲われたのは、師匠でもある先輩だ。先輩の命が狙われたというのに、ポンと忘れてまたいつも通りだなんてできるはずもない。

 戦闘はかなり慣れている六錠ではあるが、こういうことには疎いと弟子の目線で古手川は思う。

 しかしそれは仕方がなかった。何せ六錠には今まで、ここまで関わった人間がいなかったからだ。だがそんなこと、古手川が知る訳もない。故に困っていた。

「おっはよぉ!」

「あ、マナちゃん。おはようございます」

「おっはよぉ、姫子。どしたの? そんな暗い顔して」

――今見たことは忘れろ。おまえには関係のないことだ

 ここで市ノ川真那子いちのかわまなこに話したところで、状況は変わらない。彼女ならきっと、それは先生に相談した方がいいとかなんとか、まともな意見をくれるに違いないが。

 それでも、きっと先輩は困るから。忘れろって言っただろうがと、言われるのがわかっているから、古手川は首を横に振った。

「なんでもないのです。それより、今日の一時限目の課題、見せてくれませんか!」

「えぇぇ? 姫子が? 珍しいね」

「えへへ……六錠先輩に、おまえは最低限の筋力を付けろって言われて、毎日筋トレしてたら、忘れてしまって……」

「姫子。もしかしてあんた……」

 市ノ川が目を見開き、隣の席の古手川にグッと顔を近付ける。その目はジッと真実だけを見抜く、フクロウのような目をしていた。

 確認すると、それは魔術ではない。市ノ川が古手川を含む女友達の真相を探るときに使う、手段の一つだ。

「恋しちゃった?」

「……え……えぇぇぇぇ!!!」

 突然の大声に、クラス全員が振り返る。それに気付いた古手川はすぐに机に顔を突っ伏し、カバンで頭を覆って頭だけ隠れた。

 だが何故ここまで動揺しているのかは、自分でもわかっていない。実際六錠に対してそんな感情を持っていないと思っていたが、そう言われるとここまで恥ずかしいのは、本当は自分がどう思っているのかが不明だった。

 そんな赤面古手川に、市ノ川はカバンの下を見つめて続ける。

「まぁぁ……六錠先輩って顔は悪くないし、将来もきっと安泰だろうからいいとは思うけど……性格がねぇ……女性嫌いって噂もあるし……姫子、面倒な人好きになっちゃったね」

「そ、そんなことはないのです……先輩はあくまで先輩であって、師匠であって、だからぁ、そのぉ……」

 なんと言ったらいいのかわからない。何せ今、この心の奥底から沸き起こっている感情を、うまく説明できなかった。だって古手川姫子は人生で一度も、恋をしたことがなかったから。

 人を好きになったことはある。大好きになったこともある。だが恋をしたことは、愛するほど好きになったことは、一度もなかった。

「マナちゃん……私は、私は先輩を好きになってしまったのでしょうかぁ……」

 ダラリと伸ばされた手を、市ノ川は拾い上げる。そして古手川の頭を隠しているカバンをどけると、勢いよく立ち上がらせた。

「行こっ! 姫子!」

「え、でもこれからHR——」

「いいから! 来て!」

 古手川が市ノ川に手を引かれて教室を飛び出した頃、六錠は男子寮の部屋にいた。ベッドの上で胡坐を掻き、ひたすら待っていた。何をと言われると、連絡をだ。

 だが寮に備え付けの固定電話は一階のロビー。携帯も、六錠からは少し離れたリビングの机の上。現代における連絡手段は、すべて六錠から離れていた。

 だが連絡は来るのだ。自分から、翼を生やして飛んでくる。

 それは六錠の寝室の窓が覗き込める、男子寮のまえに生えている木の枝に止まった。翼を伸ばせば二メートル近くある、大きなシマフクロウだった。ただし特有の黄色の虹彩ではなく、青く澄んだ虹彩を持っている。

 シマフクロウの目が光ると同時、フクロウから男性の低い声が響いた。動物を使って連絡を取る、とある組織の魔術による連絡手段である。

『やぁ扉、久し振りだね。元気にしてたかい?』

「残念ながら元気だよ。おまえのくれた結界魔術のせいでな」

『それはよかった。でも昨日は災難だったね。襲われた挙句、後輩に目撃されてしまった』

「もうそこまで知ってるのか。さすがの情報網だな。正直ムカつく」

『まぁ、それが仕事だからね』

 六錠は舌を打つ。

 その組織の情報網のすごさを知らないわけではなかったが、かなりイラだった。おそらくこいつらは、昨日の六錠の夕飯のメニューすら知っているだろう。それほどの情報が、しかも正確に伝わっている。それが、今六錠が相手にしている組織だった。

『彼女、古手川姫子と言ったっけ? 君の弟子らしいじゃないか。師匠として、今君が置かれている境遇くらいは教えてあげた方がいいんじゃない?』

「あいつは関係ないし、弟子にしたつもりもない。大体軽々しく誰にでも教えられるか。あんたが困るんだろうが」

『僕は確かに、情報の漏洩ろうえいには気を付けてとは言ったけど、そこまで孤立しろとは一言も言ってないよ、扉』

「てめっ……!」

『他のみんなはうまくやってるって言うのに、なんで君はそんなに不器用なんだろうねぇ』

「知ってて言うな! 殺すぞ!」

 思わず、声を荒げる。普通のフクロウなら驚いて飛んでいるところだが、生憎と操られているのでビクともしない。それどころか落ち着いた様子で、自分の翼をくちばしで掻いた。

『君の魔術は、人を殺すための魔術じゃないだろう? 君の魔術は、ための魔術だ。それを忘れてはいけない』

「殺す……てめぇらだけはいつか殺すからな! あいつをあんな目に遭わせたてめぇらは! 絶対に!」

『そのときが来たら好きにするといいよ。が、今はやめてくれ。そんな場合じゃないからね』

「どういうことだ」

『古手川姫子が例の場所に連れて行かれている。どうやら巻き込まれたらしいね。どうするつもりか……まぁ人質くらいが関の山かな?』

 それを聞いて、六錠はフンと鼻を鳴らす。決して信じていないわけではない。奴らの情報網の正確さは、自分がよく知っている。

 だからこそ、焦る必要もない。人質なら、殺しはしないはずだ。狙いはこの六錠扉の首なのだろうから。

『さてどうする、扉』

「何を」

『助けに行くか、行かないか……君はどうしたい?』

 六錠が選択を迫られていた頃、古手川は市ノ川に資料庫に連れて行かれていた。

 学園創立のときから溜め込まれ、様々な情報を蓄積させた資料が集まる。資料庫。だが市ノ川はそれら一切を無視して、最奥の戸棚へと直進する。そしてその中から一冊の本を引き抜くと、その戸棚が動き出し、隠し扉がその姿を現した。

 その扉は引くのでも押すのでもなく、魔力で砕くことによって通路を見せる特別製。それを知っていたのか見抜いたのか、市ノ川はそれを簡単に砕くと現れた通路の先へと進みだした。

 古手川も、それに付いて行く。通路はひたすら階段になっていて、ずっと下って行った。

「こんなところがあったなんて……マナちゃん、いつ見つけたのですか?」

「ねぇ姫子、魔術書って知ってる? この世に魔術を与えた、六つの魔術書のこと」

「は、はい。授業でやりましたから……」

 一五〇年前。

 一人の探検家がとある遺跡で発見した、六つの魔術書。封印も鍵も施されていなかったそれを探検家が開いたとき、世界は不思議な力によって満たされた。

 するとその一年後、特殊な力を持つ人間が生まれ始める。ある者は火を操り、ある者は風を操り、ある者は人形を操り、ある者は大地そのものを操った。

 その力は後に魔術と呼称され、研究の結果、その魔術を使うための力である魔力をもたらしたのが、六冊の魔術書であると判明した。それが、現在の魔術世界の始まりであった。

「そして六つの魔術書は封印されて、今は誰も知らないどこかに保管されている」

「それがどうしたのですか?」

「姫子、あんたその魔術書があったらどうする? この世の魔術のすべてが記されていると言われてるその本が、あなたの目の前にあったら……私は躊躇わない。どんな手を使ってでも、必ず魔術書の魔術を手に入れる」

「マナちゃん……? ——?!」

 市ノ川の拳が古手川の腹部を抉り、減り込む。その一撃で悶絶し、気絶した古手川を抱え上げた市ノ川は、おもむろに取り出した携帯をかけた。

「人質は捕縛した。あなた達は六錠扉の元に向かって。私はこのまま魔術書の元に向かう」

 古手川姫子を連れ、階段を下りていく。そうして辿り着いた最深部の中で一つ、光源となっているものがあった。それは真っ白な本。何重にも鍵がかけられた、白い本だった。

「これが……魔術書の一冊!」

 シマフクロウが飛んでいく。制服に着替えた六錠は寮を出て、学園へと向かっていた。その脚に、急ぐ様子はない。急いだところで、間に合わないと悟っているからだ。

 故に焦らない。動じない。そこにたとえ、総勢三〇を超える人間に囲まれたとしてもだ。対処なら、いくらでもできる。

「六錠扉、古手川姫子を預かった。彼女の命が惜しければ、我々と共に来てもらおうか」

「人質か……そこまでして魔術書の魔術を手に入れて、おまえたちは何がしたい。強くなりたいのか。金持ちにでもなりたいのか。世界を思うがままにしてみたいのか。たしかにあれには、それもできる魔術がある。だがな、自分で身に付けられない魔術ほど、手に負えないものはないぞ……! 雑魚共!」

 このときの彼らの不運は、六錠扉が絶頂に不機嫌だったときに出くわしたことだった。彼らは今まさに、ストレス発散のために用意されたサンドバッグ。その体に拳を突き立てられ、抉られ、一撃で悶絶させられて、意識を持っていかれた。

 総勢三三名を打倒し、六錠はまた歩く。その脚にはまだ、急ぐ様子がない。何故なら人質など、六錠にとっては一番意味のないことだったからだ。

 だってそいつはただ、弟子にしてくれと頼んできた魔術師の後輩に過ぎない。とくに好きでも嫌いでも、どちらかと言えばどちらでもない存在に、何故焦る必要性があるのだろうか。そこまで親しくなった覚えは、まるでない。

——先輩!

 “先輩”。初めて言われた。二年生になって、初めて面と向かって言われた気がする。たしかに新鮮だった。

 だけどそれで? べつに親しくもなんともない。ただそれだけだ。

——師匠!

 “師匠”。これも初めて言われた。人生上、初めてだ。今まで何千何百と魔術師を倒してきたが、自分に憧れてくれる魔術師なんていやしなかった。

 だが、それがどうした。それだけだ。親しくも、なんともない。

 なんともない。

 なんでもない。

 あいつはべつに、六錠扉の何者でもない——はずなのに、走っていた。全速力で、魔力で体力と膂力りょりょくを底上げして、学園へと走っていた。

 学園に着くと上履きに履き替えることなんて忘れて、廊下を走り、階段を駆け上り、そして勢いよく資料庫へと突っ込むと、隠し通路の階段を数段抜かしで駆け下りて、最深部に辿り着いた。

 息を整え、魔力を整え、脈を整え、いつもの冷静さを取り戻す。そこには見たことがあるようなないような、一人の女子生徒が一礼していた。

「来ましたね、六錠扉先輩」

「おまえか、今回魔術書を狙ってる奴は」

「市ノ川真那子と言います。以後、お見知りおきを」

「知る必要はないし、憶えておく気もない。さっさとおまえを倒すだけだ」

「私を? できますか? あなたに」

 背後に、誰かが立つ。その気配を感じ取ってすぐさま振り返った六錠は、その立ち姿に息を呑んだ。

「古手川……?」

 そこには古手川がいた。ダランと上半身の力を抜いて、うなだれたまま立っている、古手川がそこにいた。


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