短篇

葉月 秋

或る面の少女

頬にかかる黒髪と、歪にひび割れた面の向こうに、蒼い瞳が見える。面の所為で表情を伺うことは出来ない。手を伸ばせば届く距離にあるが、触れたらぱたぱたと崩れ落ちてしまいそうだ。


その面は、瞳の人物とは別の「何か」の威圧を纏っていた。


瞳が、僕だけを一点に捕らえている。血と土が混じった口内と、脚の傷口を押さえつけられている痛みの中、彼女の声だけが鮮明に響く。


「お願い、逃げて、」


どこか懐かしい、この声は聞き覚えがあった。だが、何故だか思い出すことが出来ない。自分の実体も、精神も、今は何処か遠くにある様に感じる。思考の低下は命取りであり、このままでは確実に命が奪われるだろうと予感させる声だった。


ーーー逃げねば。何処までも逃げねばならぬ。


自分の命が惜しい訳ではない。ただ、この少女に己を殺めさせる訳にはいかぬと、それだけの生易しい理由であった。


自分を押さえつける手を半ば強引に押しやると、少女はぐらりと揺れ、体勢を崩す。その隙にと自分の身体を引き起こし、痛む脚のことなど忘れ、ただひたすらに駆け抜けた。不思議と、彼女は追ってはこなかった。


最後に見た瞳は酷く、美しかった。

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短篇 葉月 秋 @hatsuki88

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