猪八戒について、一


 ところで、俺は一番大切な事について、すっかり忘れていた。


 俺は、俺自身についてまだ何も語っていない。孫悟空の偉大さや三蔵法師の不思議な習性について語るのに夢中で、肝心な自己紹介を怠っていた。


 まず、俺が生まれた経緯について、話をしなければなるまい。

 俺は元々、天界で天の川を管理する天蓬元帥だったそうだが、その頃の記憶は極めて曖昧である。何たって、今の俺に生まれ変わる前の事なのだから。

 この世の生き物は、皆何かの生まれ変わりであると信じられているが、生前の事を明確に覚えている者は一人としていない。


 天界では重要な役職に就いていた俺だが、どうやら重大なへまをやらかしたらしい。その罰として地上へ落されたのだが、俺が生まれ変わった先は黒豚の胎内だった。

 気が付けば俺は母豚の腹を食い破り、その肉を食っていた。その時はひどく腹が減っていたのだろう、きっと。


 こうして黒豚の妖怪として生まれ変わった俺は、好き勝手に生きた。


 腹が減れば仲間の豚も食い、住処としていた山に入った人間も食った。女の妖怪や人間の女人を何人も妻に娶り、手に入れた財宝を使ってこの世のあらゆる遊びを楽しみつくした。

 面倒な労働は嫌いだったが、この世の楽しき事、気持ち良い事を極めるためならば、俺は暇手間を惜しまなかった。


 俺の自由奔放さと怠惰に、同胞はあっという間に離れていった。しかし、そんなことは特に気にならなかった。

 腹が満ちてさえいれば、俺にとっては十分なのだから。


 欲に生きる事はとても楽しかった。腹が減れば好きなだけ食らい、眠ければ好きなだけ微睡み、美しい女を見つけたら好きなように抱く。


 この世に生を受けて、これほど楽しいことが他にあるだろうか。肉体の欲求を満たすことが、俺のすべてであった。

 すべては満ち足りている。俺はそう信じて疑わなかった。


 しかし――そんな充足した日々に、一筋の亀裂が走った。


 ある日の事だ。

 俺は美味い料理をたらふく食べ、腹を出して眠っていた。いつもなら朝までぐっすり眠りこけているはずなのに、ふと、夜更けに目を覚ました。


 俺は眠気の張りつく目を擦りながら、むくりと起き上がった。屋敷の中は灯が落ち、周囲には空になった皿の影が散らばっていた。月明かりもない夜の空気は、死んでしまったようにしんと冷え切っていた。


 誰もいない。ひどく静かだ。

 それはそうだ。俺が食ってしまったのだから。

 床の上に散らばるものには、山道で捕まえた人間の骨も交じっていた。


 暗い――静寂の濃さに、鼻先がむずむずした。

 真っ黒な大海の真ん中で、ただ独り、ぷかぷかと漂っているような心地がした。


 その時だ。

 ぞくり――と背筋に悪寒が走った。


 何か変わったところがあるわけではなかった。腹は満ちていた。寝床は心地よかった。

 欠けたところなど、何もない。


 それなのに、何だかひどく心細い。背筋が寒い。

 周囲の暗闇が粘度を増して、圧し掛かってくるような気がした。奇妙な不快感に、身体のの硬い毛が逆立っていた。


 こんな感覚は、生まれて初めてだ。いつも快楽で充足する俺の世界に、心細さの入り込む余地などないのに。


 きっと何かの間違いだ。

 俺はそう思い、その夜はもう一度寝床に潜り込んだ。しかし、明け方まで心地よい眠気は訪れなかった。


 しかし、その正体不明の感覚は、その夜だけでは終わらなかった。

 それどころか、むくむくと入道雲のように膨らんで、終始俺の心にまとわりつくようになった。


 どんなに食べて腹を膨らませても、満足しない。どれほど柔らかな寝床でも熟睡しない。どんな絶世の美女を抱いても、心がひもじい。

 歌っても楽しくない、踊っても愉快にならない、何杯飲んでも苦しみが癒えない――


 まるで、飢餓だ。

 あんなに俺の心をときめかせてきた楽しき事の数々が、まるで俺を満足させぬのだ。眼に映る世界のすべてが灰色に変わり、常に耐え難い渇きが俺を苛んだ。


 ある時、俺は山中に住まう老医師にかかった。齢五百年を生きる、古猪の医者だ。

「これは何かの病に違いないから、治してくれ」――そう懇願したのだが、医師はため息を吐いて、


「お主は病などではない、いたって健康だ。肉体ではない、心が満たされておらんのだ。心が満ちねば、お主の渇きは癒えまい」


「これは儂の手には負えぬ」と、老いた猪は艶のない鼻先を振るだけだった。

 俺は腹が立ったのと減ったのとで、その老医師も食ってしまった。


 心が満ちるとは何だ。今までは腹が満ちれば、心も満ちた。それの何が間違いなのか。

 生きている者は皆、食うために生まれ、楽しむために食うのだ。

 それなのに、食っても満腹にならないのは、どういう事か――俺は老医師の言葉がちっとも理解できなかった。


 飢餓が長引くほどに、俺は荒れた。

 飢えは苛立ちを生み、苛立ちは獣性へと変化した。俺は夜な夜な山を下りては人家を襲い、人も家畜も手当たり次第に食べた。食べるという行為そのもので、内なる渇きを紛らわせようとした。

 そうしている内に、俺は人食いの化け物として恐れられるようになった。


 満ちぬ、満ちぬ、まだ満ちぬ――


 満たされぬ地上はただの地獄だ。

 俺は満たす術も分からぬまま、この世を彷徨い続けた。

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