第2話 惹かれしもの




━━すべてに疲れた、希望なんてないのよ



無意識に歩いていた先に現れた古ぼけた、時代に取り残されたようなアパート。柱には錆が目立つ。

吸い寄せられるまま、ある一室のドアノブに触れる。……鍵は掛かっていなかった。


開くと、ふわっと風が通り過ぎる。


その部屋もまた古めかしい。色褪せた畳に紐で括られた本が無造作に積まれ、唯一の机は文机。


その上に、一冊の本だけが置かれていた。


思わず手に取る。優しく脆い肌触り。やぶらないよう、丁寧に開く。

そこには、ちょっと古めかしい文体の人が書いた柔らかい文字が綴られていた。

昔の文体ではあっても、平安時代などの古典的なものではない。

ゆっくりと頭の中で反復しながら、読んでいく。





『陽射しは優しく照らすが、私の心はいつも暗雲立ち込める。まるで草木のやうに、私の心は枯れゆく。』


鬱々とした文章が延々と続いていた。私は本を雑多に読むけれど、こんなにも暗いものは知らない。日記、なのだろうか。

一頁一頁、数行の日常を型どったもの。でも、何故だろう。風景と自分のことしかない。

独りぼっち……?まるで私だ。周りに溶け込んで、空気のような私のよう。


『世に蔓延る作品は歌会に参加する躍動感に溢れた者ばかり。私のやうな代わり映えのない者は消えてゆくだけもやむなし。』


優しい文字が、哀しげに見えた。


『人嫌いな私は誰に知られることもなく、儚むもやむなし。』


この人は人嫌いとは言うけれど、ただ人見知りなだけなのではないだろうか。何でも諦めすぎだなと思いつつ、頁を捲る。

自分もまた、諦めるばかりで何も出来てはいない。


どんな風貌の人が書いたのだろう。そっと瞳を閉じて物思いに耽る。





瞳を開くと、少し明るい。ほんの一瞬だったはずだ。しかし、私の手にあの本はない。

どこかに落としたのだろうと、慌てて視界を下に移した時だった。


目の前の文机の前に人がいた。普段着使いの着物に、黒い短髪の少し骨張った痩せ型の男性。

頭を掻きながら、本に鉛筆を走らせている。

気取った風もなく、ただただゆっくりと鉛筆を走らせている。


書いている本はたぶん、あの本だろう。

きっとこれは夢、私が望んだ夢なんだ。

だから、思ったまま話し掛けた。


「……こんにちは。あなたの描く世界が好きなんです。その世界を知りたくて来てしまいました。」


夢の中じゃたかが知れている。そう、思っていた。


「……ん?どちら様?私の世界……?」


ピタリと動きを止めてこちらに向き直る。

低くもなく、かといって高いわけでもない落ち着いた声色。

顔は夕陽が逆光で邪魔をして、わかりにくい。

でも、少し痩せた頬に優しそうな口許が私の心臓を跳ねさせた。

不法侵入で騒がれるわけでもなく、書いていたときと変わらない穏やかな仕草のまま。

人嫌いと何度も綴っていた人には思えない。

やっぱり、人見知りなんだと思った。


彼はそのまままた、文机に向かう。人が侵入しても、害がないと思えば気にしないようだ。

ある意味、危険だけれど。

私は手持ち無沙汰になっていた。覗き込むわけにもいかない。

ふと、後ろ側に少し暗いキッチンが見えた。必要最低限、それ以下のものしかない。

そっと小さな古びた冷蔵庫を開けてみる。

……乾燥し始めている人参と玉葱とじゃがいも。逆文字の色褪せたコンソメの箱。開封されてすらいない。

冷蔵庫の隣には、買うには買ったらしい茶袋仕様のお米。

シンクの上には、無造作に置かれたお茶缶と旧式ヤカンと小さめの鍋と土鍋。

炊飯器なんて、文明の利器はない。


私は水が出ることと、使われてないことが幸いした包丁片手に腕捲りをした。

野菜は皮を剥いたらぶつ切りにして、備蓄が(ある程度)可能なコンソメで簡単な野菜スープ。あとは温野菜しか思い浮かばないからこれしかない。

お米は洗うものがないので、直接土鍋を使って洗う。計量カップすらないから、すべて目分量。

ヤカンで湯を沸かし、茶渋だらけの湯飲みを洗った。急須の茶渋もしっかりと。


(生活臭がない。あの人、いつから食べてないの?でも、何か変……。)


夢だと思っていた。けれど、触れるもの触れるものがあまりにリアル過ぎる。ふわっとしてるのは、あの人の対応くらいで。

何だか、放ってはおけないという思いに駈られた。


出来上がるまでに、茶碗やら箸やらを発掘する。ついでにお盆も。

一応一式あったが、埃だらけで洗った。とにかく洗った。


(ヤバい!ヤバい!絶対ヤバいって!あの人、ぽっくり逝っても気がつかないくらいヤバい!)


このお宅、昔の和式トイレとキッチンとあの和室しかない。外に出なさそうな人だ。どれだけお風呂に入っていないのだろうか……。

出来上がった簡素な食事をお盆に乗せて持っていくと、本を寄せてくれた。


「これは美味い。これは実に美味い。」


嬉しそうに食べる姿は可愛かった。


(空きっ腹だったんでしょうからねぇ。何でも美味しいわよ。)





夜になると視界が暗くなり、すぐにまた明るくなる。これには違和感を覚えた。

それ以外は何もない。ただ過ぎ去る日々が緩く、早送りであるかのような感覚。


私はやることがないと、彼を見つめることが多くなった。穏やかな気分になれる時間。

すべてを忘れて、ずっとこうしていたい……。

けれど、夜がくればハッとする。


そんな日々に変化をもたらしたのは、まさかの彼だった。

ふいにこちらに向く。またも、夕陽が邪魔をして、はっきり風貌が見えない。


「私と一緒になってくれまいか。」


私は確かに彼に惹かれていた。でも、それは受けてはならないプロポーズ。夢だからいい、そうは思えなかった。今受けてしまったら、何かが変わってしまいそうで。


「私は、あなたが、あなたが見ている世界が好きなんです。……あなたにただ逢いたかっただけ、なんです。」


苦し紛れの応え。応えになっていないことはわかっている。でも、今の私の精一杯だった。





……指折り数えた。彼が臥せってしまったから。

たぶん、彼はもう……。諦めなくてはならない。だけど、諦めたくない。


「何でないの?やっぱりここは……。」


。私にはどうにも出来ない。あちらならば、薬だって市販品で済む。でも、この時代はそれすらままならない……。

私は彼の死を感じた。


「私はただ、あなたを知りたかっただけでした。……なのに、苦しいんです。こうなることはわかっていたのに。」


書けなくなる瞬間まで、文机にかじりついていた。すべてを懸けて描く、自らのこと。

なんて強く、脆い人なのだろう。涙が止まらなかった。

だから、伝えよう。最期だから……。


「さよなら。あなたが好きでした。」


絞り出したその瞬間、私の視界は光に包まれた。

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