この手、繋いだならきっと・エピローグ






 日曜。

 まだ梅雨は抜けていないはずだというのに、よく晴れていた。

 日差しは厳しいものの、もう傾き始めている。街を行き過ぎる風が湿気を払い、比較的心地好いと言ってもおかしくはない。

 諸角藍佳は歩道を歩きながら大きく伸びをした。手には紙袋が一つ。修介の服を買って来たのである。

 当の修介は<伝承神殿>だ。本当に買い物が大嫌いなのだからどうしようもない。

「まったく……修ちゃんってばあたしがいないとなんにもできないんだから」

 上機嫌で、藍佳。

 この言葉に元より悪意はない。何でもしてあげたいという気持ちの表れである。そのためには何もできないでいてくれた方がいいわけで、少なくともそういうことにしておきたいのだ。

 自分には修介が必要だ。処刑人が言ったことはまったくの間違いでもないと藍佳は今になって思っていた。今なら大抵のことは素直に受け入れられそうな気がした。

 こうもすっきりした気分なのは、やはり想いを確かめ合ったからだろう。好きだと互いに言ってはいないが、ある意味それ以上のことは口にしたし、何より剣乙女ブレイドメイデンの契約が成されたという事実が揺るがぬ証拠となる。

 これからどうしよう。一緒に行きたいところはたくさんある。<横笛フルート>の件が片付くまでは忙しいかもしれないが、それが終わりさえすれば時間はたくさんあるはずだ。

 ひとまず計画だけは立てておいてもいいかもしれない。暇ができたならすぐにでも行けるように。平常運転に戻りさえすればステイシアが何かを言うとは思えないことであるし。

 しかし、どこへ行くにしても費用がかかる。<魔人>の身であからには、そこそこの距離であれば密かに走って行けないこともないだろうが、それでは雰囲気も何もあったものではない。

 やはり、たとえば二人向かい合って列車に揺られながら、移り行く景色に他愛もない話をするのだ。どうせ修介はすぐに飽きるだろうけれど、そこで自分が文句を言って、不承不承ながらも修介もまた口を開いて。

 遊園地。行きたい。

 海。行きたい。

 山奥の清流なんかも雰囲気があるだろう。

 泊まりで温泉。恥ずかしいけれど、それも行きたい。

 しかしいずれにしても先立つものは必要である。女の身では日雇いの力仕事というのも目立ち過ぎて行きづらいので、ごく普通のアルバイトになる。そうなると身許を何とかして誤魔化さなければならなくなることが少なくない。

 修介にも少しは稼いでもらおう。二人の時間、思い出を作るためなのだからそれが当然のはずだ。今までは強くなることばかり考えていたのだろうが、これからは自分が剣として力を貸せるのだし、余裕は持てるはずである。

 足取りは軽い。腰の後ろで吊るした御守りが揺れる。

 明日が煌めいている。こんなに幸せでいいのかと思わずにはいられない。

 鼻歌とともに緑豊かな公園に入る。少しだけ近道になるのだ。

 何日も青空が続いているとはいえ、蒸し暑いのは変わりなく、人の姿はない。

 いや、ひとつだけあった。二十代半ばと思しき青年が一人、携帯電話で話をしながらこちらへと歩いて来る。営業か何かだろうか、清潔そうで爽やかそうで、笑顔が好ましい。

 少し、修介にも見習ってほしい。いや、修介はあれでいいのだけれども。

 買って来た服を見せてもどうせ感謝などしてはくれないのだ。

 小さく、どこか笑みの混じった溜め息をつく。

 距離が近づいて青年の声がはっきりと聞こえるようになった。

「ん……あ、切りますね。本格的な報告は帰ってからということで」

 そう言って携帯電話を仕舞い、擦れ違う。

 否。

 擦れ違うことはついになかった。
















 弱い冷房が頬に触れる。

 いつもの喫茶店で、いつもの面々。マスターも相変わらずの仏頂面だ。

「最近、手相に凝ってるんです」

 うずうずとした顔で、春菜がそんなことを言った。

「へー! 先生とかいるんですか? それとも本?」

「ん……本、かな。いくつか組み合わせてみたりして。梓ちゃんにも貸してあげようか?」

「ほう」

 横から顔を突っ込んで来る喧しいのは置いておいて、雅年は穏やかに頷く。

 手相に関する知識はない。系統としては統計学が近いのだろうが、果たしてまともに調べられたことがあるかどうか。経験則を軽視するつもりはないものの、素直な気持ちとしてはあまり信じる気になれない。

 しかし凝り過ぎなければ構いはしないだろう。特に注意をするほどのこともない。

「そうだ、見させてもらえませんか?」

「どうぞ」

 だからその頼みも二つ返事で承諾した。

 春菜は差し出された雅年の無骨な手をとり、生命線が感情線がと難しげな顔で嬉しそうに呟き始める。

 その様子を雅年は目を細くして見守る。ピアノを弾いていた長い指の這うのが少しばかりこそばゆい。

 幼い頃、この世でただ一人、自分が守ってやることのできる存在なのだと思った。自身よりさらに小さな手をとれば、何とでも戦えるような気になれた。

 いつかは離すべきとき、離さなければならない日は来る。そうでなくとも、本当であれば既に分かたれていたものを、こうして浅ましくしがみついているだけなのだ。

 しかしいずれにせよ、まだ先のことであるようだ。だからその瞬間が来るまではこうしていてもいいだろう。

 願いの果たされる、その日までは。
















「今回の諸々の交渉や検証により、様々な利益と知見を得ることができました。実に喜ばしい。え? 僕が勝手に動くのはいつものことじゃないですか。<闇鴉アンドラス>さんだって好き放題ですよ?」

 青年が語る。

「ともかくですね、まずは<闘争牙城>のチャンピオン以下血気溢れる六名、もはや『決闘』を受けてもらえなくなってしまった彼らを<横笛フルート>の仲間に加えることができました。皆さん一応、上位戦格クラス双格並列デュアルかつ高位のクラウンアームズ所持者ですよ。何より戦闘経験豊富だ。我は強いですけどね」

 朗々と語る。

「次に<闘争牙城>を一時的な避難場所にできるか否かですが……止しておいた方が無難でしょうね。樽鱒君の尊い犠牲により、逃げに走ると死んでしまうことが実際に証明されました。前向きに心を置いていれば大丈夫かもしれませんが、仮にも逃げ込むという行為をいつまでも<天睨>のイシュが見逃してくれるはずもありません」

 滔々と語る。

「そういえば<闇鴉アンドラス>さんがやられてしまったのだけは予想外の予定外の想定外でしたが、まあ、<呑み込むものリヴァイアサン>の戦力を見直すきっかけにはなりますか」

 本当に淀みがない。

「最後に神官派のズルチート。以前よりの観察によって得られた分も考慮しますと……まず、神官派領域内に限られ、かつ対象は<魔人>のみでしょうね。ただの人間を目標として動いた形跡は一度たりとも見かけられませんでしたし、普通の探偵を雇って行った情報収集にもまったく反応しませんでした」

 割って入ることすら難しい。

「次に、どんな条件で捕捉されるのか。神官派領域内に入ったら? 違いますね、それなら初手から神官派の一方的展開になっているでしょう」

 青年は独り言を言っているわけではない。

「更に一定の期間が必要? これも違います。領域内に入って早々に事件を起こせばあちらも早々に確実な対応をとって来ますし、何ヶ月も住んでいる<魔人>を暴発させてもやはり初手だけは後手に回ります」

 携帯電話に模した特製の連絡装置に語っているのだ。

「では引鉄トリガーは何なのか。事件を起こす? 抽象的で曖昧、いまいちですね。閾値を越えて大きな力を使う、あたりが無難なところではないでしょうか」

 その相手も辟易したように唸るのみだが。

「とはいえ、それだけとは限りません。条件が複数存在している可能性は高い。怪しいのは……接触でしょうか」

 しかし青年は気に留めない。

「既に補足済みの<魔人>との接触……は考えにくい。それならあっという間に次から次へと捕捉できてしまいますからね。あるとすれば、神官派メンバーとの接触」

 笑っている。

「他にも色々考えられるのですが……それこそ向こうさんに答えてでももらわないことには、除外はできても確定はできない。いけませんね、これは僕にとって実によろしくない」

 優しく朗らかな、人好きのする笑顔だ。

「僕のような凡人は判らないことがあると不安に怯えてしまう。あるいは甘えが生じて、事実ではなく自分の信じたいものを信じてしまう」

 声も聞きとり易く、誰しもが好ましいと思うだろう。

「そこで考えたのです。どんな条件によって捕捉されるのか判らないから困るのです。既に捕捉されていると判っていれば解決するのですよ。ん……あ、切りますね。本格的な報告は帰ってからということで」

 青年は装置を仕舞うと、魅力的な笑顔のまま、擦れ違おうとした少女に宣告した。

「そんなわけで死んでください。神官派領域内で構成員を殺せば、いくらなんでも大丈夫ですよね」

 同時に、炎を宿した左手を少女の腹に突き入れる。人気がないとはいえ火柱など上がっては困るので、確実に貫いたと確信した時点で火は消したが。

 少女はきょとんとした表情を見せた。凛々しい顔立ちだが、可愛らしいものだ。

 そして苦悶に歪み、抗おうとして、すぐに絶望へと染まる。

 <闇鴉アンドラス>によって死ぬ寸前まで追い込まれていたのだ、そこからたった二日でこの不意打ちに耐えられるほど、この少女が回復していないであろうことは経験から知っている。

「幸せでしたか? でも残念、<闇鴉アンドラス>さんが言っていたでしょうに。絶対に手を離してはいけない、と。あなたたちが悪いのですよ?」

 二人揃っていても勝てる。けれど、ほんの僅かにだけ粘られてしまう可能性も出て来る。そうすれば加勢が現れないとも限らない。となれば狙わなかったろう。青年はそういう男である。戦わず、陥れ、嘲笑い、殺すだけ。

 しかし今、少女の死は確約された。されると分かっていたから、こうやって殺しに来た。

「やだ……やだ……」

 ぽろぽろと涙をこぼしている。

 悔しいだろう。希望に満ち溢れていたに違いない。分かり合い、想いを確かめ合い、明日を信じて疑わなかったに違いない。

「やっとなのに……これからなのに……」

 死した<魔人>は欠片も残らない。既に消え始めている。

 即座に、ではないのは情念のせいだろうか。

「助けて、助けて修ちゃん…………助けて……!」

 震えながら伸ばした手は、そのずっと先にいるはずの愛しい幼馴染に向けたもの。

 その手を青年は叩き潰す。幻想に縋るだけの希望であっても踏み躙らずにはいられないのだ。

「では諸角藍佳さん、さようなら。せめて神野修介君も早めに死なせてあげましょう」

 僕って慈悲深いでしょう? そう言わんばかりの優しい笑顔でもう一撃。

 それがとどめとなった。燐光となって、少女は消えた。

 ほんの二十数秒のこと。見る者もない。

 しかし光すらも消えた後、御守りだけが孤独に地面に落ちていた。

 <魔人>となるよりも遥か以前からの持ち物だったのだろう。そういった物品は<魔人>の消滅に巻き込まれることなく残ることがある。

「おやおや」

 人好きのする微笑みとともに御守りを拾い、折角なので中身を検める。これで捕捉されたに違いない以上は可及的速やかに神官派領域を逃れなければならないのだが、嗅覚が愉しそうな匂いを嗅ぎつけた。

 入っていたのは折り畳まれた一枚の古い紙。幼子のつたない字で願いが記されている。

 さすがに堪え切れなかった。

「……イヒ」

 青年は、<無価値ベリアル>は声を裏返して笑った。

「ひひひひひ、うひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!!」

 およそ人にこれほど邪悪な笑顔ができようとは、一体誰が思うだろう。かつてこれほど歪んだ歓喜の表情を描くことのできた芸術家などあるまい。

 狂ったように笑い転げ、やがて<無価値ベリアル>は握り潰した紙を空へと放り上げた。

 音を立て、発火する。

 幼けない願いが焼き尽くされてゆく。

 色のない、陽だまりに身を預けた午睡のような、あどけない願いが消されてゆく。




『しゅうちゃんとずっといっしょにいられますように』




 もう、決して叶うことはない。





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