未開の世界の最寄りにて

 陽の光が全く届かない暗闇で、音が鳴った。咳き込み、あえぐ音、土どうしがこすれ、あるいは、ガリガリと削る音。

 断続的に鳴っていた呻き交じりの音は数秒の間、止む。衣擦れの囁き後、突然、どこからか現れた小さな光源によって、わずかに闇が退いた。吹けば消えてしまいそうな火に照らされていたのは、樹にもたれながら座り込んでいる立脚類、赤い鱗を身にまとう竜だった。

 疲労の色が見える彼女はまず、左手の平に浮かぶ火を使い、できる限り周囲の状況を確認した。あるのは太い木の根、豊かそうな黒い土と、苔ばかりだ。憎々しげに天井を見上げてみるものの、闇をたたえるばかり。

 一度深呼吸をした竜は、自身の体を確認し始める。その途中、着ている紫の衣の右肩から先の部分を、左手の爪を立ててやや強引に切り裂いた。右肩の真ん中にある、穿ったような傷に入り込んでしまった布地を認め、舌打ちする。

 その際に視界に入った右手。親指を除く爪、すべてが半ばより根本で断面をさらしており、乾いた赤黒い塊ができあがっていた。

「あの兎……次会ったらただじゃおかない」

 苛立ちを見せつつ、自身の状態を把握した竜は、一度火を消し、左手で地面を押して立ち上がる。

 改めて右手で光源を確保した彼女は、懐から二冊の本を取り出す。ぼろぼろの古びた本と、真新しく見えるが、いくらか傷が目立つ本。柔らかく微笑みつつ、古びた方を戻し、新しい方を左手にかかえたまま歩き出した。

 道なき道。自然の作り出した迷宮。根っこの壁が、人間や獣と比べ大きい体格の彼女の行く手を何度も阻んだ。

「世界樹、よね。こんな太い根っこ、世界樹以外考えられないし」

 根のアーチをくぐり、時としてかがんで隙間を通り抜ける。複雑に絡み合った樹はどこまでも続いており、出口にも、ゴールにもたどり着くことはない。

 一歩、震える足が、どこに続くかわからない道を踏む。

 先を照らしてみても、同じように続く道。

 ゆっくりとした、荒い息遣い。

 慎重に歩を進める。


 ラクリが歩き始めて、それなりの時間が経過していた。時折立ち止まり、休憩を挟みながらふらふらと歩いていく。

 先ほどまで根っこばかりだった景色に、誰かのいた名残があちこちに現れる。石のようなもので作られた壁のようなもの。朽ちたテーブルの上に乗っている皿。倒れた椅子に、本の詰まった本棚。

 自前の本を脇に挟み、火種を浮かばせつつ視界の隅に入ったそれに近づき手を伸ばす。半分の爪で背表紙をひっかけただけで、ぼろぼろと形を失うばかりで彼女の手に入ることはない。

「ここは何? なんで、こんなところに世界樹が?」

 遺跡を覆うようにして、世界樹が生えている。

 植物が遺跡を飲み込んでいること自体は珍しいことではない。実際に、そこから遺産を掘り出し、用途を見出すのが市場でも職業として成り立っている。また、手つかずの遺跡には生活の名残が存在することも珍しいことではない。使えるようなものはないが、遺産の採掘に、過去の究明を志す者もいる。

「世界樹しか、ここにはなかったってテレアが……」

 荒地と草原と樹海の中心に、一本だけ青々と茂る世界樹だけがぽつんと立っていた。誰もいなければ、道もない。ただの、大きすぎる樹だけがあったのだ。

「市場とかと、同じだけの文明が、あったって、ことよね。なんで、ここに」

 今度は本を掴もうとして、右手の中で崩れていく紙片。カサリと足の甲に落ちる枯葉を眺めていた紅竜は尻尾をしなやかに動かし、払った。ふわりとも舞うことはなかった。

 本棚を前にたたずむ彼女のいるこの空間に、土を踏みしめる足音が響き始めた。

 ザザッザザッ。連続した足音は次第に大きくなり、遮るものはなくなる。ほぼ同時に、誰だ、と男の声。仄かな明かりに気づいたらしい彼に、目を細めるラクリはゆっくりと振り返った。

「そっちこそ、なんでこんなとこにいるのよ」

 闇を照らしていた、小さな魔法の火と、男が掲げる遺産から放たれている明かりが混ざる。互いの存在が初めて照らされ、二人の姿があらわになった。

 髭を生やした人間の男と、黒い羽毛に覆われた鳥の獣、カラス。

「あんたら、この前、会ったわね。こんな偶然、あるもんかしら」

 睨むように目を細めながら、ラクリは彼らをじっと見つめる。二人とも革製の鎧など、身軽に動ける装備を身に着けており、カラスの方はさらに、背中に大きな鞄を背負っている。

「こんなところで顔見知りと出会うとは……あなたのような竜が、なんでこんなところに?」

 いざこざに巻き込まれてね、と答えたラクリは右手の明かりを彼らに近づけ、じろじろと彼らの姿を観察し続ける。対する男は自らの持つ灯り、穴の開いた桶のような遺産を、二人の間にあったテーブルに置いた。ギシッときしむ家具は崩れることなく遺産を受け止める。男の後ろのカラスは二歩、足早に仲間の元へ近づいた。

「それは災難だったな。あのときのお礼に、応急処置でもやらせてくれないか?」

 倒れていた椅子を立て、体重をかけ始める男は見事、四本の脚を半分に折ってしまう。粉塵の舞う中、他にも並んでいる椅子も見てみるが、どれも同じように、朽ちているようだ。

「遠慮しとくわ。もう、塞がってるし」

 少しの間をおいての回答に、それは残念だ、と男は遺産に手を伸ばすが、何かを思いついたかのように近くにいるカラスから鞄を奪い取り、あさり始める。

「で、こっちもおんなじことを聞きたいわ。なんで、あんたたちはここにいるの?」

 火を持ったまま、テーブルを挟んで反対側に立つ竜に、カラスが嘴を開いた。

「ちょっと、散歩してたら脇道を見つけてね。それから、迷ったんだ。方角はなんとなく、分かるんだけど……ああ、おれはレヴト、こっちはトートさ」

 二人の名を反復して、脇道ね、と小さく続けから、名乗る。ちょうどそのとき、男、トートが持参品から取り出したのは、市場で購入できる携帯食料である。

「んじゃ、せめてこいつを受け取ってくれ。腹、減ってるだろ?」

 間髪置くことなく、ごめんなさい、と繰り返し断られた男は肩をすくめて、分かったよ、とそれを懐にしまう。

「トート、彼女も連れて地上に出よう。こんなところにいたら飢え死にだよ」

 レヴトの一声に同意する男は遺産を拾い上げ、鞄と共に彼に押し付けた。ためらいもなく受け取ったカラスは、二人ともついてきてね、と闇を払いながら振り返り、進み始める。

「ここから出るまで、よろしくな」

 明るい笑顔のトートに、冷たく生返事を一つするラクリ。

 荷物を持ちであるレヴトを先頭に、限られた視界を絶え間なく見渡すトート、静かに彼らの背中を見つめるラクリ。闇ばかりの世界で、列をなしながら口数少なく、三人は世界樹の根をくぐっていく。


 こっちかあっちか、と移動しているうちに、彼らは開けた場所に出た。これといった遺跡、家具もなければ当然、根っこも出口もない。最後尾を歩き、沈黙を続けていたラクリがとうとう、苛立ちと共に口を開く。

「本当に、入ってきた方角を覚えてるんでしょうね? ふらふらしてるようにしか感じないんだけど」

 傷だらけの本をパタパタと鳴らしながら立ち止まる。続けて深いため息をついて、静かに二人を制止する。

「少し、休まない? 本当に出口を知っているのか、こっちが聞きたいし」

 トート、レヴトの順に、踏み出していた半歩を止めて振り返る。

 そうだね、と柔らかい物腰のレヴトが足元に遺産をガチャッと置く。続けて鞄を乱暴に下ろして開く。大した時間もかけずに二本の水筒を取り出し、両方ともトートに渡せば、受け取った彼はうち片方をラクリに投げてよこす。もちろん、不意を突かれた彼女は受け取り損ね、ゴトッと大きな音が足元で鳴る。

 謝りながら足元に落ちた水筒を拾い上げ、蓋を開くと、飲み口に鼻を近づける。ほかの二人が先に仰ぐ姿を確認してから、続いた。あっという間に、飲み干してしまう。

 ようやく、張りつめていた彼女の表情が緩んだ。空になった水筒を下ろし、目を閉じてゆっくり、ゆっくりと息を吐く。

 音がする。何かが空を切り、続けて金属が擦れる音。

 ラクリが目を開くと、ヒュンと風を切る音がした。その方向を見やるとレヴトが彼女に向けて右手を向けている。同時に、トートが接近し、短剣を降り下ろす数瞬前であった。竜は自身に向けられたそれが何であるか確認するよりも先に、彼の腕を下ろさせまいと左腕を上げて軌跡を妨げる。

「……いきなり、何? 怪しい奴ら、とは思ってたけど」

 喉をグルグルと鳴らしながら、トートの体を力任せに払う。バランスを崩した彼は転がりながら遺産の光の外に消えた。舌打ちをしたラクリはレヴトの方を見やると、その翼を模したような手に魔力が集まっていることを認める。何度も空切る音が暗闇に響いたかと思うと、ラクリの右肩の鱗が割れ、刃物で斬られたような傷が現れる。

 だが紅竜は肉体の損傷を一瞥することもなく牙を剥く。再び、ゆっくりと呼吸をする。吐息をうすら白く立ち上らせ、舌を躍らせながら、じっとカラスをにらみつけた。

「悪い、ラクリさん。何も知らずに死んでくれると助かるんだけど」

 怒りを浮かべる彼女に、レヴトは行け、と叫びながら再び魔法をけしかける。冗談じゃない、と応じたラクリは空中にいくつもの石を作り出して飛ばす。同時に右足を軸に反転すると尻尾がぶんと宙を斬る。ちょうど背後を取ろうとしていたトートの体を掠め、あぶねぇな、と見開かれていた目と視線がぶつかる。

「抵抗するのか? 二対一だぞ?」

 ラクリが再び、明かりを灯すと、肩をすくめている人間の男がいる。

「もし俺たちに協力して、かつ渓谷に与するなら、助けてやらんでもない。樹海から進軍する案内人は貴重だからな」

 空を切る音。わずかに遅れて、竜と鳥の間でバチンバチンとつぶてがはじけていく。

「交渉もなしに、斬りかかってくるやつらの台詞とは思えないわね。兎といい、あんたらといい、売ってくるなら買って潰すだけよ!」

 兎、の一言にトートが舌打ちをする。次の瞬間、竜の羽織る衣の背中に斬られたような大穴が開く。遅れて、彼女の顔に苦痛の色が浮かび、血が流れだす。人間はその隙を逃すまいと短剣を握りしめて踏み込んだ。

 世界樹の深淵に絶え間なく風が吹いている。レヴトが魔力を操りラクリへと向けているが、すべてが命中するわけではない。彼女は迫るトートの放つ上方向への斬撃を左腕で受け止める。残っていた衣ともども前腕の中ほどを裂かれ、彼女の鋭い牙が噛み締められる。

 損傷を示す液体とともに、きらきらと輝くものに紛れ、そこにしまわれていた本が落下する。人間が自らの攻撃の成果を確認しているわずかな間に、竜はわずかに頬を吊り上げる。

 暗闇の中に舞い落ちる星の輝きごしに、彼女は右手を開いて突き出した。男はとっさに身を引くが、人の体などたやすく切り裂くことのできる爪は、途中でぴたりと停止して拳を作る。本は自由落下を続けており、バサリと着地する頃には、竜は改めて身を反転させ獣と向き合っていた。

 尾で攻撃を仕掛けるわけでもなく、獲物の無視するような行動に、人間は不快そうに眉間にしわを寄せる。ぱっくりと口を開けている傷口めがけて、先ほどよりも鋭い軌跡が描かれ吸い込まれていく。

 トートの突きが、その体躯に届くことはなかった。代わりに、ガリッという音と硬い感触のみが伝わる。闇の中でもなお輝く壁がラクリとの間に突如現れ、阻んだのである。

「っんだよこれは!」

 悪態をつきつつ数歩飛び跳ねて距離を取る男はじっと、突如現れたきらめく壁をじっと見つめる。これ自体が光っているわけではない。紅竜の背後を守るようにして、透き通った結晶が規則正しい模様を描きながら、円状に広がっている。遺産のわずかな光と種火を捻じ曲げながる、見るからに割れそうな障壁。トートは足元に転がっていた手頃な石を拾い上げ、思い切り投げつけた。

 軽い音を立て、結晶は弾いた。

 竜は獣と向かい合う。背後の人間のことなど、もう歯牙にかける様子もない。

「ねぇ、レヴト。ここは、何? あんたの知ってることを言いなさい!」

 肩の傷口が開いている右手で拳を握り締めながら、左手の本を赤く濡らしながら。

「知ったところで、どうするんだい? 世界樹を燃やすための工作しているんだ、と言えば、満足するの?」

 そんなわけないでしょ、と焦点の揺れる彼女の背後で、結晶がパキパキと音を立てた。

「じゃあ、こう答えよう。世界樹の王の弱みを、欲しがってるやつらがいるんだ。おれたちは、その刺客。というのはどうだろう」

 肩をすくめた後、両腕を前方に伸ばしたレヴトは魔力をかき集め始めた。二人の間の空間めがけて、風が吹き荒ぶ。じめじめとした埃っぽい空気が舞い上がり、樹皮の破片が紛れる。

「そう。何も、知らないのね。なら、私が生き残って、調べるだけよ」

 空間を音が支配した。レヴトの方向から幾度も風が刃となってラクリへと向けられる。トートはいつの間にかカラスの脇に立っていた。

 ラクリは大きく呼吸しながら、左手の本を手放した。火種が消える中、静かに、敵を見つめた。同時に、背後にあった障壁が彼女の前方に音もなく移動し、魔法を阻む盾となる。刃を弾くのと同等の音を耳にしながら、紅竜は人間と獣を改めて睨む。

 右手の拳を開くことなく、突如両手を地に着けて駆け出す。盾の陰に隠れながら。四脚類が駆けるかのように、寸分たがわぬ動きで距離が詰めていく。同時に、鳥に近づけば近づくほど、盾はミシミシと音を立てながら魔法を弾いていく。

 肉弾戦に持ち込める距離の手前で、魔法による攻撃が緩んだかと思うと、人間が割り込んだ。彼女の突進を受け止めるわけではなく、盾の中央に蹴りを叩き込んだ。するとそれは結晶となり、あたりに飛び散る。

 幻想的な光景。火を思わせる光が乱反射し、地底に輝く。

 キンと耳が痛くなるほどの音が響いた。それが合図だったのか、数多の魔力の結晶が命を得たかのように成長を始めた。

 あっけなく壊れた盾に面食らい、体勢を整え向かってくる竜の前に立ち塞がろうとするものの、周囲の異変にようやく気が付く。植物のように、破片一つ一つが好き勝手に伸びているものの、すべてが男の方へと背を伸ばしており、みるみるうちに男の可動域を狭めていく。

 固定されているかのように動かぬ結晶から、どうにかして逃れようとあがくものの、みるみるうちに、拘束されていく。やめろ、と叫びながら鳥の方へと手を伸ばす。しかしきらきらと輝く結晶は木のような形をとり、幹にあたる部分に彼を閉じ込めてしまった。

 その光景を目の当たりにしたカラスは遺産を素早く拾い上げて下がろうとする。しかし結晶が体に刺さっていくのも構わず突進を続けていた竜が木を跳ね飛ばし、鳥のもとへと到着する方が先であった。

 二つの体がぶつかり、カラスは飛ばされた。遺産が音を立てて転がり、空間が何度も点滅する。

 標的の沈黙に、崩れ落ちるかのようにして停止した竜。先ほど以上に荒い呼吸を続けながら、両拳を地面に手をついていた。呻きを上げつつ起き上がろうとしたカラスを視界の隅に認めた彼女は、握っていた右手を開いて土を思い切り叩く。

 するとそこから現れた結晶がパキパキと音を立てながら敵へと接近し、捕食した。腕と足を拘束したのみだったが、彼はバランスを崩して再び倒れこんだのだった。もちろんトートと同様、脱出を試みるものの輝く帯を破ることは叶わない。

 彼がラクリをじろりと睨んだ。わずかに遅れて、ヒュッと魔法が風を生む。彼女の首を狙って放たれたそれはトートの意思に反して、瞬時に展開された真っ赤な壁に阻まれ、かき消された。

「諦めなさいよ。トートみたいにされたいなら、望みどおりにしてあげる」

 紅竜の鱗とも血ともつかぬ盾は結晶を成したまま、肩から生えていたそれはぽろりと落ちた。これまでとは異なり、あっという間に赤は風に吹かれた砂のように崩れ去った。

「……分かったよ。処刑でもなんでもすればいいさ。渓谷に帰ったら、どのみちだし」

 諦めたカラスは仰向けに寝転びながら光の届かぬ、闇ばかりの天井を見上げた。先ほどまでの喧騒などどこ吹く風と言わんばかりに、不気味に全てを包み込み続けていた。

 紅竜が、大きく咳き込んだ。

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