見放された者へ

 市場の中でも世界樹に近い居住区には、主に富裕層の豪邸が構えられている。ひとつひとつが無駄に広い敷地を占領しているが、全体の一割程度に過ぎない。一口に市場といえど、いかにここが広大な場所であるかがよく分かる。

 一際大きな爆発音が遠くで鳴り響くが、ゆとりのありすぎる道には人っ子一人いない。まるでさみしい貸し切りだな、とそこを通る立脚類の茶の鱗を持つ竜は呟く。青年は後ろを振り返ることもせずに、一部が裂けている外套を揺らしながらただ進む。

 玄関の前を通過するたびにきょろきょろと名の書かれているプレートを探す。しかし見つけても素通りするばかりだ。

 やがて一つの家屋の前で長く立ち止まった彼は、腰に差していた短剣を右手で抜き放つ。ぎゅうと握りしめたそちらとは反対の手で、柵の門扉を押す。キィと耳に痛い音が妙に響いた。ぴたりと動きを止め、最小限の動きで周囲を見渡す。

 者の気配は、ない。

 金属製の柵の内側には、手入れが行き届いているように見える庭がある。どこまで続いているのかは分からないが、邸宅の脇には狭い通路があるようだ。門には金属製のプレートが張り付けられており、ペルト、とぎらぎらとした輝きを放っていた。

「さて、すんなり行けばいいがな」

 小さな独り言に続くのは、ないにも等しい足音。あっという間に建物の入り口に立ったギルは一呼吸の間を置き、重そうな扉を一蹴りで破った。壊れるには至らないまでも、ガタンと限界まで開いた扉は勢いのあまり閉じようとするが、彼を迎え入れる。

 するりと入り込んでぐるりと屋内を見渡すと、こちらもまた手入れの行き届いたきらびやかな内装が視界に飛び込んでくる。玄関から伸びる赤く柔らかな絨毯、細かな彫刻のされた手すりに、一人では抱えきれないだろう絵画がいくらか高い位置に飾ってある。

「ちっ、ただの富豪が」

 悪態と共に土足で踏み入る竜は、外套の内側からさらに短剣を取り出した。すぐに振れるよう構えながら、広間の真ん中まで歩を進める。ぐるりとあたりを見渡した後に目を閉じ、ふぅ、と深く深く息を吐いた。肺を空にしてから目を開き、先の見えない廊下へと向かう。

 相変わらず、誰もいない。別の広間の見える通路の中ほどで、どこだ、と呟く。第二の空間の真ん中へと歩き出したとき、コツコツと、彼のものではない音がどこからか鳴る。素早く振り返った空色の瞳は正面あたりにあった扉に早足に近づき、もう一度、蹴破った。

 一枚の仕切りが大きな音を立てて壊れ、わずかに遅れてバタンという音と共に埃が舞い上がる。一度せき込んだ青年はその部屋に数名いることを認める。

「ここの家主はどいつだ。上の名前は、わりぃが覚えてないんでな」

 いつもよりも数段低いどすの効いた声に、二人の立脚類の騎士と、他四人は振り向いたまま固まっていた。

 客間だろう空間の奥へと続く、おそらくは隠し通路へと入ろうとしているところだったらしい。大きなテーブルを挟んで、避難を促す人間と獣の騎士はしんがりを勤めようとしているのか、カーペットを踏みながら軽く構える。

「おまえらが、貧困街の人間の子を買ったのは知ってる。どこだ」

 その奥には使用人らしい竜と獣が先導している。その手前には細面の人間の女と、初老程度の人間の男の姿が見える。

「名前は、リジール。何のツテで知ったかは知らないが、ここにいるべきやつじゃ、ない」

 すると夫婦らしい二人は顔を見合わせた後に、男の方が武器を抜いた騎士の後ろから叫ぶ。

「この一大事に乗じた賊が、何を言う! この娘は妻の子だ!」

 怒りの形相から唾が飛び、机に届いた。力強くギルのことを指さし、片付けろ、と騎士に命令する。はい、と答えた二人。どうやら彼らはギルのことを知らないらしく、ただ実直に命令に従い、早足に歩き出す。

「ああ、そうかよ。養子にするんなら、保護してた俺に聞いとくべきだったな!」

 挟み撃ちにされようとも顔色一つ変えないギルはまず、右側から襲い来る人間の剣を短剣で受け止めたと同時に身をかがめて突進する。グエと声を漏らした人間が飛んでいく様を確認することもなく、素早く振り返る。

 手甲をつけた騎士の獣が、隙を見せた彼の素早く懐に潜り込み、アッパーをしかける。避けることができず一撃を受け、一瞬の浮遊感を得たギルは敵の追撃を許さずその背中に向けて短剣を突き刺す。硬直した一瞬を見計らい、腹に向けて蹴りを一撃。ドサリと絨毯を汚して獣の騎士は倒れる。

「護衛はこんなんか。さぁ、返してもらおうか」

 騎士たちを一瞥してから男たちの方へと向き直ると、その姿はすでなかった。舌打ちしつつ牙を剥いた土竜は小走りにテーブルを迂回して闇をたたえる通路へ踏み入る。じめじめとした嫌な臭いが昇ってきているが、足を止めることはない。


 そこは地下通路。市場はかなりの間、多少の事件こそあれど、平和なものだった。すくなくとも彼の知り合いであるラクリが住み着いて以降、あったとは聞いていない。

 富豪たちは恨まれることも多い。この土地の所有者が襲撃者に備えて作らせたのだろうと容易に想像はつくが、手入れはろくにされていないらしい。切れた蜘蛛の巣や、積もった埃に残る足跡と、目に見える埃の塊。

 軽く前かがみになりながら下っていくと、やがて天井も高くなる。後ろを振り返ってみればもう入口の光は豆粒ほどに小さくなってしまっていた。おそらく、市場のどこかか、外に通じているのだろうと思われる道は、燭台もない道が続いている。

「やつら、かなり早いな」

 種族の影響か、夜目の効くギルはまた警戒しつつ歩を進めた。

 むずむずとする鼻を抑え込みながら、やがて開けた空間へと出た。先ほどよりもずっと高い天井に、広場のような空間。壁際には、かつての所有者が備蓄したのであろう荷物らしいものも見える。

 この避難所らしい場に、彼らはいた。

 初老の男が、出口と思われる向かいの通路入口で仁王立ちしており、細身の女の人間がその後ろで少女を抱きしめるかのように、拘束するかのように腕を回している。

 リシールはその華奢な腕の中で、人形に着せるような服を身につけていた。

 使用人の竜と獣はその後ろの通路から一家の様子を見守っており、今にも逃げ出さんといわんばかりだった。

 そしてあと一人。男の前にたたずむ騎士の青年、デイル。剣も抜かず、静かにその場の様子を眺めていた。

 先に口を開いたのはギルだ。

「リジール、こっちにこい。帰るぞ」

 低く告げる彼に、幼い目は抱きしめてくる女性と、遠くにたたずむ恩人を見比べた。

「しつこいぞ賊が! おまえは愛娘のなんだ! 竜が人間にでも好いているとでもいうのか!」

 ギルの静かな言葉を遮るかのように、男が二人をかばうようにしながら叫ぶ。わんわんと響く空間の埃を吸い込んだのか、続けて大きくせき込んだ。

「強いて言うなら、教え子、だな。そいつに宝石の磨き方を教えてた」

 ぴくりと眉を動かした男は一歩、踏み出すと同時に大きく空気を吸い込む。

「なんで来たんや! おらなんかに構って、あんたは何をしたいんや!」

 ところが、瞬く間に消え失せるが力強い言葉に、ギルとデイルを除く者たちは彼女に視線を注いだ。リジールはゆっくりとほどけていく腕に構わず、真っすぐに土竜の青い目を睨んでいた。

「母ちゃんが、迎えに来たんや! だからここに来たんや! あんたには世話ぁなったけど、もう、ええやろ!」

 息が詰まったのか、埃が入ったのかは分からないが、目を真っ赤にして息苦しそうだ。涙を浮かべている我が子を、女性は愛おしそうに頬を寄せる。ギルになにかを訴える視線をおくりつつ。

 明らかな敵意。ギルはゆっくりと、自身の背後に左手をまわす。

「リジール、ひとつ、聞かせろ。こいつはおまえの、父親か?」

 顎で指された男は今にも竜に食いつきそうな顔をしていたが、デイルに行く手を遮られる。彼女は男の方を見やり、こんなおっさん知らんわ、と吐き捨てた。

「愛しの娘を、何らかの理由で捨てて、富豪の男に取り入ったのか」

 女性の眉がぴくりと動く。

「そして娘を連れてきてもいい、という状況になって、連れ戻した……そんなとこか。ならもう、これはいらないな?」

 ゴソゴソとギルの手に現れたのは不格好な石だ。部分的に艶のある石ころ。ぶんと暗闇へと放り投げられたそれはコロコロと地面を転がり、闇の中でチャプンと音を立てる。

「金がなくて捨てたやつを、都合のいい時だけ娘扱いか? たまたま富豪に気に入られから、盗みまで働いていた子供を手配書で探し回って、娘だとほざくのが親か!」

 くわりと牙を剥いたギルは一歩二歩と進むと、駆け足となる。迷いない狙いの先はリジールの母親だ。だが十分すぎた距離に割り込む存在に、短剣が弾かれる。

「あんたがそうやって怒るってるの、初めて見た」

 どこか嬉しそうに笑っている人間の騎士団長――デイルは近くなりすぎた距離に一歩下がる。一瞬遅れて、ギルの放った短い軌跡が首のあった位置を通り過ぎる。侵入者である土竜は牙を見せつけ、右手の短剣を強く握りしめ舌打ちする。うねる尻尾がぴしゃりと地面をうった。

「そういう騎士団長様は、楽しそうだな? つうかなんで、ここにいる」

 早く逃げてください、と背後にいる者たちに騎士の青年が声をかけると、ありがとうございます、と使用人たちが動いた。二人の成り行きを凝視していたペルト一家に小さく声をかけ、そそくさと広間から連れて行ってしまった。

「今日がペルト家の守衛の、当番だったんだよ。仕事はしないと」

 にっと白い歯を見せるように笑ったデイルは、見た目に反し素早く懐に入り込み剣を大きく振るう。鳩尾あたりに来た人間の頭頂部めがけ、ギルは左肘を打ち下ろす。

 ゴッと鈍い音の後、金属同士がぶつかる音が広い空間に響き渡る。わずかに鈍った剣戟が、右わき腹あたりの鎖帷子に命中したのだ。

 刃を引いたデイルが左肩をギルの腹に押し付け、地面を蹴った、ぐらついた竜は身を横へかわせば、前のめりとなりバランスを崩した騎士はふらつくも、すぐさま敵へと向き直る。

「騎士団長さんよ、俺の話を聞いて、ペルトのやつらのこと、どう思う? 貧困街の少女を救った、慈悲深い救済者か? それとも、俺が思うように、最低なやつらか?」

 ギルは短剣をくるくると回しながら、尋ねる。また長剣の先端が竜の方を向く。

「どうでもいい。ただの富豪に何を言っても仕方ないだろう」

 それに、と付け加える。

「あんなやつらなんかより、あんたっていう英雄と戦える今の方が、大事だ!」

 くわりと目を見開いたデイルは一歩踏み出して、剣を振り下ろす。絶妙な距離感で放たれた一撃は竜の胸の鎖を掠めた。だがピタリ一瞬だけ止まったそれは刺突を狙ったものに軌道修正される。

 クソヤロウが、と身をひねると鋭い一撃は音を鳴らしながら空を切る。その腕をぐいとひっぱり顔を突き合わせると、再び牙を剥く。

「英雄英雄……だからなんだ! 今は、これとは関係ないだろうが!」

 埃が舞う。そのまま勢いをつけた拳で胸を打つ。くの字に体を上げたデイルは数秒遅れて大きくせき込んだ。

「おまえこそ、傭兵が向いてんじゃないか。騎士なんかやってても、おまえの好奇心が抑えられるわけじゃないだろ」

 長剣が零れ落ち、床に落ちた。続けて膝、手と続けてつく。ギルは彼から少しだけ距離を取り、冷たく見下ろす。

「それこそ、あのときの俺みたいに守りたいものを守ってみろ。そうすれば、おまえも英雄になれるんじゃないか?」

 大きく息をついたギル。呻きながらどうにか仰向けになったデイルは不満げな顔で黒真珠を賊に向けた。

「かもな。産まれも育ちも、こんな狭い場所じゃあ……もっと強くなりたいんだけどな」

 乾いた笑い。

「興奮したときに、隙を見せすぎだ。もっと冷静になれ、騎士団長さんよ」

 敗北者に冷たい視線を向けた後、ギルはあたりを見渡す。ペルト一家の向かった方向へと歩を進めようと踵をかえした。待てよ、とその背中に一声。

「おまえの愛人に、あの娘をどうにかしてほしい――いや、引き渡してほしいって頼まれたんだ。足をつかないように俺は適当なやつにそのネタを渡した」

 歩みは止まらない。

「もしかしたら、あんたがこうやって来るかもしれない。そんなことを考えてた。あんたの本気が見れるかもって思ったんだけどな」

 けど、無理だった。そう締めくくったデイルは一人、地下通路の広間で天井を静かに見上げていた。

「インスは、どうだろ。嫌がるか」

 明かりもない世界は、静かに独り言を飲み込んだ。

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