童話に捧げる好奇心

 市場から見て荒れ地の方角にある暗がりの洞窟の中は、今日もぼんやりと灯る岩でどうにか見渡すことのできる明るさが保たれている。そこはダンジョン洞と呼ばれ、市場の者たちから親しまれている。とはいえ、真夜中の時間に珍客が現れることはない。

 山の姿で静寂に身を委ねていたテレアだったが、身じろぎを一つとともにぱちくりと目を開いた。それから数回瞬きをすると体を溶かし、立脚類の姿となる。軽くなった体の具合をはかるかのように両手で数回拳を作り、うん、と小さくうなずく。

 鋭い爪のそなわる足でひたひたと歩き出す。時折パラパラと石の破片が体から落ちるが、気に留めることはない。行先は、この岩だらけの空間には不釣り合いな人工物である扉だ。むき出しの岩でできていることは変わらないが、見様見真似で作られた蝶番に、ドアノブ。どう見ても不細工な造りだ。

 ノブに手をかけ、ひねる。回転部の隙間から、ジャリジャリとした音とともに砂がこぼれだした。何度も使われているはずだが、いくらでも砂はこぼれだす。

 岩戸を引けば、蝶番も同様に軋む。大きさの割にはなめらかに動くそれに、そろそろ作り直そうかねぇ、と小言を呟くテレア。だが、それでいいじゃないですか、と横やりを入れたのは、部屋の中にいるテラーだ。テルもいる。

 扉を開けた先には、ベッドと本棚、絨毯、おもちゃ箱があるだけの部屋。いくつか用意されているランプは、ベッドの台に乗っているもののみが灯っている。

 新品の布団に抱かれながら、目をまん丸にしている子供の脇で、椅子に座り本を開いているテラー。夜語りの最中だったらしい彼の反論を無視して扉を閉めたテレアは、眠れへんのか、と優しく問いかけながら彼らに近づく。

 うんと返す子供に、そうかそうかとドラゴンは微笑みかけて枕脇に座り込む。手狭になった空間から、狐は魔法で部屋の出入口近くに転移する。わずかな時間差で現れた彼は肩をすくめて説明する。

「布団が新品ですからね。市場に限らず、珍しいことではないようですよ」

 そうなんか。丸くなる目は、好機の眼差しに輝いた。岩の感触そのままの指を伸ばし、柔らかい頬に触れた。

「そうかそうか。なら、ちょいと、童話でも聞かせてやろうかねぇ」

 子供の頭をなでながら、口ずさみ始める彼女を置いて、テラーは黙って狭い室内から出て行く。


 その日、テルはリッキ、ウェニーと共に樹海にあるぼろ小屋に集まっていた。そこには色々な宝物が無造作に転がっていて少し窮屈だが、三人が座るにはちょうどいいスペースが真ん中にある。

 リッキは黙ってテルの話を聞いていたが、終わった途端、口端を大きく上げて声を上げる。

「いいなぁ、それ! 魔女退治! 俺も父ちゃんからそんな話されたことあるけど、嘘だよなぁ? ! 探検しようぜ!」

 大丈夫かなぁ、とウェニーが蹄を鳴らす。平気だよ、と笑みを深くするテルは持ってきていた背負い鞄からあるものを取り出す。子供に持たせるための小さな短剣だ。革製の鞘から刀身を引っ張り出し、外から入ってくる木漏れ日にぎらぎらと輝かせた。

 おぉ、とリッキが半開きの口から声を漏らす。幼い歯がちらりと覗く。

「テラー……兄さんから持っておくように言われたんだ。ほら、この前みたいなことが起こらないとも限らないしって」

 確かになー。子供は腕を伸ばして手を開く。自身の平たい爪をじぃっと眺め、その後ろの刃と見比べる。

「そうだよねぇ……その魔女が、あの獣みたいなのだったらどうする? 逃げれる、かなぁ」

 不安の見え隠れする草食獣は、刃から少しでも距離を置こうと顎が引いている。

「魔女退治なんだから、逃げちゃダメだろウェニー。そんときはそんとき! 行こうぜ!」

 反復して行こう、と得物を鞘にしまい、立ち上がるテル。続けてリッキ、ウェニーと立ち上がり小屋を後にすることとなった。一応、といくつか使えそうな遺産を荷物に詰めたウェニーを置いて、二人は先に進んでいってしまった。

 声を上げることもなく、駆けたウェニーは追いついた。歩きやすそうな道を選びながら先行していた二人に対し、草むらをかき分けるのに抵抗がない彼は後ろをガッサガッサとついて歩いていく。

 樹海には魔女が住んでいる。大人はみな、そう口にする。

 魔女は市場から迷い込んだ子供を連れ去り、一人ずつ、調理して食べてしまうという。子供を助けるために大人が樹海に踏み入れば、魔女のしもべが現れ、市場へと戻してしまう。たまたまの気まぐれで魔女のもとへとたどり着いても、逃げ出すことは叶わないとか、なんとか。

 テルの耳にした話はこうだった。先頭を進んでいるリッキが、そういえばと声を上げた。納刀したままの刃物を握っているテル、あたりを警戒しているウェニーが何事かと彼を見る。

「魔女は人間だって、父ちゃんが言ってたけど、そのあたりはどうなんだ?」

 えぇ、と素っ頓狂な声を上げるのはウェニーだ。

「ぼくは親戚のおばさんから、獣だって聞いたよ。市場から追放されて、樹海を縄張りにしているんだって」

 竜だよ、とテルが口を開けば、他の二人も立ち止まる。

「赤い鱗の竜だって、母さんは言ってた。たまに市場に来るって」

 振り返る少年はまじかよ、と。

「呪われて、ここから出られないって聞いたぞ? 昔も昔、王様が世界樹の魔力を一人じめしようとした魔女をここに閉じ込めたってよ」

 どれが本当なの。ウェニーは蹄で土を抉る。

「樹海に小屋を建てて住んでたおばあちゃんが獣に食べられちゃって、その獣がおばあちゃんのふりをしてるって聞いたよ。それで、今も生きてるってさ」

 向かい合う形となった三人はほぼ同時に首を傾げる。しかし改めて訪れる樹海の不気味な静寂に目配せする。とりあえず行こうぜ、とリッキが前へと向き直る。

「どっちみち、行ってみりゃ分かるだろ。魔女退治は変わんないんだし」

 二人を置いて行こうとする彼に、そうだね、とためらわずついていくテル。ウェニーは喉を悩まし気に鳴らしつつ追いかける。

 世界樹の闇から逃れた木々は、それでもなお陽を目指して背を伸ばす。青々と茂る葉は天を埋め尽くし、我が物顔でざわめく。それでもなおわずかな木漏れ日を求めて低い草が背を伸ばす。踏みつけられようが、折られようがじりじりと起き上がろうとする。

 あばら家から出て、どれほど経過しただろうか。あらかじめ用意していた果物を口にして喉を潤しながら、なおも歩き続ける。まだ陽も高く、好奇心をあきらめさせるには至らない。

 お菓子を食べながら進んでいた子供たちは、後ろからの聞きなれた声にふと立ち止まる。リッキとテルが振り返れば、ウェニーが鼻先で、乱立する木々の向こう側に何かがあると二人に教える。しかし、二人はそんなものないと彼の言うことを否定するが、彼の立っていた場所からそちらを見やれば見覚えのない小屋らしいものが見えた。

 魔女の小屋かな、とささやくウェニーは首を伸ばす。リッキは軽くしゃがんで様子をうかがおうとしている。テルは二人の後ろに下がり、ぎゅっと短剣を握りしめる。

「多分、そうだろ。誰かいるっぽいし……行こうぜ」

 お互いの顔を見合わせて、うなずき合う。

 武器を持つテルを先頭に、リッキ、ウェニーと一列に並び、小屋へと近づく。妙に大きく聞こえる雑草を踏みつける音が、樹海に吸い込まれていく。

 二階建ての、平たい小屋だった。適度に手入れがされているのか、その周辺は雑草があまり生えていない。薪割り用に使われているらしい切り株や、屋根にとりつけられた貯水タンク。市場で見ることのない小屋は、魔女らしい不気味さは全く感じられない。むしろ、樹海の中での貴重な生活の痕跡だ。

 小屋の裏手に出た彼らは、忍び足で玄関までまわる。扉のない、揺れている一枚の布だけで閉じられている入口を静かに覗き見る少年は、ひたすら息を殺して、薄暗い魔女の小屋の様子をうかがい始める。

 入ってすぐ右側に階段がある。真ん中あたりに踊り場があり、直角に曲がって二階へと続いているようだ。

 一階の真ん中には大きめのテーブル、その横には台所があり、その向こうには暖炉のようなものがあり、薪ではなく様々な形の遺産が瓦礫のように積み上げられている。魔女らしい姿は見当たらず、他に目につくものと言えば、住民らしい青い竜だろうか。

 のっしのっしと、右へ左へと狭い室内を歩き回り、長く太い尻尾を左右に揺らしている四脚類。時折、家具に体をぶつけようとも気にする様子もなく、ふんふんと鼻歌を歌いながら立ち止まったかと思えば、遺産の山をじぃと眺め始めたのだった。

 リッキが肩をたたき、小屋の方を指さす。最小限の動きで振り向くテルは、軽く首を振る。するとやんちゃ坊主は自ら前に出て、玄関近くの壁をコンコンと叩く。

 はーい、と室内から返事がする。先ほどと同じ足音が迫って来たかと思えば、布がぐいと持ち上がり竜特有の頭部が中からぬっと現れた。首は動かさずに、軽く目を動かして少年たちを捉えた彼は、帽子の紐をぷらぷらとさせながら視線を合わせた。

「あれ、お客さん? こんなとこによく来たね、君たち」

 嬉しそうに笑う彼は、入りなよ、と頭をひっこめた。リッキ、テル、ウェニーと、おそるおそる小屋へと招かれた。彼らが入るだけでも、少し手狭に感じる室内だ。

「水くらいしかないけれど、いる? なんでうちに来たの? 危ないのに」

 遺産観察を再開した竜は、間もなく一つだけを選び出して転がした。テーブルの近くまで持ってくると、胸元に抱くようにして落ち着く。一方の子供たちは四角いフーブルに、彼と向かい合う形に並んだ。

 こうして向かい合うと、小屋の主は子供など一飲みにしてしまいそうな口を動かしている。ちらちらと見える牙にウェニーはびくりと体をこわばらせながら、固まっている。

「魔女退治しに来たんだよ。おじさんは何か知ってる?」

 リッキの返事は薄暗い室内に吸い込まれる。

「おじさん、かぁ。青竜の中では若いんだけどね……魔女、魔女……今はお出かけ中だよ」

 失礼だよ、とテルの平手が飛ぶ。パン、と背中を軽く叩くだけで、いいだろ別に、とリッキは機嫌を悪くする。

「樹海のどこかにいるのは間違いないんだけど、どこにいるのかは分からないな」

 ぴしゃりと波うつ太い尻尾。ありがとうございます。テルの一言と共に、獣が早く行こうよ、と尻尾を動かす。

「陽が落ちる前に、帰りなよ。魔女退治もいいけれど、夜の樹海は危ないし」

 その忠告に再び礼を言いつつ、三人は小屋を後にした。気を付けてねー、と子供たちを見送りながら尻尾を振る竜は、一人になってから遺産をいじり始めるのだった。


 いずれ魔女に出会えるだろうと歩き回っているうちに、子供たちは立ち止まってしまった。輪を作るようにして座り込んでいる。

「なぁ、テルぅ。家、どっちだろ」

 手を後方について、仰ぐリッキの視線の先には星の見える空が見える。だが大部分は不気味にざわめく枝葉に隠されている。

「わかんない。どうしよう」

 お互いに顔を見合わせるばかりで、長い沈黙の時間が訪れた。時折、樹海の不気味な音に、背筋を震わせる三人。風に揺れる葉の音。茂みに何かが通る音。誰かが姿勢を変えた時でさえも、何事かと目を見張る。

「心配、してるかなぁ。父さんたち」

 ウェニーの一言から、限界が訪れるのは間もなくだった。草ばかりの地面を見つめ、ただひたすら沈黙する。

 雑草を引き抜き始めたリッキ。ぶちぶちと根がちぎれて、絡みついていた土がばらばらと地面に落ちる。続けて雑草も力なく落とされる。

 時間だけがただ過ぎる。時折虫が彼らのもとに現れるが、気にすることもなく待つ。

 不意に、彼らのいた場所が明るくなった。見上げてみれば、大きい月に見降ろされていることに気が付く。明るいね。ウェニーが呟くだけで時間は止まったままだ。

 月が通り過ぎて、子供たちの目が閉じようとしていた。いつもなら眠ってしまっている時間をとうに過ぎてしまっている。誰も声をかけることもない。唯一、ウェニーだけがかぶりを何度も振ったり草を食んだりしながら目を開いている。

 だが彼も襲い来る本能には敗北した。目の前で膝を抱えながら眠る二人に見ながら、背中に顎を置いて目を閉じる。そこからまた数分後、遠くから規則正しい足音が聞こえた。次第に大きくなるものの、深い眠りから意識が引き上げられることはない。


 濃い霧のかかる樹海の朝、ごろりと寝返りをうった人間の子供はがばりと起き上がる。濡れてしまった服を背中から剥がしながらあたりを見渡した。どこか眠気の残る目であたりを見渡したテルだが、友二人がそこにいることを確認すると息をつく。

 だが彼らを包む霧は全てを覆い隠し、近くにある木も見えない。もう一度、はぁ、と息をついたテルは再び背中にへばりつく服を諦めて、軽く腹をさする。すると、起きたの、と三人のうち、誰でもない声が霧の向こう側から響いた。明らかな女性の声に口を開こうとする少女だったが、掠れた吐息が出るだけだった。

「霧が晴れるまで、じっとしてなさい。朝の樹海も、危険だから」

 穏やかなだが、はっきりとした力強い声。霧の向こうを見透かそうとする少年だが、白い波は声の主を隠しきってしまっている。唾液を飲み込んだ少年が口を開いた。

「あの、もし、あればでいいんですけれど、水をいただけます、か?」

 おずおずとした質問に、誰かはすぐに答えてくれた。

「水? もし私が魔女で、あんたたちを弱るのを待っているだけだったら、どうする?」

 パタン、ゴソゴソという音が続いて鳴った。

「樹海に住む魔女は、そこに迷い込んだ者を弱るまで追いかけまわして、いたぶって、ぺろりと一飲みにしたり、じっくりと味わって……ま、どこにでもある話だけどね」

 音を鳴らしながら、ゆっくりと言葉を選ぶ何者かは三回、何かを取り出した。

「ま、私は獣くらいしかおいしそうには見えないから、安心してよ。それに、もう狩りとかめんどくさいしね」

 それから三人の輪の中に、水筒が投げ込まれた。ゴンゴンという大きな音に、思わず他の二人も目を覚ましたようだ。びくりと身を震わせて、起きあがる。水筒に手を伸ばすテルに、目を丸くしてきょろきょろとするリッキが声をかける。

「なぁ、ここ樹海、だよな? なんも見えねぇ」

 そうだね、と短く答えたテルは水筒を二人に手渡す。彼らのものではないそれに目を丸くするウェニーは鼻を利かせる。

「誰か、いるの?」

 言葉と同時に霧が流れ、彼らの視界に彼女が迎えられた。

「誰だっていいでしょ。少なくとも、あんたらを探しに来た一人だってことは、言っとく」

 湿った空気が流れた先に、大人の紅竜はいた。灰色の角をもち、紫色の衣を羽織っている膝折類。その手には大きめのカバンが提げられており、もう片手は懐に伸ばされていた。

 魔女だ、とウェニーが呟いた。魔女、と反復するほかの二人。思わず座ったまま身を引く子供らだったが、竜は微動だにせず、ただ口を開く。

「いいわよ、その魔女から逃げたって。ただ、私があんたらを見つけられたのは偶然だし、はぐれたら、二度と帰れないかもしれないわよ」

 慌てるでもなく、ただ忠告する彼女は軽く口を開き、息を吸い込む。大から小まで、不ぞろいの牙が彼らの視界に映る。

「そもそも、私を探しに来たんでしょ? 用なら帰りながらでも聞くから」

 ぼんやりと景色を眺めるかのような魔女の視線に、リッキが声を張り上げる。

「あ、あんた以外に誰が探しに来てるやつの名前言ってみろよ!」

 警戒を緩めない二人を、テルは水筒片手に見守っている。

「は? 知ってるわけないでしょ。家に帰ったら人間や獣、騎士まで来てて大騒ぎだったんだから。リエード……青い四脚類の竜が、あんたらのこと教えてくれたの。で、結局私が第一発見者ってわけ」

 若干の苛立ちを見せている竜に、次はウェニー。

「じゃあ、教えてください。僕たちは、いつ帰れますか」

 昼までには、と答えた紅竜に、分かりましたとテルが割って入る。そこに食いつくのはリッキだ。そこから子供たちは霧が晴れるまで、水筒片手にあれやこれやと言い合った。竜をよそに魔女がどうの、おまえはこうの、と。目の前で始まった軽い喧嘩に、嘆息を漏らす竜はただ眺めているだけだった。

 樹海を白く抱く霧が晴れるにはもう少し、かかるだろう。


 竜から渡された木の実を口にしてから、彼らは出発した。起きてすぐに大声を出し合った三人は既に疲れの色が見えていた。だが彼らに対し気遣うことも、遠慮することのない竜は先へ先へと進んでいく。

 テル、リッキ、ウェニーと縦一列に並んでいた子供たちは、時折駆け足になる。躓くこともなければ、何かに襲われることもない。ただ静かな樹海を歩く。

 出発からそれなりの時間が経過しただろう。尻尾を揺らすその背中に、テルは口を開いた。

「魔女……あなたは、なんで、樹海に住んでるんですか」

 純粋な疑問に、ん、と振り向かずに返事をした魔女。

「なんで、ねぇ。市場で住めるようなところがなかったから、よ。そのときにヴィークと知り合って、家を作ってもらえることになったの。で、ついでにあいつと同居することになった。それだけよ」

 淡々と返され、半分開きかけた口を閉じるテル。代わりに、後ろのリッキが問いかける。

「魔女ってさ、ここで何喰ってんの? なんもないじゃん、ここ」

 木漏れ日を浴びながら、彼は流れていく樹海を舐めるように見つめている。

「あんたたちと同じよ。市場で売ってるのを、持って帰って食べてる。冷蔵庫っていう、遺産があってね、少しだけ保存がきくのよ、生肉でも」

 聞きなれない単語に口を閉ざしたリッキの後ろから、三度質問が飛ぶ。

「魔女さんの住んでおられるのって、あの小屋、ですよね。青い方とは、どのような関係なんですか?」

 雑踏に混ざる、わずかな沈黙。

「子供のくせに、そういうことは気にするのね。あいつはただの同居人よ。たまたま、同じ時期に市場に来た、ね」

 無表情を貫いている竜の顔は、彼らには見えない。同時に、リッキがムッと口をとがらせたことも、彼女にはわからない。

「なんだよ、それ。子供扱いすんなよ。知ってるぞ、同棲してるってんだろ、それ」

 竜は肯定しながら、尻尾を一振り。

「……同棲にも、いろいろあるの。 利害関係が一致してるから、都合がいいから。あとは、好きだからとか、子供がいるから、だとか」

 思案には十分すぎる時間。

「私の場合、どれでもないわね。たまたま会えて、いたから。ヴィークが家賃の都合を工面してくれたし、ご飯も、いつも作らなくていい。遺産のことならあいつに聞けばいいし……うるさいけどね」

 リッキは黙って足を動かす。

「暇なときは話し相手になるし、お互いに邪魔はしない。あんたらにも、分かるときがくるんじゃない? 同棲の意味が、ね」

 やはり笑わない紅竜に導かれるがまま、子供たちは市場へとたどり着いた。樹海に面した市場では、何十人という騎士と、それぞれの家族が待っていた。お待たせしました、と折り目正しく一礼した彼女が下がれば、我が子のもとへと皆が駆け寄る。テルの親を除いては。

 リッキは父親からげんこつをいただき、口喧嘩が始まった。だが反論のカードを失った息子は背中を押されて母親のもとへと歩き、大声でごめんなさいと叫ぶ。騎士と、紅竜にも、と促されれば、それに従う。

 ウェニーは、肉食の獣に襲われなかったか、と声をかけられ、大丈夫だよ、と返す。よかった、と胸をなでおろす夫婦は紅竜の方をちらちらと見つつ、彼を隠すように立ち去った。

 テルは、友をよそにあたりを見渡して、野次馬の群れに溶け込んでしまっている狐耳を見つける。口よりも先に動き出す体は真っすぐ彼の方へと走り出す。スケッチを取ろうと前に出ている者を押しのけ、狐の目前に立ったはずだが、そこには見知った彼の姿はない。

 空気に溶けるかのようにして消えてしまったドラゴンを探して、少女は騎士の制止も気にせずに、野次馬の林をすり抜けていった。

 市場の道を走り回る。彼らが一晩いなかったことなど、どこ吹く風といった景色を走りながら、狐を探す。細い路地から大通りまで、あちこち見て回るがテラーの姿はない。

 疲労の見える顔で、真昼特有の影を駆け回り数分。彼女は道の真ん中に立っている見覚えある姿を見つけた。一糸まとわぬ立脚類の竜の姿に、彼女の背に向かってテルはその名を叫んだ。

 くるりと振り返った彼女は、大きな紙袋を抱きかかえながら飛び込んできたテルを受け止めた。不意の衝撃であっても、びくともしないドラゴンは、どうしたんや、と穏やかに言葉をかける。

「あんたも、悪い子やねぇ。夜遊び、って言うんか? そんなことまで覚えてなぁ」

 腿あたりに顔を押し付けてくる子供に、いつもと変わらぬ声が降り注ぐ。

「いつもの子らと、行ってたんやろ? 何かあったんか?」

 言葉にならない言葉を繰り返す子を見かねてか、彼女は尋ねることをやめた。代わりに空いている右手で彼を抱き上げ頬を摺り寄せる。勢い余ってちろりと出た舌が柔らかい唇に触れ、薄ら傷つける。だが震えながら縮こまる彼女は抵抗しない。

「それでええんや。好きなところで、あんたは自由でええんや、テル」

 笑顔もなければ、怒りもない。変わることのないドラゴンの顔は道の向こうを見据えて、帰路へとつく。

 荒れ地の崖へと帰る頃には、テルは眠ってしまっていた。洞窟に入れば間もなくして、テラーが頭を下げながらテレアを迎えた。

「申し訳ありません。私がついていながら」

 いや、と購入品を彼に押し付けて、テルの部屋へと向かう。

「わざとやろ? エストが見つけへんかったら、あんたが助けたんやろ?」

 扉を開き、閉じる。二人の間には岩を通り抜ける隙間風。

「あんたも、好きにしいな。あたしに遠慮することなんて、ないんや」

 そう言い残す彼女が残り短い一日の中で、獣の前に再び現れることはなかった。彼はぼんやりと光る岩に照らされている洞窟の中一人で、ぽつんとたたずんでいた。

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