赤は重い腰を上げ、争う
ラクリは自室で、いつものように座っていた。藁を尻に敷き、目の前の切り株を切り出したかのような机と向かい合っている。
ただ今日の彼女はいつもと少々違った。机の上にある、空になった革袋と、数枚の硬貨を見つめながら、渋い顔をしている。離れている眉間に皺こそできないものの、鋭く、憂鬱そうな視線にはなんとも言えない感情が宿っていた。
目の前にある革袋は、彼女の持ち歩いている財布である。そして今現在、そこには本日分の食費があるかないかの額がおさまっていた。今日は家の中でのんびりと読書でもしようと決めていた彼女にとって、一大事のことであった。
もちろん、同居人であるリエードから借りることも可能ではある。だがそんなことをしたとしても、結局返す必要があるわけであり、結局は稼ぎに出る必要があるのだ。
仕方ない、と彼女は財布を閉めて立ち上がった。そして一冊の本を持って、階段をおりる。
朝早い時間だが、彼女はおはよ、と声をかけられた。すでにリエードは起きていたようで、同居人の気配に気づいたのだろう。ラクリが彼の姿を目にすると、台所で蛇口から水を直接飲んでいるところだった。とはいっても流れている水をぺろぺろと口にしているだけだ。
寝起きなのだろう彼の目は半分閉じていた。
「ねぇ、ちょっと稼いでくるわ。今日はここにいるの?」
まっすぐ暖簾をくぐろうとする彼女は軽く振り返って、問いかける。うん、と弱弱しく答える彼は、のそのそと寝床に戻ってしまった。昨夜はラクリが眠ろうとしていた頃も遺産いじりをしていたためだろう。
まだ薄ら寒い空気を感じながらラクリは、世界樹の市場と隣接する樹海を抜け、岩場へと向かった。
市場は、世界樹を中心に円状に広がっている。市とはいっても、住居などもある。そして三種類の大地が、市を囲んでいる。
ひとつは彼女たちの住み着いている樹海だ。市場の者はあまり立ち入ろうとしない、少し暗い場所である。その中には川もあり、能力さえあれば生活のたやすい場所だ。
もう一つは草原。もとは樹海だったのだが、世界樹を目指す人間たちがすべて切り開いてしまった大地だ。木は生えず、背の低い草や野菜畑ばかりが大地にある。それなりに大きい道もあり、市場へと向かうのならば誰もがここを通る。
三つ目は、岩場だ。ごつごつとした岩があちこちにあり、少し市場から離れれば荒涼とした大地が広がっている。そこにしか自生しないものもあり、時折冒険者が物好きが立ち寄ることも少なくない。
なぜこれほどまでに環境が異なるのか、原因は分かっていない。それを調査している者もいるが、意見は様々で、世界樹が影響している、という説が最も有力だ。
陽が間もなく世界樹に隠れてしまうだろう頃に、ラクリは目的の場所へとたどり着いた。険しい崖の中腹あたりにある、ぽっかりと空いた二つの洞窟のうちの一つだ。森の方角から歩くと、断崖絶壁を上る必要はないのだ。
ぽっかりと口を開けている洞窟から、大きい声が聞こえてきた。だがラクリはその前を通り過ぎ、声のしない方の洞窟へと足を踏み入れた。しんと静まり返る洞窟の中を数分も歩けば、少し開けた場所に出る。
入口こそ、彼女が手を伸ばせば届くくらいには低いのだが、その広い空間は、彼女が走り回れるくらいには広い。だが、そこの大半の体積を占めているのは、山だった。
「お、久しぶりやね、エスト」
ただの山ではない。ラクリたちと同様に鱗のようなものが覆っている、ドラゴンと呼ばれている生物だ。闇の中からにゅっと顔を出すと、ラクリを認めて目を細めた。
「ラクリでいいって、テレア。長話はそこそこでいいからさ」
彼女をエスト。下の名で呼ぶのは、この洞窟の主の一人であるテレアである。
ラクリやリエードたちのことは竜、とひとくくりに呼ばれている。一方でこのテレアはドラゴンと呼ばれている。リエードとテレア、似ている部分もあるが、その差といえば、彼女の背中には翼が生えていることだろうか。そして、四肢もある。しかしそれは、テレアへの呼称の由来ではない。
「っちゅうことは、お金稼ぎに来たんやね。ちょうど騎士団の訓練もやっとるから、助かるよ」
訛りの強いテレアは首を伸ばして、ラクリと見つめあう形となった。土色の鱗に、細長い口先、そして茶色の瞳。竜たちから見ても美しいと呼ばれている彼女は、途端にその形を失った。
粘り気のある泥が流れてしまうかのように、その山はみるみるうちに溶けていった。その代わりに、ラクリの目の前に、泥だまりができる。それは意思を持つかのように、何か形を成そうと蠢いていた。
「別にそのままでいいのに。なんでわざわざ恰好、変えるのよ」
最終的に、テレアの山のような体は全て溶けて、同時に消えてしまった。代わりに残ったのは、ラクリと同じくらいの背格好の、竜である。少し骨格が異なる、直立の立脚類だ。
「ええやん。あのままやと、あんたでも通られへんやろ? それに、目線を合わせて話したいしなぁ」
相変わらずの茶色い鱗と瞳で、ふふ、と笑う。
「それだったら、テラーに移動魔法を頼めばいいのに。なんでそうしないのよ」
ラクリは一歩、歩を進める。
「言うとるやろ? 魔法を使わなくてもいいなら、使わないに越したことはないんよ」
そうだったわね、と洞窟の奥へと二人は進む。
「じゃあ、ダンジョン洞の経営者としては、ダンジョンを作ったりするのはどうなのよ。あれも魔法でしよう?」
非常に広い空間は次第に狭まっていく。
「これで生計立ててんのに、その言いようはないわー、エスト。この金ないと、あんたも稼げへんのよ?」
そうね、と二人は他愛のない話をしていると、やがて彼女たちのうち一人だけが通れるだろう穴の前にやってきた。ラクリは躊躇うことも、奥の様子をうかがうこともなくその穴へと体をねじこんだ。それから一言だけ言葉を交わすと、テレアは再びもとの場所へと引き返してしまった。みるみるうちに、粘土がごとくその穴がふさがってしまうことも気に留めない。
紅竜が穴を抜けると、その先は同じような洞窟の中だった。彼女が立ったのは太めの通路の真ん中で、彼女が三人並んでいても歩けるような場所である。岩や土でできた洞窟だが、地面に近い壁面には、青く光る石のようなものがぼんやりと照らしている。一体、この崖のどこにそんなスペースがあるのかと思える。
ラクリはひとまず、通路の真ん中に仁王立ちになった。暗闇の中、どうにか見える高い天井に、どこまでも続く通路。なぜか空気はあまり淀んでおらず、外とほぼ同様の空気がある。
さて、とラクリは左右の通路を見渡す。顎に右手を添えて考え込む。右へ、左へと通路の先を見比べて、意を決したかのように歩き始めた。
どこまで続くのだろうと思える長さの通路。広間のような空間もなければ、ひびわれも横穴もない、不自然すぎるほど整った廊下のような洞窟。時折、同じ太さの通路に枝分かれしているくらいで、あまりにも不気味な空間だ。
テレアの経営している、というよりは、形成しているダンジョン洞は、迷路のような作りになっている。彼女の操る魔力によって作られているのだが、これを利用して彼女は商売をしているのだ。
簡単に言えば、鍛錬場である。
世界樹の市場では商人たちが幅を利かせているので、その治安を保つ騎士たちもあまり訓練ができないことが多い。確保しても買収される可能性も高い。そこでドラゴンのテレアがこのような場所を訓練場として提供しているのだ。このような僻地ならば商人が好き好んで奪うこともない。
そしてその騎士たちの相手をするのが、テレアの雇う傭兵、今のラクリなどである。腕に自信のある者が小遣い稼ぎにやってくることも少なくはない。
ラクリはやがて、自身の土を踏みしめる音以外に、金属がぶつかる音を耳にする。それは次第に大きくなり、耳障りな音の発生源との距離は数歩までに近づいた。
二人は互いに視認しあった。片や、紫の衣を羽織る紅竜族。片や、急所を防具で固めた騎士の一人で、ラクリの尻尾ほどの長さはある剣を右手に、左手には小さなバックラーをつけている。だが二人はまだ静かに見つめあっているだけである。口を開いたのは、ラクリの方だ。
「こんにちは、紅竜よ」
淡々とした自己紹介に、騎士も同様の自己紹介を返す。それから息もつく間もなく、二人の距離は詰められた。
騎士が一歩踏み込むと、下から上へと剣の軌跡が描かれる。ラクリは本も持たずに、剣と垂直にした左腕でそれを受け止める。左腕の袖や鱗で受け止めたわけではなく、その間には少しの隙間だけがある。剣はそこから先へは切り込むことは叶わなかった。
一瞬だけ目を丸くした騎士だが、力は緩めない。ギリギリと剣と腕を拮抗させながら、赤は右腕を振りかぶり、騎士の右肩の関節を狙う。竜特有の堅い爪が、そこにつけられていた防具に激突してガッと音を立てる。小さく舌打ちをしたラクリは、左手で剣を押し返して、一歩、後方へと下がる。
一方の騎士は、押し返された剣を構えなおし、次は彼女の頭部をねらって突き出す。その動きは早くも遅くもなく、だが確実に彼女の眉間を狙っていた。
竜の動きは鈍かった。その剣は赤い双眸の間へと到達する。ガリッと音を立てると、剣の軌跡が変わり、少し上方へとずれた。騎士は一瞬だけ動きを止めたかと思うと、剣を引く。その時にはすでに、緊張の糸はすでに切れてしまっていた。
この場で使われる剣は、完全ななまくらが使われている。あくまで訓練なので、命を奪うことが許されていないのだ。とはいっても木刀などでは緊張感が出ないということで、殺傷能力の極端に低い得物が使われている。当人たちには割と好評だ。
「あー、負けちゃった。次の相手かぁ」
ラクリは剥げてしまった眉間の鱗に爪先で触れて、ため息をつく。一撃でも、相手の急所に武器を当ててしまった方の勝ち、というルールなのだが、一瞬で勝負がつくことが多い。当然と言えば当然だ。一撃で急所を狙ってしまえば、切り札がない限りは勝利したも同然なのだから。
そのため、ラクリは一撃を受けないために魔法を使っている。剣を左腕で受け止められたのは魔力を使って見えない障壁を作り出していたためである。防御用に編み出された魔法の一つ。とはいっても魔法が得意かと言われればそうでもない彼女にとって、局所的な部分にしか作り出せないうえに、作り出すのに時間を要するのがラクリの悩みの種だ。
紅竜は騎士にありがとう、と言ってから、お互いすれ違うようにして別れた。相手と対峙することが目的なのだから、慣れあう必要はないのだ。
そして、騎士と五回、傭兵とも二回相手にした。たまに血の気の多いものもいるのだ、そして、結果は三勝という結果に終わってしまった。眉間の鱗以外、特に負傷はなかったものの、彼女の表情は曇ってしまっていた。
七回目の争いを終えると、彼女たちは暗闇の向こう側から歩いてくる人物を迎えた。戦いというにはあまりにもささやかすぎる訓練に、拍手をしながら歩いてくる人物。
その人物は、立脚類の獣だった。狐と呼ばれる特徴を持つ彼は、どこで調達したのかもわからない正装と呼ばれているらしい服を身に着けて、細い目で彼女たちをみつめていた。
「本日はお疲れ様でした。それでは、帰りましょうか」
彼は二人の目の前までやってくると、目をわずかに開いてから右手で大きく円を描いた。それと同時にラクリと対戦者、そして狐は、同時にダンジョン洞から姿を消した。
ラクリがテレアのもとに戻ってきたときには、すでにほかの傭兵たちはいなくなっていた。
「お疲れさんやねぇ、エスト。まだまだ魔法の扱いが下手やなぁ」
テレアは山のような姿に戻って、おかしそうにラクリを見つめている。うるさい、と反論するラクリの目の前に、袋が一つ、落とされる。金属音を立てたそれを彼女は手にする。
「ありがと。またくるわ」
また来るとええさ、とドラゴンは小さくなっていく彼女を見送る。
ラクリが洞窟を出れば、そこには切り立つ崖の上だ。同時に、先ほどの狐が立っていた。背筋をぴんと伸ばし、ラクリを待ち構えるようにして。
「お送りしましょう、小屋でよろしいですか」
ラクリは少しの間、彼の目の目をじっと見つめて、懐の本を取り出し、座り込んだ。
「できるなら、私の部屋までよろしく、テラー」
かしこまりました、とキツネの立脚類、テラーは先ほどと同じく目をわずかに開いて、そして大きな円を描いた。直後、彼女たちは洞窟の前から姿を消してしまう。
ドスン、という音が樹海の小屋に響き渡ったのは、その直後のことだった。屋根の上に現れた女の竜は、そのまま転げ落ちて地上に着地した音だ。
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