第17話 レム

 「――その揺れによって生じる津波は、この島をのみこむでしょう」

 それが大地母神だいちぼしんのお告げだった。

「なんだよ、いまさら」

 イシスが立ち上がった。

「もうすぐ壊滅的な地震が起きると、あなたの父親に警告しました」

「10年も昔の話じゃないか」

「わたしにとっては、わずかな時間です」

「そんなの、知らないよ」

 イシスは力を落としたようで、悄然とその場に立ち尽くしていた。

 大地母神の顔が、おれに向く。

 おれは思わず起立した。

 巨大な手のひらが近づいてきた。その影がおれの全身をおおい、まるで夜が降りてきたようだ。おれは震える体をこらえ、その場に直立していた。手のひらは、そっとおれの頭に触れ、すぐに遠のいた。

「さようなら」

 母親らしい優しさで言い、生えてきたのと逆に、大地に沈んでいった。

 つぎの瞬間、おれの頭に盛大に花が咲いた。

 ネルとイシスがぎょっとし、そのあとふきだしやがった。それでも暗い雰囲気を和らげることができたんだから、いいとするか。せっかく咲いた花だから、むしるのはやめにした。

 イシスはこれから街に戻り、大地母神の警告を伝え、人々の避難をうながすという。いまいる空き地を待ち合わせ場所に決め、明朝、会う約束をした。

 イシスが立ち去り、ネルは1人になった。エルフからも人間からも孤立し、本当にひとりぼっちだ。おれは、いつだっているけどな。

「これからどうする。おれたちも島から逃げたほうがいいんじゃないか」

 おれは、ネルに問いかけた。

「イシスを待つわ。それから決める」

 ネルはそう答え、イシスが置いていったマントにくるまった。

 イシスが戻ってきたのは日暮れどきだった。約束は明朝のはずだ。地震と津波を警告し、避難をうながしたにしては早すぎる。右目のまわりにあざができていた。

「誰も、信じてくれなかった」

 イシスが悔しげに唇を噛みしめ、

「あれだけの地震があったのに、あれだけの地震があったから、もっとすごい揺れが来るなんて想像できない。想像したくないんだ」

「イシスは街の人をどうしたいの」

 マントをかぶったまま、ネルがたずねた。

「助けたいよ。同じ都市で暮らす人たちだもの。1人で逃げるなんて、できないよ」

「そのあざは? 街の子に殴られたんでしょう」

「それでもさ」

「こっちに来て、ここに座って」

 イシスがネルの横に座り、カロンでの出来事を話しだした。

 イシスを殴ったのは、マルーという少年だった。朝市ではじめて会ったとき、イシスの警告をあざけり、いじめていたグループのリーダーだ。

 ネルがイシスの顔に触れた。目のまわりのあざをネルの指がなで、イシスが目を閉じる。しだいにあざは薄れ、きれいに治った。

「痛みがひいた。マナンの力だね」

「魔法の力は使い方しだいなの。それじたいは善でも悪でもない。強すぎる力は、使用者をも滅ぼす。使いこなしているつもりが、それに振り回され、ついには自分に返ってくる。そうしてマナンは滅んだの」

 イシスは下を向き、考え込んでいる様子だ。

「わたしはイシスの力になれないかしら」

「あの巨大帆船を都市の外に引き出せないかな。みんなで力を合わせようと呼びかけたんだけど、都市をのみこむほどの津波がくるなんて、誰も信じないんだ」

「明日、カロンに戻り、方法を考えましょう」

「そうだね」

 イシスはあまり期待していない様子だ。

 夜明け前に森を出ようと話が決まった。

 日はとっぷりと暮れた。ネルとイシスはマントにくるまり、大木の根もとで寝についた。おれは、ネルの膝のあいだに体を押し込み、頭に咲いた花だけをマントの外に出していた。

 ほどなくネルの寝息が聞こえてきた。イシスはなかなか寝つかれないようだ。

「ねえ。ネルのことを話してよ」

 そう、おれに頼んだ。

「いいぜ――」おれは話しだした。

 それは長い話で、語り終えたのは真夜中だった。葉むらがつくるシルエットがしだいに濃くなり、ついに夜空とひとつになった。

 空がほのかに白んできた。ネルとイシスは森を抜け、丘を下りはじめた。津波は引いていた。畑は土砂や流木で埋もれ、あたりいちめん泥だらけだった。

 おれたちは泥に足をとられながら、カロンへ向かった。

 市壁はもちこたえていた。壁のところどころがひび割れている。津波は都市のなかまで到達しなかったらしい。市門をくぐり、門前広場に出た。露天商が入ってくる時間だが、ひと気はなく、閑散としていた。

 ネルは黒いマントをまとい、フードを目深にかぶっている。街の人に見つかると面倒だから、そのための用心だ。

 2人は、ひび割れたメインストリートを進んだ。両側の家屋はほとんど倒壊していた。くずれた土壁や柱の上に、屋根わらがおおいかぶさっている。ずっと遠くのほうで、黒い煙があがっていた。

 中央広場を横切ろうとすると、壊れた家の陰から、10数人の少年が現われた。先頭に立っているの、リーダーのマルーに違いない。

「また殴られに来たのか」

 マルーが、威嚇する目つきですごんだ。

「うちの船を引き出すんだ。津波はまたやって来る」

「まだそんなこと言ってんのか」

「きのうの地震だって、ぼくが言った通りだろ。こんどはもっと大きいのが来る。あの船で逃げないと、ぼくらはおしまいだ」

「あれはマナンの仕業だ。おまえのうしろのやつ」

 ネルがあとずさり、なにかにぶつかった。フードがはねあげられ、ネルが声をあげる。いつのまにか、マルーの仲間が背後に回っていた。

「あの女が帰ってきたぞ。マナンのまつえいだ」

 マルーがあおり、いっせいに「マナン、マナン」とはやしたてはじめた。ネルとイシスは、少年たちに囲まれた。イシスがネルをかばい、一歩前に出る。

「ぼくはネルの騎士だ。ネルには指一本、触れさせないぞ」

 イシスが勇敢に言い放った。

 マルーはイシスの言葉にひるまず、目の前に迫った。2歳ほど年上のようで、イシスより身長があり、おれの位置からだと、見上げるほどだ。

 マルーの手が、イシスのむなぐらをつかんだ。

 おれたちはいっきに持ち上げられた。それは恐ろしい力で、地面ごと差し上げられたかと思った。違う。大地が跳ね上がったんだ。

 ついに地震が来た。思いがけず早い。

 おれたちは、もんどりうって倒れた。

 地面が震動し、激しく波うった。暴れ馬の尻尾につかまった経験があるが、そんなものじゃない。巨人の手がこの都市をつかみ、揺さぶっている。以前、バスケットに隠れているところを、ネルに振り回された。あんな感じだ。

「危ない。屋根が崩れた」

 イシスの声が飛んだ。

 ネルが体を起こし、おれの目に、イシスがマルーの体にぶつかるのが映った。2人はいっしょになって転がっていく。

 そのとたん、梁の一部が落ち、地面で跳ねた。

 イシスの体の下で、マルーが恐怖の表情を浮かべる。まさに間一髪だ。

「ここは危険だ。広場のまんなかに逃げよう」

 イシスが体を起こし、周囲の少年に呼びかけた。

 ネルが立ち上がろうとして、またすぐ転んだ。石畳が激しく揺さぶられ、とても立っていられない。ネルは、なかば這うような格好で、前に進む。他の少年たちも、まろびながら逃げる。

 広場のまんなかに集まった。ネルが倒れ、両手をつく。揺れはおさまらず、おれはネルの腰にしがみついた。

 耳もとで、低い慟哭が聞こえる。大地が泣いていた。身を砕かれ、ずたずたにされ、灼熱の涙を流していた。

 ――さようなら。

 大地母神の言葉が心に伝わる。海底火山が噴火したんだ。

 揺れはしだいに静まりはじめた。大地のすすり泣きは続いている。地響きだろうか。おれの体の震えは止まらなかった。

 ネルが静かに体を起こしたので、まわりを見れるようになった。

 石畳がはがれ、ところどころ地面がむきだしになっている。周囲の建物は崩れ、屋根わらだけになっていた。神殿の柱が何本も倒れ、三角屋根が傾いていた。

 そのとき花びらが舞った。

 あっと思い、頭に手をやると、大地母神の花は散っていた。

 ネルがあたりを見まわしている。イシスの姿を探しているのだろう。中央広場の出入り口あたりで、立ち上がろうとしているのを見つけた。

 ネルが声をかけ、イシスが汚れた顔を向けた。

 その表情が、はっとなる。「津波だ」と叫んで、立ち上がった。

「これだけ大きな地震のあとだ。こんどの津波はきっとカロンをのみこむ。あの船に避難すれば、助かるかもしれない。だから早く」

 少年たちが顔を向けている。誰も、動かなかった。

「ぼくらだけでも行こう」

 イシスの言葉に、ネルがうなずいた。

 ネルとイシスが駆けより、広場から船屋敷へと駆けだした。体を起こしたマルーが、ちらりとおれたちに視線を向けるのに気づいた。

 ネルとイシスは瓦礫のあいだを走った。つぶれた家屋ごしに、帆船のある十字路まで見通せる。マストが見えないのが不思議だった。

 そのとちゅうで、イシスが声をあげた。

 船はほとんど横倒しになり、船腹が隣家を押しつぶしていた。通りに向かって、船底を大きくさらしている。支えていたロープが切れたんだ。

 イシスの足が止まった。その表情は見ないでも、わかった。

 イシスの父ダイクが、船底を見上げて突っ立っている。建造にようした10年の歳月が転覆したんだ。親子は同じ顔つきをしているのだろう。

「わたしが船を起こしてみる」

 ネルがそう言い、イシスに目配せした。

 2人は、傾いた左舷側にまわった。つぶれた隣家に船体が乗り、その下に、三角のすきまができている。ネルとイシスはそのあいだをくぐった。船腹の中心まで来て、ネルが地面に両手をつく。

 どくん、とおれの心臓が跳ね上がった。

 マナが集まりだした。都市を囲む森で、樹から樹へと力が伝わり、ネルの体に凝集する。森全体が共鳴しはじめた。

 ネルが両手で地面を突くと、かすかに船体が振動した。おれの心臓は早鐘のように打っていた。こんな真剣なネルは初めてだ。

 静かに船が持ち上がりだした。マストの先端が空に向かい、立ち上がっていく。

「やった」イシスが歓声をあげた。

 船べりがネルの頭上から遠ざかる。持ち上がる速度がしだいに落ちてきた。半分近く上がったところで、動きはぴたりと止まってしまった。

 船べりに集中していた力が、船が立ち上がるにつれ、上まで届かなくなったんだ。頭上高くで、手すりが不安定に揺れている。船腹に沿って伸び上がり、船べりまで力を移動させる必要があるんだ。

 ネルは大地に両手をついたまま、身動きできないでいた。あごから汗がしたたり、地面に吸い込まれる。船がもとに戻らないように支えるのが精一杯のようだ。

「ぼくが反対側から船を引っぱるよ」

 イシスが言い、遠ざかる足が視界にはいった。

「おれもなにか手伝うか」

「邪魔しないで」

 ちぇっ。おれはイシスを手伝おう。ネルの腰から飛び降り、船の反対側にまわった。おれの足だと、なかなかの距離だ。

 ようやく船首をめぐると、イシスがハシゴを船に立てかけ、船べりから垂れるロープを継ぎ足していた。それで引っぱり起こすつもりらしい。

 おれはロープのしんがりをつとめよう。

 そのとき何人もの声と足音が聞こえた。仲間を引き連れたマル―が、十字路を横切り、イシスのほうへ向かっていた。

 また邪魔するつもりだな。おれは猛然とあとを追う。

 みるみる引き離された。

 イシスとダイクがロープを引っぱっているところを、やつらは取り囲んだ。

 邪魔はさせるか。おれは足に力をこめた。

 マルーがロープをつかむ。他の少年たちも次々につかんだ。おれは意外な光景に立ち止まった。みんなで船を引っ張りだしたんだ。悪ガキが力を合わせ、巨大帆船を起こそうとしている。

 瓦礫のなかの大人が立ち上がった。道にうずくまる大人が顔を上げる。通りを行く大人の足が止まる。誰ともなく船に近づき、1人また1人とロープをつかんだ。人々の数は増え、船に群がりはじめた。

 ハシゴが船腹に沿って移動し、船べりから下がる他のロープにも継ぎ足される。かけ声があがり、いっせいにロープを引っ張りだす。

 市民はいま、ひとつになろうとしていた。

 ロープのしんがりは、あきらめよう。おれが行っても踏みつぶされるだけだ。

 おれはネルの側に戻った。

 船の反対側で立ち上がったネルが、両手を高く差し上げていた。船べりは前より上がっていた。向こう側から、かけ声が聞こえる。しだいに船体が持ち上がり、マストが空にそびえはじめる。

 ネルが体全体で押し上げるようにする。船腹があらがうように震え、ついに向う側へ傾きだした。登りはじめた太陽が、手すりごしに光をそそぐ。巨大帆船は、太陽を押しのけるように、立ち上がっていく。

 船底が大地に着地し、地響きとともに土ぼこりが舞い上がった。おれは振動で跳ねあがり、尻もちをついた。

 大きな歓声があがった。おれはひょいと飛び起き、ネルの足にとびついた。見上げると、ネルのすがすがしい表情があった。

「津波だ。きっと大津波が迫っている」

 イシスが走りこんできた。

 ネルの顔つきが一変した。

 おれはネルの足を這い上がり、腰ひもにもぐりこんだ。

「ぼくは街の人たちに呼びかけ、船に乗り込ませる。ネルも船に乗るんだ」

 だが、ネルはためらっているらしい。

「津波が市壁を超えるには、まだ時間があると思うの。中央広場の人にも声をかけてくる。できるだけ、たくさんの人を救わないと」

「わかった。でも、無理はしないで」

 イシスが、乗船を誘導しに駆けていった。声をはりあげ、呼びかけている。

 ネルが髪をひるがえし、駆けだした。

 中央広場を斜めに横切り、メインストリートに入る。目についた人々に声をかける様子はなく、まっしぐらに市門を目指す。嫌な予感がしていた。おれの勘はいままですべて当たってきた。

 ついに門前広場に出た。ネルが石畳を蹴り、ひと跳びで軽やかに市門の上に立つ。見晴らす丘の向こうでは、目の届く限り、黒い水平線が立ち上がっていた。

 ネルはバカだ。大バカだ。

「どうして市民を助けようとする。あいつら、おれたちになにをしてくれた」

「イシスに力を貸すと約束したから」

「イシスだったら、あのでっかい船があるじゃないか」

「それだけじゃない。わたしはマナンの血を引いているの。この島に広がる森は、かつて多くの仲間が血を流した、先祖の墓でもあるのよ」

 きーーん、と甲高い音が広がった。森じゅうを駆けめぐり、かつて世界を支配していたマナンの力が、ネルの体に集まる。マナン島全体が共鳴していた。

「――レム」

「なんだ?」

「おまえを、もっとハンサムに作ってあげればよかったね」

「……いいよ。気にしてないから」

 津波が岩場を乗り越え、もりあがった。丘を下って押し寄せる。左右に広がる森のあいだからも流れ込む。大地をのみこみ、ぐんぐん迫ってきた。

 おれは段違いの目で、それをにらみつけた。

 ――さあ、来たぜ。

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