第9話 レム
突然のハンナの死に、
前日まで元気でしゃべっていたのに、一夜明けると、ベッドで冷たくなっていた。ガザロの診断は心肺停止だった。エーリヒのときと同様、またもや原因がわからず、いつにもまして不機嫌そうだ。
教会に連絡がいった。葬儀は翌日行なわれる。修道女たちがハンナの体を洗い、白い衣を着せた。なきがらは施療院の礼拝堂に一晩中安置される。
翌朝早く、遺体は、むきだしのまま台に乗せられた。ハンナに身寄りはないので、施療院の職員がかついで、教会の墓地に運ぶ。
修道院長が先に立ち、全身黒づくめの葬列が道を進んだ。
ネルも喪服を着て、列の最後についた。きのうから元気がない。ハンナの世話をしていて、仲も良かったので、やはりショックなんだ。
道いく人々はちらりと見るだけで、葬列に関心をむける様子はなかった。子供たちはさっと物かげに隠れ、列が通り過ぎると、出てきてはしゃぎはじめる。人の死はそれほど珍しくないのだろう。
墓地は、木立ちを挟んで、教会の裏手にあった。
墓地に面した道は中央広場につながっていて、建物と建物のあいだから、市場におもむく人々の活気がもれ聞こえる。生者の世界と死者の世界が、そこで分かたれているようで、おれは厳粛な気持ちになった。
墓地では、すでに墓掘り人夫が墓穴を掘りおえて待っていた。
施療院の職員が、遺体を墓穴に下ろす。墓堀り人夫の2人は、スコップに体をもたせ、手持ちぶさたにしていた。参列者が目をつぶり、司祭がレクイエムを唱えはじめた。ネルも両手を合わせ、しきりに祈る。
司祭の合図で、墓穴に土がかけられだした。
「待って」
悲鳴に近い声があがった。
エリスだ。修道院長に近づき、ネルにむかって指をつきつける。
「あいつよ。あの女が毒殺したんだ」
ネルの体がびくんと震えた。驚いているのか、否定の言葉も出ない。
「わたし、見たのよ。あの女がホットワインになにか入れるのを。ガザロ先生に調べてもらって。あの遺体には毒殺の証拠が残っているわ。埋めてしまったら、だめよ。あいつを告発する大切な証拠なんだから」
「あいつ、などという言葉は慎みなさい」
院長が叱責した。
エリスは口を閉じたが、唇を噛みしめ、ネルをにらみつけている。
ネルは反論しなかった。じっと、うつむいている。
おれは、ネルが浮かない表情をしていた理由を知った。
ネルは2日前も、ホットワインに自分の血をたらしていた。マナの力で体の芯から温めようとしたんだ。けれど、もともとハンナの心臓が弱っていて、吸収されたマナに耐えられなかったのだろう。
ネルはずっとそれを気にやんでいたんだ。
司祭が困惑した顔つきで突っ立っている。院長が続けるようにうながした。
馬車の音が通りから聞こえてきた。
馬車は墓地の近くに止まり、なかから身なりの立派な中年男が降りたった。馬に乗った兵士が4人、護衛についている。
やつらは、鎖を編んだような服で全身を包み、腰にぶっそうなものをぶら下げ、ものものしい雰囲気だった。
男は、宰相のゲルダーだと名のった。金の輪のついた黒い頭巾をかぶり、顔は浅黒く、鋭い目をして、短く刈った口ひげを生やしている。黒いマントをまとい、止め具に高価な宝石があしらわれていた。
きょうは施療院の視察に来たが、弔いに出ていると聞き、ここまでおもむいたという。〈四葉の会〉の評判は城にも知られていて、それがたしかなら、国王は補助金を出してもいいそうだ。
ゲルダーの鋭い目が、ネルをうかがう。
おれはあまりいい気持ちがしなかった。エリスの、ゲルダーにすがりつくような目も気にいらない。ネルはさっきから身じろぎひとつせず、黙りこんでいた。
墓地に面した通りには、物見高い人々が集まっていた。ゲルダーがちらりと背後の群集をうかがう。おれはその視線の先に、見覚えのある顔を見た。それは塔の見張りで、ネルのまねをして溺れた男だ。
おれの記憶力に間違いはない。おれは顔は悪いが、頭はいいんだ。
ますます嫌な気分になった。
葬儀の帰り道、誰も口を開かなかった。
もっとも修道院の規則で無駄口は禁止されているが、あえて葬儀の話題をさけているように思えた。ネルの顔がすぐれないのは、やはりエリスの言葉がショックだったのだろう。
広場は市に集まった人々でにぎわい、行列の陰鬱さがきわだった。
施療院に戻ると、さっそくゲルダーの視察が始まった。お供の兵士をひとりつれ、院長の案内で院内を歩く。まずは病室に入り、患者の様子を見てまわる。あまり熱心に観察しているようには見えなかった。
薬草室は、たんねんに見てまわっていた。ガザロとネルが立ち会うなか、長持ちをあれこれあらためては、いちいち薬剤についてたずねた。毒でも探しているんじゃないか――おれはにらみつけてやった。
振り返ったゲルダーと目があう。鋭い目でおれを凝視すると、「それはなんだ」とたずねた。ネルは、「魔除けです」と答えた。
おれのひとにらみに、ゲルダーを退散させる力はなかった。
ゲルダーは施療院の裏手に向かい、修道院の視察をはじめた。礼拝堂や院長館、修道女の宿舎などを、おざなりに見て歩く。修道女の話はよく聞いていて、とくにエリスとは熱心に話しこんでいた。
「よくわかった」
ゲルダーが修道院長にひとこと言い、視察は終わった。馬車に乗り込み、騎馬の護衛とともに走り去った。施設を歩きまわっただけじゃないか。おれにはなにがよくわかったのか、まったくわからなかった。
ネルは気分がしずんでいるらしく、1日中、寝わらに横たわっていた。
明くる日の午前中、エーリヒが顔をのぞかせたときも、ネルはしょんぼりしていた。2人は薬草室で会った。おれはテーブルからその様子をうかがった。
「なんだか、元気がないね。なにか、あったの?」
エーリヒが、気さくに声をかけた。
ネルが重い口調でハンナの死を伝えた。墓地での出来事は話さなかった。
「困ったな。ぼくはネルの肖像を描こうと思ってたんだ」
「わたしの肖像画を」
「そんな悲しそうな顔は描けないな。ぼくはネルの笑顔が描きたいんだ」
歯のうくセリフだ。おれに歯はないけどな。
ネルは、細かい歯まで作るのがめんどうだったらしい。もっとも、そんな細工を、不器用なネルに望んでも無理な話だ。
それでも、ネルの顔にほんのり笑顔が浮かんだ。
「その調子。きょうから始めよう。休憩時間にでも仕事を抜けられない?」
「お昼のあいだなら、1時間くらい」
そう応え、ネルの表情が明るくなった。
昼どきになり、ネルは食堂で、パンやワインをバスケットに積み込み、おれを置いて、いそいそと出て行った。バスケットには隠れられなくなった。もっとも2度と、あのなかにひそむ気はない。
帰ってくると、肖像画の進行具合を嬉しそうに報告した。エーリヒは川岸の森側にいい場所を見つけ、そこを背景に、ネルの絵を描いているそうだ。2人は船着場で待ち合わせ、エーリヒがボートをこいでいく。
ネルは日ごとに元気を取り戻した。きょうも昼の鐘が鳴るや、部屋に戻り、外出の準備をはじめた。おれはネルの足首を蹴飛ばした。
「やい、おれも連れて行け」
ネルは嫌そうな顔をしたが、寝わらに隠したメダルを院長にばらすと脅すと、しぶしぶ承知した。おれはネルの腰紐にぶら下がった。
塔を出ると、塀ぎわの奥まったところに2人の男女がいた。男は、川でおぼれた夜警だ。勝手に敷地に侵入しやがって――と女が振り向いた。エリスがちらりと視線を投げ、すぐに顔をそむけた。
ネルは、2人には気づかず、はずむ足取りで街路に出て行った。
エーリヒは船着場で待っていた。おれを見て、ちょっと顔をしかめやがった。
ネルがその表情に気づき、
「これには魔除けの効果もありそうだと言ってたよね。わたしたちの仲を邪魔するものや、障害なんかを、ひとにらみで追い払ってくれるの」
「その人形の面相なら、たしかにそのご利益もあるね」
エーリヒは、いちおうネルの言葉に合わせた。
おれにそんなご利益なんか、あるもんか。
ふと、船着場の奥に平底の船が係留され、材木が山のように積んであるのが目についた。森で伐採したのを運んできたのだろう。
エーリヒがボートに乗り込み、手を貸してネルも乗せた。2人は向かい合い、エーリヒがもやい綱をといて、ボートをこぎはじめる。
水に浮かぶ感じはなかなかいいもんだ。船底で水が心地よくたゆたい、対岸の森からさわやかな風が吹く。空は晴れわたり、すがすがしい。
ネルとエーリヒは盛り上がらなかった。前はあんなにはしゃいでいたのにな。おれの存在が、エーリヒは気になるらしい。
肖像画を描く作業が始まった。
そこは森が開けた岸辺で、茂みに囲まれた狭い草地になっていた。切り株に座ったネルが、花の冠をかぶり、はにかんだ表情でポーズをとる。木漏れ日が斜めにネルの顔を横切り、妙にきれいに見えた。
エーリヒはおれに背中を向け、イーゼルの前で絵筆をふるう。
おれがいるのは、水草の生えた岸辺にもやわれたボートだ。船べりに伸び上がって、2人の様子をのぞいている。エーリヒが、おれの目があると気が散ると言いだしたせいだ。芸術家を気取りやがって。
エーリヒは調子があがらないようだ。いらいらと絵筆を使い、頭をかきむしり、ときおり、肩ごしにボートのほうをうかがう。
「どうしたの? なんだか落ち着かないみたい」
ネルがたずねた。
「さっきから見られているようで、気になってしかたないんだ」
エーリヒはまた背後に視線を投げた。
「そんなわけないじゃない。うしろはずっと川が広がっているだけよ。誰もそんなところに潜んでいられないでしょ。気のせいよ」
「そうなんだけど、水に棲む魔物かも」
魔物って、おれのことか? おれは思いきり片目をつぶってやった。
エーリヒが、ぶるっと体を震わせた。
「やっぱり調子が悪いみたい。きょうはもうやめましょう。せっかく病気が治ったのに、またぶりかえすといけないから」
ネルが心配そうに気遣った。
「そうだね。ちょっと寒気がする。戻って休んだほうがよさそうだ」
ネルとエーリヒが帰り支度をはじめた。
2人が連れ立ってやってきたので、おれはボートのなかに転がった。ネルがおれを拾い上げ、ちょっと顔をしかめてから、もとどおり腰ひもにぶら下げた。エーリヒがオールを取り、ボートが岸を離れた。
冷たい風が吹きぬけ、水際の草を揺らす。太陽の少し傾いた空を、千切れ雲がものすごいスピードで流れる。そろそろ昼休みも終わりだ。
船着場では午後の仕事が始まっていた。
船から荷が降ろされ、人夫が動きまわり、荷車が行き交って、活気にあふれている。材木船がまだ係留してあった。変だなと思ったのは、誰も荷降ろし作業をしていないことだ。あれから手つかずに見えた。
その材木船は、船着き場の手前の端にあり、ボートをつけるにはそこを迂回しないといけない。エーリヒがオールをあやつる。
ボートが材木船の横に並んだときだった。材木をたばねていたロープがゆるんだらしく、丸太の山がぐらついた。危ない、と思った瞬間、上部の数本がくずれ、おれたちの上に転がり落ちてきた。
1本目が川でしぶきをあげ、ボートが大きく揺れた。つぎの丸太がへさきに命中した。ネルが船板に手をつき、エーリヒがうしろにつんのめった。ボートが引っくりかえり、おれたちは川に投げ出された。
ネルは、転覆したボートの下にうまくもぐりこんだようだ。頭上を黒い影がおおう。鈍い音が立て続けにするのは、丸太が船底に当たる音だ。材木はつぎつぎに落下し、水中は泡だらけになった。
エーリヒがどうなったかは、わからない。ネルは息を止め、できるだけ我慢しようと決めたようだ。じっと、その場にとどまった。
しだいに水が澄んできた。
ネルがボートの内側を手探りして、船べりから顔をのぞかせた。
ボートは船着き場から押しやられ、材木船とのあいだに、何本もの丸太が浮かんでいる。船に積んであった材木は、半分がた崩れていた。
河岸沿いの通りに人々が集まっていた。ネルが、転覆したボートの上にはいあがると歓声があがった。
ネルが不安げに川面を見まわす。エーリヒを探しているんだ。
材木船の近くで、浮かんだ丸太のひとつが動いた。そこから手があらわれ、エーリヒの濡れそぼった顔がのぞいた。木に両手をかけ、胸のあたりまではいあがる。ネルに顔を向け、弱よわしく片手をあげてみせた。
ネルとエーリヒは互いの無事を喜びあった。
おれの目は材木船にそそがれていた。材木の陰から男があらわれ、人混みのなかにまぎれこんだ。まぎれもなく、塔の夜警だった。
そのとき、まだ船に残っていた丸太の1本が傾いた。木材の山を転がり落ち、船べりで跳ねて飛び上がる。まさにエーリヒの頭上だ。
エーリヒが振り返るが、もう間に合わなかった。
ネルの体にマナが凝縮されるのを感じた。対岸の森から、甲高い音が響く。群集の叫びがあがり、おれは目をつぶった。
叫びは恐れに変わった。
ゆっくり目を開けると、エーリヒが振り向いた先で、丸太が空中に静止していた。エーリヒの体は硬直し、頭上に迫った木から逃げようともしない。
ネルは船底にまたがり、見えないなにかを支えるように、両手を差し上げている。体から強力なマナがあふれていた。
河岸通りに集まった人々は、驚愕の眼差しを向けたまま、微動だにしなかった。ネルは丸太だけでなく、群集の動きをも止めたようだ。
ネルが両手で押すような動きをし、それにつれて丸太も動いた。エーリヒの背後の川面に、放物線を描いて着水する。水しぶきがあがり、その音で人々はわれに返った。顔を見合わせ、言葉を交し合っている。
ついにネルはやった。きっと賞賛の声があがるだろう。
エーリヒはというと、目を見開き、口を半開きにして、ネルを凝視している。恩人に向ける顔にしては、おかしかった。
河岸通りでは、人々がざわついていた。ざわめきが伝わり、周囲に広がって、ふくれあがる。口々に、「マナン、マナン」と連呼される。そこには断罪するような響きがあった。ついに岸辺は、群集の声であふれかえった。
なにかがおかしかった。
ロープがゆるんだくらいで、材木が崩れるだろうか。積みかたに細工してあったんじゃないのか。塔の夜警は船の陰でなにをしていたのか。そもそも、なんのために丸太を積んだ船が係留してあったのか。
人垣がわれ、ひときわ立派な身なりの男があらわれた。宰相のゲルダーだ。どうしてこの場にいるのか、おれにはまったく理解できなかった。
ゲルダーがお供の兵士とともに、船着場の小型船に乗った。兵士がオールをこぎ、浮かんだ材木を迂回して、ネルに向かってきた。
船が接舷し、転覆したボートが揺れた。
兵士のひとりが、しゃがみこんだネルの両脇を抱え上げ、小型船で待つ兵士にあずけた。ネルはされるがままだった。
おれたちは、引っくり返ったボートを離れた。
エーリヒが丸太につかまって浮かんでいる。
ついでにというようにエーリヒを拾い、船は船着場に戻ってきた。エーリヒは、ネルに目もくれようとしなかった。
ゲルダーが河岸に降りたち、兵士につれられたネルが続く。まるで連行されるみたいだ。エーリヒはついに、ネルを見ようとしなかった。
ざわめく人々のあいだを、ネルは、街角に止められた馬車に連れられる。マナンという声はたえず、ネルにおおいかぶさる。人混みのなかに、ちらりと、エリスの仮面のような顔がのぞいた。
エーリヒが船着場に突っ立っている。ネルと目が合うと、すぐに視線をそらし、逃げるように群衆のあいだに消えた。
ネルは思い切るように顔をそむけ、自分の運命に向かって歩きはじめた。
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