第4話 ウィルム・コート
婚礼につづく2日間は、飲んだり食べたり踊ったりと、ものすごい騒ぎだった。騎士叙任という島の快挙と二重のお祝いだから、宴会は盛大なものとなった。
領主館では島でとれるあらゆる食材の料理が並んだ。温暖な気候で様々な作物がとれ、沿海は新鮮な魚介の宝庫だった。
なにより男たちが喜んだのは、両家の提供したワインだ。最初は上品にたしなんでいた客たちも、宴会が盛り上がるにつれ、がぶ飲みするようになり、乱痴気騒ぎとなった。
館の外には、酒を入れた樽がいくつも並べられ、誰でも自由に飲めた。宴会の費用は税金でとられるのだから、と島民たちは酔いつぶれるまで飲んだ。女性客には砂糖菓子が大人気だった。
ウィルムは宴の1日目で、いいかげん疲れた。お祝いを言う友人や知人がとぎれず、食べる暇がない。それも言葉だけではすまず、かならず酒も勧められる。アルコールで腹がふくれ、料理に手をつける気さえなくなった。
アミリアも同じ状況で、友人たちにとりまかれ、なかなか抜け出せないでいる様子だ。2人きりでいられたのは結婚式のあいだだけで、宴会が始まってからは、ほとんど言葉を交わしていない。
しだいに宵闇が迫ってきた。
ウィルムの目の端で、アミリアがそっと友人の群れから離れた。口もとを押さえ、気分が悪そうな表情で、大丈夫、と片手を振る。ウィルムは、勧められるボトルを押し返し、トイレと断って宴会場から抜け出した。
廊下にアミリアがいた。ウィルムをみとめて頬を上気させる。悪酔いは演技だったのだろう。顔を赤らめているのも酒のせいじゃなさそうだ。ウィルムは新妻の肩を抱き寄せると、目顔でうなずいた。
階段を上がって廊下に出ると、寝室からほのかに明かりがもれていた。ウィルムはいぶかりながら、アミリアをなかに導いた。
なかでは、式を挙げてくれた主任司祭が待ちかまえていた。銀の燭台を手に、8歳くらいの小姓をともなっている。
「夫婦の寝所を祝福しよう」
司祭が厳かに宣言した。
小姓が聖水と香炉を取り出し、準備を始める。鎖でつった香炉が振り子のように揺らされ、香がたちこめるなか、司祭が聖水を床に振りかけだした。祝福の言葉が朗々と響く。
ウィルムとアミリアは突っ立ったまま、その様子を眺めていた。
「かまわず営みなさい」
司祭が横目で見やる。
できるわけがない。ウィルムはアミリアの手を引き、寝室から逃れた。
屋敷を出て、夜の海岸に向かう。庭を横切り、木立ちを抜けると、すぐ砂浜が広がった。潮の香りが流れる。波打ちぎわを歩き、岩場に並んで腰かけた。一息ついて顔を見合わせると、思わず笑みがこぼれた。
暗い海に、白い縞が走ってはくだける。夜の静けさに波音が心地いい。湾の片側には黒々とした岬が突き出し、反対側では、白い砂浜が森の影にのみこまれている。波が岩にあたり、ときおり水しぶきがあがった。
「みんな、ぼくらを放っておいてくれないみたいだ」
ウィルムはうんざりしていた。
振り向いたアミリアの長い髪を、月明かりが金色に輝かせる。はっとするほど美しく、ウィルムは息をのんだ。
「わたしの結婚相手がウィルムでよかった」
アミリアがはにかんだ表情で言う。
「本当にそう思う?」
「わたしが想像していた騎士にそっくりだから。桟橋で帆船に乗ったウィルムを見たとき、わたしの騎士がようやくこの島から救いだしにきたと思った」
「この祝宴が終わったら、きみをブリテン島に連れて帰る。ぼくの貴婦人として、なにがあろうと一生守りつづけるつもりだ」
ウィルムはアミリアの肩を抱き、顔を寄せた。言葉は必要なかった。アミリアが目を閉じ、自然に唇が合わさった。
ウィルムはそっと唇を離した。
アミリアの目が開き、すぐにまつ毛がふせられる。ウィルムは妻を抱く手に力をこめ、暗い海面に踊る白いしま模様に目を転じた。
アミリアの想像上の騎士とは、吟遊詩人の語るものだろう。ウィルムはそう推測した。コートアイランドから騎士が出たのは初めてで、アミリアが本物を見る機会はなかったはずだ。
アミリアは経済的にはなに不自由なく暮らしてきた。しかし、本人の自由はほとんどなかったに違いない。ウィルムは、騎士道物語などで女性に対する美徳がうたわれるわりに、実際の扱いが不当なものであると気づいていた。私腹を肥やすための、政略結婚の道具としてしか見なされていなかった。だから吟遊詩人の語るロマンスに、アミリアはとびついたのだろう。
ウィルムは、アミリアの金色の髪に指をすべらせる。それは月の光にきらめき、さらさらと指のあいだを抜ける。
「ブリテン島に戻って落ち着いたら、きみの美しい髪のために
「ありがとう。わたしの騎士さん」
ウィルムたちは夜陰にまぎれて屋敷に戻った。そっと寝室をうかがい、司祭と小姓が立ち去ったのを確認して、ベッドに飛び込んだ。
その夜、主任司祭と小姓の夢を見た。司祭は厳かな表情で瞑目し、薄目を開いてウィルムをうかがう。そばに控える小姓は天使のように清らかだ。
はっと目覚めると、ベッドの隣でアミリアが寝息をたてていた。
ウィルムは静かに体を起こし、新妻の顔をのぞきこんだ。アミリアは片頬を下にして、その白いうなじに朝日が射している。金色のほつれ毛が額にかかり、伏せたまつ毛はつややかだ。
これで夫婦になったんだな。
ウィルムは感慨にふけり、片肘をついて頭を支えた。
アミリアが寝返りをうった。まつげが震え、瞳が開いた。ぼんやりした眼差しがしだいに焦点を結び、ウィルムの顔をとらえる。アミリアの頬に朱がさした。
「わたしの顔になにかついている?」
「見とれていたんだ」
「わたしの騎士さん。あの浮かれ騒ぎからわたしを救いだすのに、どうしてこんなに時間がかかったの。待ちくたびれたわ」
アミリアがすねた顔つきで非難する。
「ごめん。ぼくもあの連中にはまいっていたんだ」
ウィルムは両腕を頭にあて、ごろりとあおむけになった。
騎士の2番目の使命は不手際だったらしい。
翌日、ついにブリテン島に戻る日になった。明け方の出帆にもかかわらず、桟橋は見送りの人でひしめいていた。
ウィルムは新妻の肩を抱いて船首に立ち、集まった島民に視線を流した。なかには父と母の姿もあった。人だかりの向こうに、湾を囲む崖がそびえている。そのふちで緑色の樹々が朝日にきらめく。故郷の景観とも、しばらくお別れだ。ウィルムはしっかりと目に焼きつけた。
帆船は桟橋を離れ、静かに湾を航行していく。岬をまわると、故郷の景色は絶壁にかき消された。これからはアミリアとともに人生を歩んでいく。ウィルムは、妻の肩にかけた手に、ぎゅっと力を込めた。
船は叔父のコート伯からあずかったもので、全長60フィート(18メートル)の1本マストの帆船だ。船倉にはアミリアの衣装や家財道具、結婚のお祝い品などが積まれている。ウィルムは船乗りではないが、島で育ち、このくらいの船なら自分でも操れた。帆船は波をかきわけ、おだやかなケルト海を順調に進む。
ウィルムは舷側に体をあずけ、海を見渡した。空は晴れ渡り、風は穏やかだった。日没前にはブリテン島につけるだろう。
甲板を踏む音がした。アミリアだ。
アミリアは船は初めてではなく、島の周囲をボートでこいだ経験もあった。外洋に出たことはないはずだが、恐がっている様子はなく、はしゃいでいるようだ。
アミリアが、はるか西の海原を見つめる。
「世界ってすごく広いのね。わたしは生まれてから1度も島を出る機会がなかった。本当に知らないことばかり」
「これからは違う。ブリテン島に住めば、いっきに世界が広がる。きらびやかな宮廷、勇猛な騎士、華やかな社交界の貴婦人たち。アミリアの生活は一変するよ」
「わたしも貴婦人になれるかしら?」
アミリアが顔を向けた。
「騎士の花嫁は貴婦人に決まっているだろ。叔父の居城につけば、また何日にもわたる大宴会が待っているよ」
アミリアが、ちょっとうんざりした表情を浮かべた。
「それは楽しみだわ。わたしの騎士さん」
進行方向に、ブリテン島の南西に突き出た岬が姿をあらわれた。
横波を受けて船が揺れ、ウィルムは船縁に左手をついた。そこにアミリアの左手が重なる。2人の指のあいだで、祝福された指輪が西日にきらめいた。
「この指輪。ちょっとゆるいみたい」
アミリアは気になるようだ。
「結婚生活が始まれば、じきぴったりになるよ」
「そうかしら。――あっ」
アミリアは、海面のなにかに気をとられたらしい。ウィルムはアミリアのうしろに回り、彼女の視線の先を追った。
大きな泡状のものが海に浮かんでいた。それは直径5フィート(約150センチ)ほどの半透明の物体で、内部に虹色の光りを宿している。
「クラゲじゃないか」
ウィルムは当て推量で言ってみた。
「違うわ。クラゲみたいにふにゃふにゃしていないし、内側で発光している」
「新種だよ。きっと毒をもっているんじゃないかな」
「ぜったいクラゲなんかじゃない。表面はつるんとして、ルビーのようにきれい。お願い。あれを捕まえて」
ウィルムは気がすすまなかった。とても騎士のする仕事とは思えない。
「お願い。わたしの騎士さん」
そう言われると弱かった。これが騎士としての3番目の使命になった。宴会から連れだすという2番目の使命は不手際だったから、しかたない。
水夫に声をかけて停船させると、ウィルムは従者に網を持ってくるように命じた。獲物とのあいだには20フィート(約6メートル)ほどの距離がある。確実に捕らえるためには、投げ網をする前にもう少し近づきたい。
従者に網をかまえさせ、舵取りに船を近づけるように指示した。
網の届く距離まで近づくと、光る泡の様子がよくわかった。それは弾力のある膜で包まれ、魚の卵のようだ。内部では虹色に変化する光りがおどる。
北の海には、小島ほどもある巨大魚がいるという。その卵がケルト海まで流れてきたんじゃないか、とウィルムは推測した。
ぎりぎりまで船を寄せ、従者に網を投げさせた。
網は獲物の真上で大きく広がり、まっすぐ落下する。発光する泡をそれをすいっとよけると、ふたたび20フィート近く遠ざかった。
波にさらわれたのではなかった。自分の意思で移動したように見えた。
生きているのか、とウィルムは思った。
「追いかけるんだ」
ウィルムは命じ、船が方向を変えはじめる。
光る球体も動きだした。こちらの動きがわかっていて、それから逃げているようだ。歩くぐらいのスピードで西へ向かう。
しばらく追いかけっこが続いた。進行方向に沈む太陽が、海原を赤くそめる。目指していた岬はすでに波のかなたに消えていた。しかし、ブリテン島をかいま見たいま、それほど不安はなかった。
不意打ちのように海が荒れだした。
アミリアが悲鳴をあげて倒れてくる。ウィルムは彼女の体を受け止め、船べりにつかまった。船体が激しく揺れつづける。
無数の波が騒いでいた。船体がピッチングやローリングを不規則にくりかえす。波の動きはめちゃくちゃで、いくつもの潮流がぶつかりあっているようだ。
「早く帆を下ろせ、ひっくり返されるぞ」
ウィルムは指示を飛ばすが、帆はマストからだらんと垂れていた。その下で、数人の水夫が立ちつくしている。
海はないでいた。
風がないなら、この荒波はいったい? ウィルムはその異変に気づいた。
「とにかく帆を下ろせ」
水夫たちがあわてて縮帆作業にとりかかった。
「舵をとれ。停船させるんだ」
こんどは舵取りにむかってどなった。
「だんな。よくわからねえが、ものすげく速い潮流につかまったらしい。舵がまったく利かねえんだ。海神の手にとっつかまったみたいだ」
舵取りが巨体を舵柄にかがみこませ、おびえた目を向ける。
たしかに船の速度は上がっていた。10ノット(時速19キロ)は出ているのではないか。潮流だとしても、ふつうじゃなかった。
「錨を投げろ。船を止めるんだ」
水夫が船尾に走り、錨を海中に投じる。効果はまるでなかった。船のスピードは落ちるどころか、ますます上がる。
夕日に赤く染まった海面に、泡立つ波が白い縞模様をつくっている。光る球体の姿はいつしか見失っていた。
舵取りは速い潮流につかまったというが、こんな速い流れは聞いたこともない。違う。なにかがおかしい。水夫の恐慌からも、この潮が自然でないとわかる。
アミリアの不安そうな顔が見上げていた。
「大丈夫だ。なにも心配はいらない」
ウィルムは、アミリアの肩を抱く腕に力をこめた。
ふいに船体が持ち上がった。ウィルムは弾みをくらい、船の内壁に叩きつけられる。船はすぐさま左舷に傾き、こんどはいっきに降下した。ウィルムはとっさに船べりをつかむが、アミリアの体が腕から飛び出した。
悲鳴とともにアミリアが甲板を滑っていく。
「アミリア」ウィルムは声をあげた。
船上の固定されていないものが転がり、左舷から海へ落下する。アミリアは、船べりの内側にぶつかり、そこにうずくまった姿勢でとどまった。
「いますぐ助けにいく。その場所を動くんじゃない」
ウィルムは力づけるように声をあげた。
見上げるアミリアの顔は、恐怖で真っ青だった。
船首の近くで、ウィルムの従者が震えている。水夫のあるものは甲板にへばりつき、あるものは船べりにしがみつく。手助けを呼べそうにはない。
ウィルム1人でアミリアを救出するしかなかった。
揺れはだいぶおさまっていたが、甲板はいぜん30度近く傾いたままだった。へたに滑りおりたら、その勢いで船べりから海に投げ出されかねない。なにか足がかりになるものはないか――。
船尾の方向に視線を流すと、帆を下ろしたマストが危なげに揺れている。ウィルムの足もとでは、アミリアがうずくまっている。
――帆柱を中継して左舷まで下り、彼女のもとへ近づこう。
アミリアの目が恐怖で見開かれた。
その視線を追い、ウィルムはあまりの景観に息をのんだ。
海が巨大な壁となってそそりたっていた。その表面はこそぎとられたようになめらかで、視界のおよぶ範囲をこえて左右に広がる。壁のふちは白く泡立ち、射しこむ夕日と混ざって、オレンジと白のまだらだった。
船はその一角にななめに突きささっていた。転覆しないのはそのためだ。船足はおとろえず、海の高さはいっそう増したようだ。
いや、海はへこんでいるんだ。船は下へ下へと落ちていた。
うず潮だ。ウィルムはそれに気づいた。
あまりに巨大だったので、船が落ち込むまでわからなかった。うずの果てがまるで見えない。何マイルにもわたって広がっているのだろう。
マストの先端がさっきより傾いている。
うずが下るほど、甲板の傾きは増すはずだ。こうしてはいられない。
ウィルムは船の内側を慎重に伝わり、マストのある後方に移動する。足もとに帆柱がくると、甲板を滑り、その根もとに降りたった。
下方でアミリアが動くのを、目のはしがとらえた。ウィルムの救援に気づいたのだろう、傾いた甲板に手をつき、体を起こそうとする。
「だめだ。立つんじゃない」
ウィルムは慌てて帆柱から左舷に下りた。ウィルムの体重がかかり、船が急激に傾く。立ち上がりかけたアミリアが転倒した。彼女の体が船べりを超え、うず潮のなかに投げ出される。
ウィルムはとっさに跳んだ。腕を伸ばして、船べりから消えようとするアミリアの手をつかむ。その指がするりと抜けた。
悲鳴がうず巻きにのみこまれ、やがて消えた。
ウィルムは這いつくばって、うず潮の底をのぞいた。
ごうごうと潮がとどろき、風圧で髪が舞い上がる。黒くうず巻く中心部が、かなたまで落ちこんでいる。アミリアの姿はどこにもなかった。
『わたしの騎士さん』
違う。ぼくは騎士じゃない。アミリアを守れなかったのだから。
ウィルムは強くこぶしを握りしめる。
小さく固いものを感じた。指を開くと金色の結婚指輪だ。アミリアの指がすりぬけたとき、ウィルムの手に残ったものだ。
――アミリア。
ウィルムは立ち上がり、腰に帯びた剣を確認した。
船内を見まわすと、水夫たちが船べりやマストから伸びるロープにしがみついていた。船首のほうで、ウィルムの従者が頭を抱えてうずくまっている。
ウィルムは従者を呼びつけた。
従者はなかなか気づかなかった。どなりつけると、そうっと顔を上げる。
「アミリアがうず潮に落ちた」
従者は怯えた表情で、首を上下に動かす。
「これから彼女を救出に向かう。おまえはどうする。船に残っていても、ゆっくり落ちていくだけだ。それともうずがおさまるのを待つか」
従者が首を動かすが、肯定とも否定ともつかなかった。
「おまえの役目はとく。自分の運命は自分で決めるんだ」
ウィルムは顔を戻し、足もとを凝視した。
うずの底は見えず、ただ黒い深淵が広がっているだけだ。
気持ちは固まっていた。
もういちどアミリアの指輪を確認した。左の小指にはめると、ぴったり収まった。薬指と小指にふたつ並んだ指輪がきらめく。
その手で剣をつかむと、ウィルムはためらわず、うず潮に飛び込んだ。
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