11.頼もしい背中

 みんながお弁当を食べ終わる頃、先生の車に乗って展望所までやってきた繭香は、真っ先に佳世ちゃんを攫ってどこかへ行ってしまった。

 しばらくして帰って来ると、憐れむような表情で私の肩をポンポンと叩く。


「普通に歩いたって大変なこの行事中に、よくもまあそれだけ面白い展開をくり広げられるな? ……早坂にお礼を言わなきゃならない……ぜひ私もその場に居たかった……」

 しみじみとそんなふうに言われてムッとした。


「こっちは面白くもなんともないのよ!」

「いや面白いだろ……」

 意地悪そうに唇の端を吊り上げた繭香に背を向けて、私は歩きだそうとした。

 けれどその途端自分の目の前に立ちはだかった人物を見て、思わず大声を上げてしまった。


「う、うらら!?」

「琴美……おはよう……」

 私に向かって両手をさし伸べたうららは、薄い色の髪を私の肩に押しつけるようにして、すぐに首に抱きついてくる。


「は? なに? なんでここに居るの?」

 混乱するばかりの私に答えをくれたのは、うらら本人ではなく、どうやら彼女と繭香と一緒にたった今この場所に到着したらしい智史君だった。


「どうしても琴美と一緒に、自分も『それ』が見たいんだって……いつもよりちょっと早起きしたんだよ。おかげでこっちは寝不足……」

 眼鏡をかけた智史君は本当に赤い目をしていて、大きく伸びをしながら先生の車から降りて、こちらに向かってくる。


「ここまでの行程はサボっておいて、最後だけ現われるってどういうことだよ!」

 反対方向から走ってきた諒が、挑むような視線で智史君に問いかけた。


 智史君は眼鏡の奥の瞳をほんの少しだけ細めて、事も無げに言った。

「ああ。サボりなんかじゃないよ。うららは病気だから、途中からしか参加できないんだ。僕はそのつきそい」

「は?」

「夜に活動したらいけない病。本当の病名は適当につけたからもう忘れちゃったけど、れっきとした医者の僕の父さんが考えたんだから、そうおかしな名称ではなかったと思うよ? ちゃんと診断書を提出して、学校にも認められてる……これでいい?」

「…………!」

 諒の全身から怒りの炎が放出されるのが、私には見える気がした。

 きっと私だけではなく、その場にいた人間にはみんな見えたと思う。


 なのに智史君は涼しい顔をして、諒の怒りを煽るような話をやめてくれない。

 いいや。

 あれは絶対にわざとやってるんだ。


「なんでうららのつきそいでお前まで休めるんだ! ……なんて野暮なことは今さら聞かないでよ? そんなの……僕がうららの保護者代わりになってるからに決まってるでしょ?」

 最悪だ。

 足元に視線を落として、ブルブルと震え始めた諒の姿に私は気が気じゃない。


「智史君! 智史君! 私まだちょっとやることがあるから、うららをお願い!」

 そう叫んで、さっきは「おはよう」なんて言ってたのにまたすうすうと寝息を立て始めたうららの体を智史君に押し付けて、私は諒の手を掴んで走りだした。


「諒! 一緒に来て!」

「は? ……へ?」

 とまどいながらも、諒は私に手を引かれて走りだす。


「へえ……僕に感謝してほしいくらいだね……」

 クスクスという笑い声と共に背後で聞こえた智史君の呟きは、できればもう諒の耳には入らないで欲しいと願った。

 


 

「やることってなんだよ……?」

 みんなが集まってる展望所からはちょっと離れた休憩所まで走り抜けて、ようやく足を止めた私に向かって、諒はふて腐れたように問いかけた。


「ええっと……」

 何も考えずに走り出したのだから、上手い言い訳なんて当然浮かんで来ない。

 あちらこちらを視線を彷徨わせる私の顔を見て、諒ははああっとため息をついた。


「お前にまで気を遣われるようじゃ、俺ももう終わりだな……」

 心底落胆したような声に、ちょっとムッとする。

「なによ! 余計なお世話だったとでも言いたいの?」

「いや、助かったよ……ありがとう」

 思いがけず素直なお礼が返ってきて、驚いて諒の顔を仰ぎ見た。


 言った諒も、どうやら思わず言ってしまったようで、首まで真っ赤になって私から目を逸らす。

 お互いの心臓の音まで聞こえてしまいそうな気まずい沈黙を破ったのは、遠くから聞こえてきたみんなの歓声だった。


「おおおおう!」

「わあっ!」

 折り重なる叫びにふり返ってみると、山の端から朝日が顔を出すところだった。

 そう言えばさっきからうす紫色に明るくなってきていた空が、ほのかな茜色に輝きだす。


「ああ……出たな……」

 ため息のような声に諒のほうを見たら、眩しさに目を細めた諒が小さく笑っていた。

 その瞳の輝きに、まるで子供みたいに無防備な邪気のない笑顔に、視線が釘づけになる。


「ほら、あれだよ。この最後のチェックポイントで、先生たちが俺たちに見せたがってたもの。うららがわざわざお前と見るために起きてきたもの。……お前が去年、早坂のことばっかり考えててうっかり見逃したもの……」


「そんなんじゃないわよ!」と喉まで出かかった言葉が声にならない。

 からかうように、嬉しそうに、私の顔を覗きこむ諒から、悔しいくらいに目が離せない。


「早くみんなのところに帰るぞ。お前を独り占めしたなんて……うららの恨みを買って、あとで智史に嫌味を言われんのは嫌だからな……」

 ほんのついさっきまで、その智史君に対してあんなに怒ってたくせに、もう笑いながら歩きだそうとする諒の腕を、私は思わず掴んでしまった。


「なんだ? ……どうした?」

 言えるわけない。

 できるならこのまま二人でいたいなんて。


 新しい一日の始まりを告げる光は、闇に馴染んでいた目にはまだ眩し過ぎて、諒のように目を細めていなければ涙だって浮かんできそうだ。

 だから今この瞬間、私の目から涙がこぼれた落ちたとしても、なんとでも言い訳は立つ。


 本当は、なんだか苦しくて。

 いったいいつの間にこんなに好きになっちゃったんだろうと思うくらい、諒と一緒にいたくて。

 涙がこぼれるのを止められない。


「お前なぁ! いくら俺だって、こんなところにまで上着なんて持って来てないぞ……?」

 ポロポロと泣きだした私に、いつものように何かを頭から被せなければと焦りだした諒に、私はそっと首を振った。

「いいよ、別に……」


 そう諒にならいい。

 情けないところも、みっともないところも、散々見せてきたんだから。

 私が隠れて泣くのにも、いつもつきあってくれてたんだから。


「……んなわけにはいかないだろ!」

 それでも自分のジャージの袖で、ゴシゴシと私の頬をこすってくれる不器用な優しさが嬉しい。


「どうする? もうちょっとここにいてから……帰るか?」

 顔を覗きこむようにして尋ねられて、また胸が高鳴った。


 変なの。

 こんなふうに、諒とまるで恋人同士のような会話をしてるなんて。

 憎まれ口も叩かずに、素直にうんと頷いてしまうなんて。


 いつもと勝手が違うからか、照れたようにすぐに目を逸らしてしまう諒から、私のほうは目を離せない。

 このままどこかに諒が居なくなってしまわないように、ギュッと諒のジャージの袖口を握り締めた。


「ありがと……諒」

「おお」

 素っ気ないけどとまどったような声を隣に聞きながら、私はもう一度朝日に目を向けた。


 正視するのさえ辛いような眩しい輝き。

 この光景は、きっともう一生忘れないと思う。

 


 

 すっかり私の涙も乾いた頃になってから、私たちは展望所へ戻り、みんなとも一緒に朝日を眺めた。

 繭香とうららと手を繋いで、眺めたこの光景だって私は絶対に忘れない。


(夜間遠行ってただ辛いだけの行事だと思ってたけど……なんだ……こんな感動の場面も用意されてたんじゃない……!)

 ちょっと感動を覚えながら、残りの行程もがんばろうと心に誓った。

 なのに――。


「じゃあ私はこれで」

「私も……」

「僕もゴールで待ってるよ」

 先生の車で展望所へやって来た三人は、日の出の観察が終わったら、また当然のように車に乗りこんで帰っていった。


「繭香とうららはともかく! お前はおかしいだろ、智史!」

 叫ぶ諒に向かって、優雅に手を振りながら去っていく智史君の姿を見ながら、私は何気なく思ってしまった。


(ひょっとして先生たちも、智史君に弱みでも握られてんのかしら……?)

 全然冗談にならない。

 文化祭での賭けの元締めが智史君だったことに思い当って、青くなる私を見て貴人が笑う。


「なに考えてんの琴美? すごい顔だよ?」

「なんでも! なんでもないわ!」

 これから先も決して『白姫』の不興だけは買うまいと、私は心に誓って歩き始めた。

 

 


 諒が言っていた『夜間遠行』の最後の課題は、学校がもう道の先に遠く見え始めた頃になって実施された。


「はーい。この中から一枚引いてくださいねぇ」

 ニコニコと笑いながら、なぜか美千瑠ちゃんが持っている四角い箱の中から、グループの代表者が一枚ずつ小さな紙を引いていく。


「うおっ、やった!」

「ぎゃああ、嘘だろ!?」

 その紙を見た反応が、グループごとに様々な理由はすぐにわかった。

 そこには、この場所からゴール地点までをどのようにして歩いていくかの指示が書かれているのだ。


 うしろ向きで歩き始める人たち。

 ムカデ競争のようにグループ全員の足と足をロープで繋ぎ始める人たち。


「ち、ちょっと待ってよ!?」

 みんなから、グループの代表としてその紙を引くことを命じられた私は、思わず後退った。


「これって、すごく責任重大じゃないの?」

 焦る私に向かって、貴人はにこやかに笑いかける。


「大丈夫だよ。何が出たって、やればいいだけだから……」

「そうそう。誰が引いても同じだしね」

「気にしなくていいよ。琴美ちゃん」

 渉と佳世ちゃんも私の気持ちを軽くするように声をかけてくれたが、ただ一人、諒だけは違った。


「一番最悪のを引いたとしても、まあなんとかなるだろ……絶対お前のくじ運は凶悪だと、俺は思うけどな……」

「なんですって!」

 こぶしをふり上げた勢いのままに、私は半ばやけくそで紙を引いた。

 そこに書かれていたのは――「二人一組になって、片方が片方をおんぶ」という指示。


「ぎゃあああ!」

「ほらな。やっぱり最悪の課題だ……」

 思わず叫んでしまった自分とは裏腹に、諒があまりに落ち着いていたので思わず問いかけてしまった。


「どうしてこれが最悪だってわかるのよっ! 他にもっと酷いのがあるかもしれないじゃないのよっ!」

 なのに諒は、顔色一つ変えずにサラッと言ってのけた。

「だって、その内容考えたの俺だから」

「は?」

 まるで智史君のような涼しい顔に、心底まぬけな声が出てしまった。


「数学の山ちゃんが、面倒臭いから勝手に考えてくれって俺にふったんだよ。ああ、なんかこれ、俺たちに当たりそうだな……なんて思いながら書いたのに、ほんとに引くんだもんな……お前ってほんとにバカ……?」

「バ……! な……!」

 もうどこから怒っていいのかわからない。

 パクパクと口を動かすばかりの私に、諒は背中を向けた。


「いいから早く乗れよ、ほら……」

「は……?」

 何を言ってるんだろう。

 まさか諒が私をおんぶするって言うんだろうか。


(そ、そりゃ貴人は腕に怪我してるから無理だし……渉はもうさっさと佳世ちゃんおぶっちゃってるし……必然的にそうなるだろうけど……!)

 焦る私は、思わず貴人をふり返った。


「た、貴人を諒が背負うってのはどう? 余り者は私ってことで……」

 途端、貴人はおなかを抱えて大笑いし始め、諒は怒って私を睨んだ。


「バカかお前は! 俺を殺す気か!」

「だって……!」

 肩を揺すりながら笑う貴人が、困りきる私に向かって片目を瞑る。


「大丈夫だよ。諒は絶対に、琴美だけは落とさないそうだから……」

 崖から落ちた時のやり取りをひっぱり出して、そんなふうに太鼓判を押されても困る。


(そうじゃなくて……!)

 背中に乗るのが恥ずかしいからとか。

 諒に悪いからとか。

 女の子らしい躊躇の余地は、私には与えられないのだろうか。


「早くしろって! 後から来た奴らにどんどん抜かれてくだろ!『お姫様だっこ』じゃなかっただけ、マシだと思え!」

「なに? そんなことまで書いたの諒!?」

 呆れる私の耳に、ようやく笑いがおさまったらしい貴人の声が聞こえてきた。


「どうやらその『お姫様だっこ』のチームが来たよ。ラグビー部同士か……ハハッ……なかなか酷いことを考えついたね、諒……」

「ブッ! ……だろ?」

 私たちの横を駆け抜けていく、自分と同じぐらい体の大きなチームメイトを本当に『お姫様だっこ』している剛毅の姿には、貴人ばかりではなく諒も私も笑わずにはいられなかった。


「俺たちも行くぞ、ほら」

 再び向けられた背中に、もうああだこうだ言う時間はなかった。

 私は仕方なく――そのくせどうしようもなくドキドキしながら、諒の背中につかまった。


 身長だったら私よりちょっと高いぐらいで、運動なんて全然してない帰宅部のくせに、諒が軽々と私を背中に担いでしまうからビックリする。

「お、重くない……?」

 申し訳ない気持ちで問いかけたら、ニッと笑ってふり返られた。

「重いに決まってるだろ!」


 間近で見る不意打ちの笑顔に、ドドドッと心拍数が上がる。

 そんな自分を諒には気づかれたくないから、目の前にある黒い頭を軽くペシッと叩いた。


「失礼ね! もう!」

「痛てっ! 落とすぞ、こら!」

「きゃあ!! なにすんのよ!」

 最後のほうはもうお互いに笑いながら、諒は夜間遠行の最後の行程に一歩を踏みだした。


 十時間を歩きとおしたあとの、最後の最後の直線。

 体はくたくたに疲れているし、眠さだってピークだ。

 諒の背中の上にいる私には、何もすることがないけれど、そのぶん、諒には二人分以上の負担が圧し掛かる。


「がんばれ……がんばれ、諒!」

 応援することしかできなくて、そう言い続ける私に向かって、諒は律儀に返事をする。


「おう。当たり前だ!」

 その背中が頼もしかった。

 思わずギュッと抱きついてしまいそうになる自分を必死に自制しなければならないくらい、もう、大好きだと思った。


 ――そんな自分に気がついた、夜間遠行だった。

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