第26話 山小屋にいくよ〜蜚蠊の母

 暗い山道を進む鎮太郎くんの視線が背後をちらりと見遣ります。

「シ、シンタロウ、ドコ、ドコニイルノ」

「・・・」

 鎮太郎くんと伸宏くんの後ろを苑子さんがずっとつけて来ます。

「鎮太郎くん、こいつは何なのですか。口寄せの類いですか」

「皆目見当もつきません。一先ず放っておきましょうよ」

「シンタロウ、イエニ、イナイ、ガッコウ・・、ガッコウニイコウ」

「・・ごくり」


 あの後、焼却炉の深い闇から産まれ出た苑子さんを二人は何とか炉の中に押し戻そうとしましたが、無言のまま全くビクともしませんでした。

 暫くあの手この手を尽くしたのですが、結局諦め、そして二人がゴミを掻き分けながらその場を去ろうとした時のことです。

「あひぃっ、鎮太郎氏。背後、背後に・・」

 慌てふためく伸宏くんの視線の先を辿り振り向くと、鎮太郎くんの眼前に白眼を剥いた苑子さんの顔がありました。

「うひぃ」

 鎮太郎くんは思わず尻餅をつきました。

「こ、こいつ」


 その後、日没を報せるイナゴの大群が校庭にごうごうと吹き荒れるなか、二人は何とか元居た場所に苑子さんを押し戻そうとしました。中庭の卒都婆を一本引っこ抜いて思いっきり殴ってもみたりしましたが、少し血が額から垂れる位で、全く思った通りに動いてくれません。

「何か、鉄の意志のようなものをこの女から感じますよ。やはり、これは柳の祟りでは・・」

「なな何を非科学的な」

 鎮太郎くんは膝をガクガクと痙攣させながら言いました。

「この調子では家までつけて来てしまいそうだよ」

「なな、何をぅ!」

「だってほら、その女の顔を見てご覧」

 鎮太郎くんは改めて苑子さんの白眼を剥いた顔をまじまじと眺めました。

 呼吸すらしている気配もありません。

「・・・」

 鎮太郎くんは目の前でズボンを下ろし、再び苑子さんを見ました。やはり全く動揺の色はありません。

「確かに、この調子では家まで尾けて来かねないですね。やれやれ。家に帰らずに山小屋に逢いにこいという意味の脅しなのかも知れないですね、仕方あるまい」

 そう言いながら鎮太郎くんは黒杉山を睨みながらズボンを履き直しました。


 こうして三人はその日の内に学校正面の黒杉山に来ることになったのです。

 分厚い雲の向こうの太陽が完全に沈み、暗い周囲が一層真っ暗になってきました。

 袈裟を着た坊さんがお経を唱えながら山道沿いに等間隔に置かれた灯篭に明かりを灯していきます。

 一つ、また一つ。

「しかし本当に小屋などがあるのでしょうか。校門の方からは全くそうした物が見つからなかったじゃない、ええ?ワトスンさんよ」

 しばらく坂道を登り、鎮太郎くんは少し投げやり気味になってきました。

「何だよその態度は。僕は付き合ってあげているんですよ。もう少し感謝して貰いたい」

「何だと? 君、他人事のように言っているが君も柳を殺した共犯者であることを忘れてはいけないよ」

「な、人聞きの悪い!」

 伸宏くんはちらりと苑子さんの方を眺めました。心なしか苑子さんの顔の皮膚が硬く分厚くなり、ひび割れてきているようにも思えました。

「僕らは海老になりたいという彼女の願いを叶えてあげただけだろう」

「ギヒヒ、動揺していやがるわ。・・おや」


 ふと山の奥の方から灯篭のオレンジ色の灯りに照らされながら乳母車を押す女の人が下ってきます。

「あ、鎮太郎氏。あの方に山小屋のことを聞いてみては?」

「ホームズだと言っとるだろ。このクズ野郎」

 伸宏くんの握りこぶしに血が滲みました。

「やあやあ、お姉さん、お散歩ですか」

「まあ、お姉さんだなんて。見ての通り私はもう子持ちのおばさんですよ。今日は天気も良いからこの子も喜ぶと思って」

「ばぶ、ばぶばぶ」

 見ると乳母車には人間のおじさんの顔をした小さな蜚蠊ごきぶりが一匹乗っています。

 灯篭の灯に長い触覚がゆらゆらと揺らめいています。

「・・・」

「上の子は離れて暮らしているんだけど、今大学に通っててね。元気でやってると良いんだけど」

「ふ、ふーん。そうなのですね。わあ、可愛い蜚蠊ですね。その、旦那様の方がその、蜚蠊ですか?」

「え?はぁ・・?」

 女の人は不快そうに顔を歪めました。

「はは、いえいえ。こちらのことですよ。ところで一つお聞きしたいのですがね。この辺りに山小屋があるのをご存知無いですか」

「山小屋。ああ、小山田さんの家のことかしら。あのお婆さん最近見ないけど、家なら丁度ほら、そのガードレールを乗り越えて斜面を下っていった先ですよ」

 鎮太郎くんはガードレールの方に近付いて斜面を見下ろしました。黒い木々のずっと奥まで闇が続いており、先は見えません。

「ドコ、シンタロウ、ココニモイナイ、イナイヨ」

「ん?あぎゃ!」

 突然鎮太郎くんは背後に立っていた苑子さんに押されて体勢を崩すと、そのまま斜面側に身体を落とし、ゴロゴロと転がっていきました。

「し、鎮太郎くん!!」

「ぎゃああああ!!」

 鎮太郎くんの視界はぐるぐると回り、枯葉の積もる坂を何処までも何処までも転げ回っていきます。そして、ドン!と何かにぶつかり、その衝撃に意識が薄れていきました。薄れ行く意識の中、鎮太郎くんは自分がぶつかったのは、斜面の上に居るはずの苑子さんであるのを見ました。


 どれ程時間が経ったでしょうか、何かをブツブツと呟く声を周囲に感じ、鎮太郎くんは目を醒ましました。

 上半身を起こした鎮太郎くんが声のした方を見上げるとすぐ側に苑子さんが立っていました。

「シンタロウクン、ドコ。シンタロウクン、ドコ。シンタロウクン、ドコ・・」

 相変わら目は白目のままでしたが、皮膚は全体的に赤茶に染まり、細かなひび割れが全身を覆ってギシギシと鳴っています。

「ヒィイ!」

 その異容に鎮太郎くんは慌ててカサカサとそのまま背後へ後退り、背中を何かの障害物にぶつけました。

「んむ?」

 それは真っ黒な木で出来た外壁、そう、黒杉山の山小屋でした。

 鎮太郎くんのいる側の壁には一面に何か赤い塗料で殴り書きにされた言葉が書いてあります。

「“もっとくるしめ”・・?何ですかこの落書きは。と、とにかく見つけましたよ。これが山小屋ですね。ところで、ワトスンはどこですか。あの、知りませんかね。一緒に山に登ってきた男は何処にいますか」

「シンタロウクン。クンクン、ニオウゾ。チカイ、チカクニイルゾ」

「・・ダメだ、この方。仕方あるまい。一人で探索しましょう」

 シンタロウくんは小屋の周囲を調べてみることにしました。


 そこは斜面の中で一部分だけ突き出るようにして平らになっている場所で、小屋の隣には小さな畑が一つある位、あとは腐った枯葉と真っ黒な木々が埋め尽くしていました。

「モウスグ、シンタロウクン、モウスグ」

 みしみしと葉を踏みしめながら苑子さんは背後に取り憑いた霊のようにゆっくりと付いてきます。

 小屋の窓がある方、即ち、学校が見える方の側へ鎮太郎くんは来ました。窓の正面には黒い木々に隙間があり、その向こうに割と近い場所に学校が見えます。

「妙ですね、こんなに近ければ幾ら黒い山とは言え、僕の教室からも直ぐにここを見つけられる筈なのですが。・・む」

 ふと、鎮太郎くんは何かに見られているような気持ちになって振り返りました。

 そこにあるのは小屋の窓でした。

 窓の中は真っ暗で何も見えません。


「な、何か居る?・・・柳?」


 鎮太郎くんはごくりと唾を飲みました。

 その背後で両腕を鎮太郎くんの方へ伸ばしながら、一歩近付く苑子さんがありました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る