第11話 海老修行〜友達を殺そう
三人は樹海の中へとどんどん分け入って行きます。
「ぜ、全部寝てるね」
石の上、腐って土のようになっている葉っぱ、倒れた木、倒れていない木、倒れて死んでいる人、ぶら下がって死んでいる人、そのすべてに分け隔てなく苔が
ここでは死より苔や
「何を言っているんだい、死体のことかい?」
鎮太郎くんは遠くの方で木にぶら下がっている満足そうな微笑みを湛えた首吊りの死体を見て言いました。
「ううん、そ、それもそうだけど」
途中で「マッチ、マッチ」と言いながら後ろから三人を追い越して闇の中へと消えていく男が一人ありましたが、それ以外のすべては基本みんな深く眠りにおちていて、三人とは全く違う世界を夢見ていました。
「木も、土も、空気も、寝てる。ここは本当に海の底なんだね」
樹海の中で出会う人はみんな黒っぽく萎びて、悲しそうです。顔の肉は溶けていて、目玉も無く、穴のようになっているので表情なんてありません、でもその穴の奥から悲しい感じが出ているので、柳は不思議だなあと思いました。
「ふう、ふう、疲れた」
鎮太郎くんと柳の後方で荷造り用の紐を垂らしながら歩く伸宏くんが言いました。
「ワトスンは体力が無いなあ」
伸宏くんは立ち止まって両膝に手を付いています。
「ふう、待ってくれよ。まさかもやしの鎮太郎くんにそんなことを言われる日が来るとは思わなかったよ」
「もやしだって? 君、置き去りにしていってしまうよ」
そんなことを言った後、鎮太郎くんは「おや」と腕組みしました。
本当に置き去りにしていっても、問題は無いのかもしれない、そんなことを思ったのです。
「自殺の郷なので死体なんて山ほどあります、故に死体が一つくらい増えたってどうということは無いような気がしてきました。ワトスン、君を殺すという選択肢が浮かび上がりました。どう思います?」
伸宏くんはわざと鎮太郎くんの言ったことを無視して、あっはっはと笑いました。
「鎮太郎くん、本当に、やけに今日は元気だな、君」
「当然だろう、柳の願いを叶えてあげられるのですから。そんなことよりも、おい柳」
鎮太郎くんは人魚の腕を抱える柳を見てニヤリと笑いました。
「う?」
「僕が伸宏くんを殺せと言ったら、君は殺してくれるかい?」
樹海の独特の木々の深い眠りの音が周囲に響きました。
「そ、それは」
伸宏くんは慌てました。
「おいおい、何で僕を殺すことを人に頼むんだい。じ、自分でやれば良いじゃない」
鎮太郎くんは伸宏くんの言葉を頭で反芻しました。確かにそうです、自分でやった方が楽しい筈です。
「し、鎮太郎くん」
「うん?」
「今少し考え、考えたんだけど、の、伸宏くんを殺すの少し嫌だなぁ、って思った」
伸宏くんは柳を睨みつけました。
「柳! 柳のくせにお前まで何を言っているんだい、僕を殺すことを一瞬でも考えたのかいッ?」
闇の中で柳の海藻のような黒髪が垂れ、その真っ黒な表情は返事をすることなく伸宏くんを見つめています。
「何とか言えよ、どうなんだい。ぐ、具体的にどうやって殺すことを考えたんだい」
「ほら鎮太郎くん、伸宏くんも死ぬのを嫌がっているよ」
「いやいやいや、ちょっと待ちなさいよ。本当に殺そうとする可能性があるんですか?」
柳には伸宏くんの声は届いていません、ただ鎮太郎くんの反応を伺っています。
「人の命を何だと思っているんですか! 僕は生きてるんですよ、殺して、あなたは元へ戻せるんですか! ああ、腹がたつ」
鎮太郎くんも何処か平静さを失っているようになった伸宏くんをジッと見ました。
「………」
人は誰でも1日に何度か人を殺したいという衝動に襲われます。
朝寝ているのを起こされて親を殺したくなります。
朝の天気予報のお姉さんを殺したくなります。
登校している時に歩いている稚児を見て殺したくなります。
クラスメイトの顔を見て殺したくなります。
出席で自分の名前を呼ぶ先生を殺したくなります。
そして鎮太郎くんは自分のことをホウムズと呼ばない馬鹿者に関しては何度頭の中でメッタ刺しにしたか分かりません。
しかしそんなことをすれば牢屋に打ち込まれてしまうので、もしどうしても人を殺したくなったら、死体が出ないようにしっかり計画しななければなりません。しかし鎮太郎くんは今回に関してはその必要が無い絶好のチャンスだということに気がつきました。
ここは樹海の奥なのです。
「いい、やっぱり自分で挑戦してみたいから」
「うん、が、頑張って」
鎮太郎くんはしゃがみ込んで足元の木の棒を掴みました。しかし木は腐っていてこれで殴っても木の方が砕けてしまうということが分かります。
(これでは殺せないなあ)
「おい、鎮太郎くん、その棒をどうするんだい。君がその気なら良いですよ。しかし貴様、その選択を後悔しないことだな」
伸宏くんの声には鎮太郎くんがそれまで聞いたことがないような冷たい響きがありました。
殺されると分かったネズミは猫に必死に齧り付く、と言います。人を殺す前の人間からはこんな声が出るのだろうと鎮太郎くんは思いました。
「ワトスン、君、仮にだけど、僕が君を殺そうとしたら、まさか僕を殺そうと考えているのではあるまいな」
「ああ」
鎮太郎くんはビクッとして驚いた様子でした。
「笑止! ワトスン、そんな、そんなことが許されるとでも思っているのですか? 僕は世界で一つしかない尊い命なのです! 君なんぞと比べ物にはならないのですが!」
「何を言っている! 僕は僕だ! お前は僕じゃない! 世界でたった一つの僕はこの僕だ! おかしなことをしたら目にもの見せてやるからな!」
「ふ、ふん!」
鎮太郎くんは闇の中の真っ黒な伸宏くんの顔を見てニコッと笑顔を作りました。
「あはは、芝居がかっているなワトスン、冗談だよ。君が死んだら誰がその紐を垂らすのかね、それが無くては僕は迷って帰れないじゃない」
鎮太郎くんはガタガタ震えながらそう言うと木の棒を捨てました。
伸宏くんは心の中で、僕が居なくても自分で紐くらい垂らせるだろう、と思いましたが、口には出しませんでした。
それもそうだ、となっても困るからです。
しかし何とも言い表しがたい怒りのような悲しみのような感情が収まりません。
「ちくしょう、やい! 柳! お前はいつまでそんな腕を持って歩いているんだ!」
「……へへ、お母さんの腕」
柳はヘラヘラと笑って言いました。
「馬鹿野郎、どこの世界に自分の母親の切断された腕を持って海老になる為に樹海を歩く奴がいるというんだい。気が違っているのかい」
間違ってはいませんがもう滅茶苦茶でした。
「ふひ」
柳はヘラヘラと笑っています。
「それを捨てろ! 捨てちまえ」
「あの、いやだ」
伸宏くんの顔は一気に真っ赤になりました。
「な、生意気な! 言うことを聞かないと殴るぞ、捨てろ! 馬鹿!」
「へへ」
「ああああッ!!」
伸宏くんは両手をわきわきと動かしながら地団駄を踏みました。
その様子を見ていた鎮太郎くんは鼻息をふんと出すと、テレビか何かで見た余裕のある大人の雰囲気を真似ながら柳に言いました。
「一理ある、柳、荷物だからそんなものは捨ててしまい給えよ」
「え」
驚いたようになった柳の表情に鎮太郎くんは思わず目を逸らし、再びきっと睨むように柳の目を見ました。
「そんな腕と僕の命令、どっちが大切なの」
「………」
柳の反応がありません。
鎮太郎くんは自分の胸が少し緊張の鼓動を打っていることに気が付きました。
「ど、どっちだ。聞いているんだ、僕は」
「あの、お母さん、ですので」
「捨てろ! やい、捨てるんだーっ!」
「……はい」
柳の返事に両腕の中でお母さんの手の指がわらわらと動き、柳のワンピースを掴みました。
「ごめんなさい、お母さん。私、やりきることにしたの」
柳はお母さんの指を一本ずつ服から剥がすと腕を持つ手を後ろに振りかぶり、森の奥へとポーンと投げました。
腕は山なりの軌道を描いて遠くの木に“べしゃ”っとあたって地面に落ちました。
さようなら、お母さん。
「なんだ、それは! 鎮太郎の言うことは聞くのか!」
伸宏くんは全身に力が入ってガクガクと震えています。
鎮太郎くんは満足そうな顔になって柳の腕を掴むと引っ張るようにして再び歩き出し、伸宏くんは背後から二人へ殺意の視線を投げかけながら後を追いました。
森はどんどん深くなります。
三人は会話も無く暫く歩いていましたが、ふと伸宏くんは違和感を感じました。
「なんだ?」
周囲を見回すと、やけに死体の表情の一つ一つがよく見えることに気が付きました。空から注ぐ黒い光がうっすら青白くなっていたのです。
「まずい、雲が、空が晴れそうだ。おい、鎮太郎くん」
「何」
「周りが明るく……、おや、何だいそれは」
鎮太郎くんは暫く柳の腕を掴んで引っ張るように歩いていましたが、いつの間にか柳の手を掴むようになっていました。
「おい、君、手」
「おや、いつの間に」
「君その女と手を繋いでいるのかい? ひゃひゃひゃ」
柳はうつむいていて表情が見えません。
「君、あれ程気持ち悪がっていたじゃない、汚いよ、えんがちょ」
鎮太郎くんは楽しそうに笑う伸宏くんを暫く眺めました。
「汚れているのは、まあ、今日は色々あったから仕方ないんじゃないか」
鎮太郎くんの意外な反応に伸宏くんは首をひねりました。
「君が今触れているのはあの柳なんだよ? よく見てごらん。女のくせに柔らかそうな部分なんて殆ど無くてガリガリ、 髪の毛は真っ黒で長いし、肌の色は真っ白、お化けみたいじゃないか」
伸宏くんは周囲が明るくなっていく感覚に何処か少し怯えているような様子でそわそわしているように見えます。
鎮太郎くんは柳を改めて見ました。柳は表情を見られないように顔を逸らします。
「この女、何か良く分からないけどあれだけ大事そうにしていたものをあっさりと捨てたんだ。僕が言ったからですよ」
「それがなんだってんだっ、全く調子に乗って。おい柳、柳!」
柳はうつむいたまま伸宏くんの声には全く反応しません。
「ふざけやがって! 柳、急に大人しくなって! 君こんなクズ野郎の何処が良いんだい」
やはり柳は伸宏くんの声に反応しません。
「卑怯だし、自分のことしか考えない、喋り方も気持ち悪いし、おまけに人が苦しむのが楽しくて仕方ないって手合いだ」
「……か、か関係ない、よ」
「ん?」
その時分厚い雲の隙間から光が周囲を照らしました。
「私が選んだの。理由はそれで、じゅ、充分」
「なんだって?」
空から注いだ光に照らされて鎮太郎くんはぼんやりと我を失ったようになり、伸宏くんの背中にうっすらと大きなぐにゃぐにゃとした枝の様な翅が浮かび上がりました。
「まずい、柳、君、自分の名前を言え!」
「え」
突如周囲に差していた光がふっと消えました。
「な、なまえ」
再び真っ黒な気配が辺りを覆い、伸宏くんの背中の翅はその黒い光に照らされると、消えていきました。
足元の草がずるずると伸び、薄気味悪いめちゃくちゃな奇形の華がそこら中で汚く咲き始めます。
「……
「そうだ」
「柳、
グロテスクなバラバラのつくりをした花々から肉の腐ったような悪臭が一気に周囲に漂い、首を吊っている人々が周囲の木々の枝にびっしりと浮かび上がります。
「う、うわ!」
突如鎮太郎くんが絶叫しました。
「おい、貴様、いつまで僕に触れているんだ!
「ぎゃん!!」
柳は鎮太郎くんに蹴っ飛ばされ転びました。
ほんの数秒前までの透き通った明晰が完全な幻であったかのように消え、鼻水を垂らして間抜けな笑みを浮かべる柳の顔が鎮太郎くんの脚にしがみついて頬ずりしています。
「ぎゃへへ! ご、ごめ、ごめんなさあい、ぶ、ぶすなのに生きてて! あひゃひゃひゃ!!」
「触るな! 離せ!」
ヘラヘラ笑う柳と、周囲の滅茶苦茶に戻った樹海の様子に伸宏くんはほっと胸を撫で下ろしました。
「おい、鎮太郎」
「何だ、ワトスン」
「もう帰りの目印になる紐が無くなりそうだ、この辺りにしようじゃないか、さっさと終わらせて帰ろう」
「ちょっと待て、君、やはり聞き捨てならないぞ。ホウムズと呼ぶこともせず、遂に“くん”すら廃止ですか? ずいぶん偉くなったものだね」
「ふふ、そんなことより、紐がない。これ以上行くと帰れなくなるぞ」
「訂正しろ、殺すぞ」
「ホウムズくん」
「ホウムズの時は“くん”は要らねえんだよ、くず」
そう言うと鎮太郎くんはその場に座り込み、リュックの中から猥褻なSMの本を取り出し、ページを開きました。
気持ち悪い草花を掻き分けながら柳が“ずるずる”と這ってきました。
「へ、へへ、鎮太郎くん、何を読んでいるのぉ? 見ちゃう、覗き見、へひゃひゃひゃ!」
柳が本を覗き込むと逆海老に沿って吊るされた裸の女の人の写真がありました。
「お前を海老にする為の本さ」
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