第02話 死にたがりさん
校内の飼育小屋の隣にある小さな墓地の
「いざさらば、いざさらば!」
何やら絶叫している女生徒があります。
腕に“生徒指導部”の腕章を付けた苑子さんは、びっちり真ん中から分けた髪を左右で三つ編みにし、廊下を歩いていました。
「いざさらば、いざさらば!」
丁度苑子さんの歩みが食堂の前に差し掛かった時のことです。食堂から黒いゴミ袋を廊下へ引っ張って出てきた人がありました。教頭先生です。
「いざさらば、いざさらば!」
教頭先生は焦点の定まらない目をした苑子さんの声に気がつくと、半笑いしながら震える肩を竦めました。
「下校時刻に廊下でたまたま見かけたこの私、教頭先生に挨拶をするとはこの学校の生徒にしては良い心がけです。だがしかし、教頭は現在それに応える余裕が無いの、それを予めご了承下さい。生徒達のゴミ、或いはゴミのような生徒の片付けをするのも教頭先生の大事な務めなのですからね」
教頭先生はそう呟きながらゴミ袋の中を覗き込みました。
中には黄色い反吐の泡の底に沈んでいる佐倉ちゃんの白目を剥いた顔があります。
教頭先生は思わず「ひぃ」と噴き出しました。細かく白い目を痙攣させている佐倉ちゃんの桜色の頬っぺたに、潰れた海老の脚がわらわらと運動しています。
失神した佐倉ちゃんはその後食堂に放置されたままにされ、こうして放課後となった今、噂を嗅ぎつけた教頭先生が掃除に来たという訳です。
教頭先生は思わず大きな溜息を一つしました。
(何故なの、何故に葵ちゃんは教頭先生に優しくできないの)
そんなことを思いながらゴミ袋の口を閉じ、教頭先生はゴミ袋を引きずって廊下を歩き始めました。葵ちゃんとは、教頭の安月給にて通うキャバレーで働いている
——まあ、それがどうということもないのだけれど。
「いざさらば、いざさらば!」
「んもぅ、
教頭先生は佐倉ちゃんの入ったゴミ袋を引きずって廊下の奥の階段を下り、校舎の地下の階の方へ行ってしまいました。しかしそのことが苑子さんの興味を引いたという様子はどうやら微塵もありません。
初めから教頭先生のことなど眼中に無いのです。
「いざさらば!いざさらば、いざさらば………」
家路に就く他の生徒達とは異なる方へ突き進んで往く苑子さんは、ただ校舎の裏へ引き寄せられていきます。何かに憑かれているかのように。
「………いざさらば、いざさらば!いざさらば!!」
“ざっざっざっ”
苑子さんが辿り着くべきして辿り着いた校舎の裏には焼却炉があり、そこにはいつも用務員の佐藤さんがいました。
ブルーカラーの
いざさらば、いざさらば!
「私はね、仕事をサボって猥褻な本を読んでなどはいないのだよ。畜生、あの非国民の
いざさらば、いざさらば!
「決めたのです、私は。聖職者のことを“焼却炉の木偶の坊”等と呼ぶガキ共を許さない、とね」
佐藤さんはしょっちゅう仕事をサボっていやらしい本を読んでいるので、生徒には“焼却炉の木偶の棒”と呼ばれています。そして、まさにこの日も仕事中にいやらしい本を読んでいたことを他の教師に密告され、「減給です。お気に召さなければ明日から来なくても良いですよ」と言われた直後で、輪をかけて頭が少しおかしくなっていました。
「いざさらば、いざさらば!」
しかし、苑子さんは全く人の話を聞いている様子はありません。佐藤さんは再び溜まっていた涙を拭き、苑子さんの足下に痰を吐きました。
「カーッ、コァッ!ペッ。」
いざさらば、いざさらば!
「………」
嫌がらせの積りで痰を吐いたのに、その表情には動揺の色が微塵も感じられません。
佐藤さんは絶叫を続ける苑子さんの目の奥を暫く見つめた後、優しく微笑み「少し待っていなさい」と手に持っている白く色褪せたポルノ雑誌を丸め、ズボンに挟み込みました。
そして後ろへ向き、焼却炉の両開きの門の取っ手を握りしめました。
「さあ、乙女よ。青春の日々への別れを!今まさに君はこの炉で燃え溶け、空へ還るのだ!」
そう言い放つと佐藤さんは、焼却炉の扉を力一杯開け放ちました。
がらぁーんごろおぉん!!
焼却炉の中には、過去にここで燃やされた生徒たちや先生たちが真っ黒く溶けて渦を巻いていました。
“ほら、中にいらっしゃいな”
そんな焼却炉の声が苑子さんには聞こえました。
「いざさらば、いざさらば、いざさらば!」
苑子さんは漆黒の空を仰ぐように両手を広げる佐藤さんの隣で口を開けた地獄の門へ“ざっざっざっ”と行進して行きました。そして、そのまま焼却炉の中に頭から飛び込みました。
“がごん”
佐藤さんは苑子さんの丸出しのお尻に“じとっ”と視線を張り付かせて腹を抱えて笑いました。
「だはっは!!君ぃっ、これは正に頭隠して尻隠さず。君ぃっ、頭隠して尻隠さずだよ、正にこれは、だはっは!!」
焼却炉から突き出た苑子さんの下半身がじたばたと暴れています。
ゲバゲバと笑っていた佐藤さんは、やれやれ、と溜息をつくと、ポッケから皺だらけの黄色いハンカチを取り出しました。そして丁寧にアスファルトに敷き、そこへ片膝を付くと、両手でワシっと苑子さんの両尻たぶを鷲掴みにしました。
佐藤さんは「準備は良いかね!」と叫ぶと、苑子さんの返事を待たず焼却炉の中に「えい」と力一杯押し込みました。
だって、どうせ返事はしてもらえないだろうと思ったからです。
ふと、佐藤さんは子供の時に両親に見させられた京劇で聞いた
そして気が付いた時には苑子さんはローファーの先まで綺麗に焼却炉に飲み込まれていました。
「……よし、やった。上手くいったぞ」
佐藤さんはハンカチをパンと叩いて砂を払いました。その目にはまた涙が溜まっています。
「しかし、同じ涙でも、その温度は此れ迄彼が流したどの涙よりも熱かったのである」と佐藤さんは呟きました。その泣きっ面は晴れやかですらあり、気付けば佐藤さんは天を仰いでいたそうです。
泥沼を掻き回したような空が熱い涙で一層歪みました。彼は人生において初めて何かを成し遂げることが出来そうだという予感を感じることができたのです。
焼却炉の口からこの世の何にも焦点の合っていない目をした苑子さんの煤けた顔がこちらを覗いています。
「ああ、すまない。遠足は家に還る迄が何とやら、だったね」
そう言って佐藤さんは苑子さんを燃やす為に作務衣にたくさん付いているポッケの一つ一つに指を突っ込みました。
「おや………」
胸ポッケにも内ポッケにも、肘ポケットにも脇ポッケにも探し物は見当たりません。
「こんな、まさか」
苑子さんの目は宇宙の全てを見ている。
「マッチ、マ、マッチーッ!?」
苑子さんに見送られながら、佐藤さんは慟哭と共に小走りで焼却炉の前から走り去りました。
その日も、日暮れを報せるイナゴの大群が校庭に吹きすさびました。
ごうごうごう、ごうごうごう。
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