第10話「恋の駆け引き 身から出た錆」
「それでは調査の結果を報告いたします」
バーデン・ガーデン王国首都、トルコン城の奥深い一室で、メイドのエマは王女であるフライヤを前に手にしたスクロールをくるくると広げて厳かにいった。
「どきどき」
「勇者さまは、現在複数人の女性と深い仲であるとが潜ませていた間諜によって確認されました」
エマの淡々とした報告に、フライヤはさっと顔色を青ざめさせると、パッとベッドに飛び込みばふっと枕に顔を埋めて両脚をバタバタ激しく動かし出した。
「ふにゃあああっ。そんなのいやですううっ」
――だったら最初から城から追い出さなきゃいいのに。
フライヤの金色の髪がばっさばっさと揺れまくって背中の上で波打っている。
「姫さまはいったいどうなされたいのですか」
「ひたすら悔しいです。ショーマさまに、私と同じ気持ちを味わわせて魂が焼けついて身悶えするような嫉妬に駆られて欲しいのです」
「ならば、もうこんなことはおやめになって勇者さまへお戻りいただくようお願いすればいい話ではないでしょうか」
「いえ、それはなりません。私からショーマさまに頭を下げればただでさえ意志薄弱で愛情の強すぎる私……今後はショーマさまの一存で国策を誤りかねません。ここは、きゅきゅっと強めのお灸を据えて是非とも今後のために主導権を握りたいのです」
――わかってるじゃん。
「今、なにか思いましたか?」
「いえ、別に」
エマはもう正直このお姫さまのワガママにつき合うのはめんどくさかったのだが、そこは宮仕えのつらい身の上である。心ならずも口を開き、とある献策を伝えた。
「ならば、今ひとつ私に策がございますれば、しばしお耳を拝借」
「なにか思いついたのですかっ」
「勇者さまをハメるようで気分はあまりよろしくないですが」
フライヤの小さめな耳に口元を近づけこしょこしょと耳打ちをする。
ハッと目を見開いたフライヤを見てエマは困ったようにため息を吐いた。
「どうしたショーマ。第二夫人と昼下がりの情事は充分堪能できたのか?」
将真が事務所の机で茶を啜っていると、大きな紙袋をかぶったプラウドが踊るように入室してさも楽しそうに頬の筋肉を引き攣らせた。
「だから違うっていってるのにっ。おまえって人の不幸を話すときだけは爛々と目が輝くよな。ほかに楽しみとかないの?」と将真。
「そんな……私、よくなかったのですか。ショーマさま」
ピピっと電子音を鳴らしてエマⅡが近寄って来た。なにやら若妻を装っているのか、胴体の部分に純白のエプロンを着けている。プラウドが顎に拳をつけて意味深に目を細めた。
「ダメじゃないかショーマ。性の不一致は離婚の大きな原因だぞ。赤ん坊が産まれたら私に名づけさせてくれ。お祝いはニッケル電池と充電用のホームベースでいいかな?」
「なんの話をしてるんだよっ。おまえらは!」
「ショーマさま。私、愛情を持っていい子を産み育てますね」
なぜかその気になったのかエマⅡは寸胴の腹と思しき部分をU字型の手でさすっている。
そもそも有機物は無機物に生命体を孕ませる力はないと思うのであるが――。
将真は自問自答しながら惑乱しかけている自分を元に戻そうと、頬を手のひらでぴしゃぴしゃと激しく叩いた。
「ショーマさん。これっていったいどういうことなんですか……? あたしと温泉いっしょに繁盛させてくれるっていってたじゃないですか。
それもよりによってエマⅡなんかと……許せませんよ、こんなの。ひどい。ひどい裏切りです。しかも、もう赤ちゃんがいるだなんて……! ここですか? あたしの大切な思いんでの詰まったゆるりでエマⅡとえっちな子作りしたんですかっ」
「しないっ。絶対しないって! そもそもぜんぶ誤解なんだからっ」
部屋に入って来たネネコが青ざめた顔で詰問してくる。
将真は首を左右に振って腰を浮かしかけたが、隣にいたエマⅡに再度無理やり着席させられた。
「おおっと、ここで正妻の登場かな? いやぁ、熱い熱い。君のように一夫多妻制を体現する男は苦労が絶えないな。もっともロリガキと茶筒のハーレムなど私は死んでも御免だ」
将真は耐えきれなくなったのでとりあえずその場を遁走した。
規格外の身体能力を持つ将真の動きには誰もついてこられない。
「しばらくブラブラしてから戻ろっかな」
そういえば、もうずいぶんと長い間、お日さまの光を浴びていない。
ジョギングがてら身体を動かしていると、間もなくカラカラ迷宮の入り口に着いた。
手ごろな石に腰かけてぼうっと青空を眺めていると、平原の彼方から急速に近づいてくるゴマ粒のようなものが見えた。
小さな影は砂塵を上げてグングン近づき、やがて馬車の形を露わにした。
馬車はカタカタと小砂利を弾き飛ばしながら、将真の前でゆっくりと停止した。
「探す手間が省けました。一別以来ですね、勇者さま」
「なんだ、オリジナルか……」
フライヤ付きのメイドであるエマだ。馬車の小窓からひょいと顔を出した彼女は、やたらに表情を強張らせて不安そうな目をしている。
「姫さまのピンチです。急いで城にお戻りくださいっ」
エマがいうには城にいるフライヤが正体不明の病で倒れたということだった。
「そんな、嘘だろ」
「私だって信じたくありません。つい、昨日まではあんなにお元気でいらっしゃったのに」
車内の隣に腰かけているエマがハンカチでそっと目元を拭った。
将真は記憶のなかにあったフライヤと、彼女が臥してやつれている想像を脳裏に浮かべ比べてみたがどうもピントが合わない。
「ああ、やっぱそんなの嘘だって……」
「だから嘘じゃないんですってば!」
エマが半ギレで歯を剥いて怒鳴った。
やたらに人前で容儀を気にする彼女がチンパンジーのようにピンクの歯茎を見せて唸るとは事態の深刻さを示している。将真はいつになく素直に謝った。
「ご、ごめん。でも、俺もフライヤのことが心配でさ……もう、長くないのか」
「え! あー、うん。そうですね。それほど命にかかわる病ではないのですが……」
「ん?」
「あ、違った! 姫さまは青斑点病という不治の病にかかってしまわれたのです。恐ろしや」
「なんか、さっきは正体不明とかいってなかったっけか?」
「うん。まあ、そのへんは気にしないでください。とにかく姫さまも勇者さまに会いたがっておられたので、私の独断でお知らせしたのです」
「そうか。ありがとな。俺は勇者といっても追放された身だし。こんなこと勝手にやったらおまえの立場だって悪くなんのによう」
「そんな。大げさですよ」
エマが驚いてしきりに否定している。彼女の性格だ。
平時であるならば嵩にかかって感謝を求めてくるはずなのに。
将真は日頃あまり気にならなかったこの時代の馬車の異様なほどのサスペンションの悪さが際立って、数度あげそうになった。
手筈を整えておいてくれたのか、城には簡単に入ることができた。
勝手知ったる他人の城。
将真は胸に手を当てながら、緊張した面持ちでフライヤの部屋を訪ねた。
背後では、よほどフライヤのことが思われるのかエマが小さく声を押し殺してうつむいている。
慰めの言葉も出ない。将真は胸に迫るものを感じながら、護衛の騎士に目配せをして、そっと扉を開いた。
――はじめに感じたのは小さな違和感だった。
ついで、どこかで聞いたことのある男の声がかすかに聞こえてくる。
フライヤが臥している天蓋付きのベッドには薄いベールが張り巡らされてあり、どう見てもなかには一組の男女がギシギシと音を軋ませお楽しみの真っ最中だった。
「ううっ、ああっ、すごいっ。すごいですわ、レポックさまっ」
「そ、そうかな。君のほうがよっぽどすごいと思うけど」
もう間違いない。
女の声はフライヤその人で、男の声は元婚約者でユーロティアの王子レポックのものだ。
透けて見える男の影にあろうことかフライヤは馬乗りになって前後運動を行っている。
「かたいですっ。こんなかたいの、私知らないっ」
「そうかな。ずいぶんと手慣れてるように見えるけど、ほっ、はっ」
「そんな……こんなのはじめてですっ。ああん。はずれちゃったわ」
「ほら、よそ見してるからだ。しっかりと握らなきゃ」
思わずギョッとした。横たわった影から長さ三〇センチはあろうかという棒の影が大写しになった。
――負けた。人間としても、男としても。
まさか自分がいない間にあのフニャチン王子があっという間にフライヤを落としてしまうとは思いもしなかった。
「帰る」
「あ、ちょっと待ってくださいっ。勇者さま?」
打ち合わせとまったく違うではないか。エマは激しく狼狽しながら、ベッドに映る一組の影を鬼気迫った表情で睨んだ。
エマが描いたストーリーはおおよそはこうだ。
急病に倒れたフライヤのことを聞き慌てて城に駆けつける将真。
そこにはかつての姫の婚約者であるレポックがいい感じで看病をしており、将真はやきもちを焼かざるを得ない。
あえてフライヤは将真を遠ざけるような態度に出る。
うちひしがれる将真に向かって自分が詫びるよう耳打ちし、イニシアチブはあくまでフライヤのもののまま両者は晴れて和解する。
そんなストーリーを描いていた。聞くところによると、今回レポックがバーデン・ガーデン王国を訪れたのは自身の婚姻がめでたく決まり、見捨てるように婚約破棄をしたフライヤに仁義を通すためだったのだ。
エマの策をレポックは快諾し、上手くフライヤと将真が元の鞘に納まるよう取り計らってくれるはずだったのだが、これはいったいどういうことなのだろうか。
(焼けぼっくいに火がつきましたか。どちらにしろ、看過できることではありませんね)
今回、レポック王子に一芝居打つよう頼んだはほかならぬこの自分なのだ。
ことをややこしくすれば、王族に連なるエマであろうと処罰は免れないし、第一、正妃が決まっているレポックとフライヤがそのまましあわせになれるとは到底思えない。
「なにをやっているのですか、フライヤ姫――!」
目を血走らせてベールを剥ぐと。
そこにはメイドのクリスに鉢を持たせたまま馬乗りになって胡麻をするフライヤの姿と、椅子に腰かけていたレポックのキョトンとした顔があった。
「なにって……勇者さまにゴマ団子作ろうかと思いまして。あ、これ王家に伝わる伝説のすりこぎ棒ですよ。エマ、勝手に持ち出しちゃダメですわよ」
「な――! 青斑点病ってンなにヤバい病気なのかっ?」
「ええ、医療用データベースによりますと、このバーデン・ガーデン地方ではかなりメジャーな死病でございます。罹患したものは、まずひと月以内に亡くなるといわれております」
将真はカラカラ迷宮に戻ると、エマⅡの腹部にある画像モニタに映し出された青斑点病の末期患者を前に茫然自失となっていた。
リゾットを咀嚼していたプラウドが脇からひょいと覗き込む。画像を目にした彼は道路にへばりついた猫の轢死体を目にしたかのような表情で口に含んでいた粥を残らず皿へと吐き戻した。
「マジでなんか特効薬かなんかないわけ」
「ございません」
「じゃあ、この病気にかかっちゃうとドロドロのグズグズになっちゃうわけ」
「はい。ドロドロのグズグズでございます」
「昼を食い過ぎたから夜は軽めにしたのに、恨むぞショーマ」
「この病の恐ろしいところは、全身に浮き出た青色の斑点が徐々に黒くなって、ゆっくりと壊死してゆくところでございます。患者は壮絶な痛みで意識がある間は叫び続け、やがて体力がなくなると声も上げずに腐ったバナナのようにドロドロに溶けてゆくのでございます」
眼の前が真っ暗になった。フライヤの裏切りもさることながら、将真のなかには彼女に対する絶望感で埋め尽くされていた。
あの花のように美しい彼女が食べ忘れたバナナのようにとろけてしまうだなんて。
「なんだ? さっきからそんなにエマⅡにかじりついて。そういえばさっき姿を消していたな。誰ぞ、知り合いでも病気になったのか」
将真は食後のコーヒーを楽しんでいるプラウドを入浴客から遠ざけて隅に移動すると、蚊のなくような我ながら覇気のない声で告げた。
「フライヤだよ」
「は?」
「さっきエマが呼び来てな。そんで、いっしょに城に戻った。フライヤが青斑点病なんだ」
「はぁ! ちょっと待った。姫さまがご病気だとっ」
将真はフライヤがレポックと元鞘に戻ったことは伏せておいた。死病にかかった彼女には精神的な慰めが必要だと思えば、もう腹も立たない。それどころか、そんな病にかかったフライヤを抱くことのできるレポックの胆力の凄さに憧憬すら抱きはじめていた。
「俺はなんとかフライヤの病気を治してやりてぇ。なんか、いい薬とかないのか?」
「気の毒だがショーマ。青斑点病はこのあたりじゃ有名な風土病だ。一旦かかって快癒した人間の話など私は聞いたことがない。感染経路がどうかすらわからないんだ。おまえの体力はオーク並みだが、少しは自分のことを心配したほうがいいんじゃないのか?」
プラウドはそういってのけると足早に去っていった。
その日もバイトが終わったあと帰宅することを足が拒否していた将真だった。
わかっている。なにもかもが予備校をサボってしまう自分が悪いのだ。
だが、同じくらいの頭だと信じて疑わなかったクラスメイトたちが残らず大学に受かってしまったことを直視するには将真の生活にはうるおいがなさ過ぎた。
「勇者さま。あなたとこうして出会えることを待ち望んでおりましたわ」
おとぎ話から飛び出てきたような金色の髪にきらきらと輝く瞳。
プリンセスのなかのプリンセス。
それがフライヤをはじめて見たときの印象だった。
コミックのような異世界召喚に魔王討伐の話は日本に氾濫していた二次元カルチャーにどっぷりと嵌っていた将真を奮い立たせるには充分なものだった。
高校生のとき、はじめて海外旅行で見たヨーロッパの古城とそっくりな建築物のすべてに将真は心に眠っていた厨二精神を残らず解き放った。
土と草の匂いが濃いどこまでも続く大地と平原。
押し寄せる怪奇な生物たちと命を賭して戦い、勝利し、束の間の命を噛み締める。
ここには退屈でなんの意義も見出せない受験勉強も、予備校も、自分を急かす世間も、取り残された重圧もなにひとつなかった。
将真は澄んだ瞳をゆらがせて怯えるフライヤのために攻め来る魔物を千切っては投げ千切っては投げすれば、ありとあらゆる人間があらゆる賛辞を送ってくれた。
「魔王を必ずやっつける。だから帰ってきたら俺といっしょになってくれ」
すべてが終わったあと、正直にそういえばよかったのだ。
結局のところ、将真のなかには、今使っている力がすべてフライヤとの契約による借り物の力であるということが拭いきれなかったのだ。
男らしく真正面から愛をささやいて彼女の心を掴めばよかったのに――。
挙句が、フライヤをとうに舞台から降りた元婚約者とかいうわけのわからぬ端役に奪われ、おまけにプリンセスは不治の病だ。
目をつむれば、いつだってフライヤがお日さまのようににこにこと微笑んでいる姿が目に浮かぶのに、今の自分はこうして暗く湿った地の底にいる。
「そうだ、風呂でも入るか」
気づけばどれだけの時間が経ったことやら。このダンジョンでは時間の観念というものは、意図的に意識しなければよくわからない。日本ではないのだ。どこの岩壁を見回しても時計もカレンダーもかかっていない。
将真が服を脱いで湯船に向かうと、ネネコが心配そうにこちらを見ていることに気づいた。
声をまったくかけてこうようとしない。いつもなら、暇さえあれば鬱陶しいくらいにじゃれついてくるのに、彼女も将真がいつもと違うことを悟っているのだ。
時間が関係しているかどうかはわからないが、入浴客は少なかった。
ゆっくりと湯に浸かって長く息を吐き出した。
だが、心は晴れない。
フライヤの病という重たいものが心にかぶさっているからだ。
将真は湯をすくってそっと口に含んでみた。
――これでは駄目だ。
ここを見つけてすぐにキムという冒険者を救ったことを思い出す。
あのときのように、湯の持つ根源的力を魔力で引き出してフライヤの病をどうにか治せないかと思ったが、今や多数の人間が浸かって神気を失ってしまったここの湯では、そこまでの効果は望めないだろう。
城から戻って三日ほど経つ。今朝方、エマから急使が来ていたがどうにも会うことができずエマⅡに追い返させた。
(俺はどうしたいんだ? フライヤを助けたいのか、助けたくないのか? それとも――)
嫉妬していないといったら嘘になる。あの清廉で純真な娘がほかの男に抱かれていると思っただけで将真は身悶えしたくなるような苦しみの炎に身を焼かれ、あれから一睡もしていない。
ざばりざばり、と音を立て湯から出る。温泉「ゆるり」の客足は戻りつつある。すべてネネコやエマⅡの懸命な接客のおかげだろう。
「あ、ショーマさん。どちらへ?」
「ちょっと、風にあたってくる」
ここは迷宮のなかだ。番台を通り抜け、旧ボス部屋の前の通路に座ると岩壁に背を預けて立ったまま目をつむった。ひんやりとした感触が心地よい。
「ショーマ。少しいいでしょうか」
気づけばS級冒険者であるルシールがマティアスを連れて近づいていた。ルシールが目配せをすると、聡いマティアスは素早くその場を離れた。将真は表情のない顔でうつむいたまま「ああ」と答える。
「あなたの思い人が、病であると聞きました」
「いったいそいつを誰から」
「プラウドというあなたの友人です」
「あいつが……!」
一番想像しえない男の名だった。
「彼も、あのネネコという娘も、エマⅡというゴーレムも。その青斑点病にかかってしまった方や、そしてなによりもあなたのために必死になって動いているのですよ? 肝心のあなたが、そんなことでどうするというのですか」
「けど、どうやってあいつを治してやったらいいのか、俺には見当もつかないんだっ」
「ひとつだけ、手立てがなくもありません」
「なんだって?」
「私が調査した結果、五階層はここと同じく、天然の湯が湧く源泉があるそうなのです。いにしえの書物にも、五層のケモノが守りし場所に万病を癒すとされる神泉がある、とされています。しかし――」
「そっか。なら、やることは決まったじゃん」
将真が静かにいった。
「ちょっと待ってください。五階層の守護獣はヒュドラです。しかもダークスチール級。並みのドラゴンを遥かに超える強さを誇っているのです。そう簡単に撃破しえるレベルの怪物ではありませんっ」
「ありがとな、ルシール。君には感謝している。そっか、五階層か。なんだか希望が見えてきたよ」
「あなたは私の話を聞いているのですか? ダークスチール・ヒュドラは先年、バーデン・ガーデンが召喚した勇者が倒したといわれるご当地魔王より強いかもしれないのです。そもそも、私があなたを慰めるため、嘘をいっているのかもしれないのですよ!」
「そうなの?」
「それを私に聞いてどうするのですかっ。いいですか。ここにいる私はただの冒険者です。キングスパイダーを倒したあなたは充分使える駒として見ている可能性だってあるのですよ? なぜ、そのように、人を簡単に信じてしまうのですか」
「だって、俺、ルシールが嘘つくなんて思わねぇもん。それに協力してくれるんだろ」
「……あなたは、本当にしようがない人ですね」
ルシールはそういって皮肉そうな笑みを浮かべた。
将真は風呂桶を小脇に抱えると、無造作に石鹸と手拭いをぶち込んだ。
腰には組み立ての湯を入れた大きめの水筒を提げてある。
履き慣れた半長靴の紐をしっかりと縛り直せば準備は整った。
ルシールと金色の箱舟のメンバーたちがボス部屋の前に並んで立っている。
場所は第五階層――。
初回のアタックは失敗に終わったのか、全員が傷だらけだった。
「今回に限り、私とこのショーマが前面に立つ。みなは援護に回って欲しい」
根回しは充分にすんでいたのか。異論は誰ひとりからとして出なかった。
視線を座り込んでいる男に転じた。
マティアスである。
彼は進んでメンバーに先立ち守護獣であるダークスチール・ヒュドラの攻撃を一身に引き受けた。そのせいでダメージは誰よりも大きかった。
血が出過ぎている。マティアス自身もそれをわかっているのか。力なく拳を振り上げる。将真はスッと近づいてそれを叩くと、振り返らずに駆け出した。
そしてその怪物は将真を待っていたように、ボス部屋の中央で悠然と待ち構えていた。
ヒュドラ――。
九つの首を持つ怪物である。
あらゆる生命体を圧する威容を備えていた。
ドラゴンと同様の四肢に九つの蛇頭をくねらせ地響きを鳴らしながら迫ってくる。
ルシールが静かに長剣を引き抜きながら注意を促した。
そして、決戦がはじまった。
将真は黙ったまま風呂桶に水筒から湯を流し込む。それが重要な儀式だと感じたのであろうか、ルシールは一瞬だけ両目を見開くと蛇頭から将真を守るように前へと進み出た。
ひたりと手拭いを湯に浸す。左腕に刻まれた
「ちょいとばっかしつき合ってもらうぜ。
将真はぴたんと手拭いを両手で持って構えるとヒュドラに向かって駆けた。
敵も黙って見ているほどお人よしではない。巨大な蛇頭を振り上げ叩きつけて来る。
振り絞った手拭いで迎え撃った。
魔力の籠った手拭いはクレーンのような蛇頭の首を重たげな音を響かせ吹っ飛ばした。
だが、ヒュドラの首は九つある。
将真を打ち殺すには充分すぎるほどの数だった。
ひゅおう、と。
異様な風切り音で大気を割ってそれらが迫った。
将真は右に左に細かく、大きく跳ねるとヒュドラの狙いをかわし続けた。
将真はただひとりであるのだが、ヒュドラの首は多すぎるのだ。
やつらの狙いは、ただこの身一点にある――。
そう判断して動いたのが功を奏したのか、蛇頭たちは将真の動きを捉えようとするあまり、中空で互いにぶつかり合って素早さを著しく減じた。
金の箱舟メンバーやルシールも黙って見ているわけではない。彼らはひとつの塊となってヒュドラのがら空きとなった横合いに回ると盛んに攻撃をはじめた。
そのチクチクした攻撃を嫌がったのか、二本ほどの首が迎撃に回った。
将真はその隙を見逃さず濡れた手拭いを引き回すと、脇を抜けていったヒュドラの首へと垂直に振り下ろした。
どずん、と。
山が崩れるような轟音が響き渡って蛇頭がその場に落ちた。
凄まじい勢いで青黒いヒュドラの血が噴き上がって霧状に舞い上がった。
「あと、八つ」
将真は削岩機のように大地を強引に割り掘ってゆくヒュドラの頭突きをかわしながら、後方へと素早く飛び退いてゆく。
さすがに極めつけの守護獣だ。首のひとつやふたつ落とされても痛痒すら感じないというのか。
これは長期戦になる――。
そうなれば自然と体力に劣る人間のほうがはるかに不利だ。
将真は戦いながらフライヤのことを思った。彼女は稀に見る善人で、魔王を討伐したあとカラッポになった自分を甘やかし続けた。
溺れてしまうのも無理はないだろう。将真の短い二十年の人生のなかで彼女ほど寛容で自分を愛してくれる女性ははじめてだったのだ。
将真は落ちこぼれでつまらない自分が嫌いだった。朝起きて鏡を見ると憂鬱になる。親からもらった大事な顔だと思えば我慢をしなければならないのだろうが、世間からドロップアウトしてしまったこの顔には自信というものが微塵も感じられなかった。
責任はすべて自分にある。
ここぞというときに性根を据えて頭を使おうとしなかった罰だった。
だからフライヤに国の運命を託されたとき、ときどき、いやかなり、いいやほとんど冒険の危機を旅の仲間に頼ってしまったのだが、投げ出すことはせずに最後までやり通せた。
ごっ、と鈍い音が腸で響いた。ヒュドラの一撃がモロに胃の腑へと突き刺さったのだ。
契約の加護があるから耐えられるだけであって、フライヤが自分を勇者だと選び出してくればければ、坂崎将真にはなにもないのだ。
唸りながら両腕でヒュドラの首を抱えると全身全霊の力を込めた。
みちみちみちと肉が引き絞られる音が鳴って、ぶちんと蛇頭が破裂した。
どっと生臭い湯のような青い血が全身に降りかかってくる。
吠えた。吠えながら手拭いを引き絞ると、真正面から突っ込んで来た蛇の眼球に振りかぶって叩きつけた。
魔力の込められた手拭いは槍の穂先のように鋭く強く走って、蛇頭の片目を貫いた。
飛び上がって蛇の身体を駆けると襲って来た頭をハエを払うように叩き落した。
胸が熱い。これは戦闘の肉体的疲労なんかではない。
ああ、そうか。坂崎将真という男は自分が思っていた以上にフライヤのことを愛していたのだ。
ただ、彼女の行為が悲しかった。同時に愛憎のどちらともつかぬドロドロとした言葉にできぬ複雑な思いが込み上げてくる。
生臭い男女のことを思えば嫉妬で頭がもげそうになる。そうだ。だいたいのところ、自分という人間はそれほど男前でもない。
フライヤとレポックは美男美女だ。将真がどれほど天高く功績を積み上げても彼女に届くことはなかったのだ。
気を抜いていたつもりはなかったが、ヒュドラの動きは精緻を極めていた。
これだけの重みで風のようにすべる攻撃をすべてさけられるはずもない。
「ショーマッ! あぶない――」
ルシールの声。一瞬だけ遅かった。目の前でカッと口を開いたヒュドラが弾丸を撃ち出すように焦げ茶色の液体を吐き出したのだ。
毒液だ! 反射的に両腕を交差させて顔だけは守った。液体が全身に降りかかると、燃え立つような熱いものが全神経を焼き尽くした。
じゅうじゅうと白煙を上げてフリースが焼け焦げてゆくのが分かった。
地に転がって絶叫を上げた。意識が保っていられない。だが、敵にとっては決定的なチャンスでもあるのだ。
巨大な熱量が牙を突き立てようと迫って来た。ルシールが素早く自分を抱きかかえながら転がって攻撃をさけてくれた。
「酷い怪我……! 一時、撤退を」
「それは……ダメだ」
逃げてはいけない。なにがなんであっても、今日、ここでヒュドラを打倒し、神泉を手に入れなくてはならない。
それさえあれば、フライヤを青斑点病から救うことができる。
自分は決して百点満点の男ではない。七〇点、いいや六〇点くらいか。
ともかくも、フライヤが笑いかけてくれたときだけ、ほんの少し自分に自信が持てたような気がした。
ひくりと鼻を蠢かす。硫黄の臭いがかすかに漂っている。間違いはない。ここには伝説どおり超一級の温泉が眠っている。
なぜわかるかといえば。
――それは、俺が温泉勇者だからだ。
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