異世界温泉♨︎勇者

三島千廣

第1話「エピローグにしてプロローグ」

「温泉とは地中から湧出する温水、鉱水及び水蒸気その他のガス(炭化水素を主成分とする天然ガスを除く)で、別表に掲げる温度又は物質を有するものいう」

(温泉法第2条)


 長きに渡った死闘が今決着を迎えようとしていた。


 坂崎将真は肩を荒く上下させながら首に巻いた手拭いをするすると下ろし握り締めた。


「そろそろ決着をつけようじゃないか、魔王さんよ……!」


 将真は日本人成年男子の平均身長に近い百七十二センチ。


 対する魔王は、岩堀の天井に届きそうなほど、五メートル近い体躯に半人半竜の姿をした禍々しき姿だった。


「あのな。いわせてもらっちゃなんだが、おまえ、ここまでなにひとつしてないよね?」


 場所は地の底、泣く子も黙る魔王城の最上階である。


 どこにでもいるフリーターの坂崎将真(19)は目の前でそう呟く、見上げるような巨体を持った竜種を祖とする魔王イブラヒム(54)を軽く睨んで舌打ちをした。


「馬鹿だな。この状況でそういうこというか? フツー」


「いや、普通とかそういうことなじゃくて。儂、間違ってないと思うのだが」


 グレーのフリースにチノパンのどこでにもいそうな青年将真は、自分の背後に転がっている死屍累々とした城の兵士たちを見やり、そしてなかったことにした。


 異世界であるバーデン・ガーデン王国の王女フライヤ(16)に召喚された将真は左手に刻まれた勇者の紋章によって尋常ならざる力を手に入れた。


 無限の魔法陣(マジョリカル・マナ)。


 神をも超える魔力を生み出す奇跡の源泉である。


 王女の懇願によってこの国を荒らす魔王の討伐を依頼され、なし崩し的に承諾した。


 超人的な力を有した将真は、戦士、魔術師、僧侶の三人とパーティーを組み、最初こそは円滑に冒険の旅を進めていた。


 が、怠惰極まりない将真の人使いの荒さに仲間は耐えかね――やがて崩壊した。


 戦士は肉盾として人間的尊厳を無視された酷使に精神を荒廃させ、半ば同情的だった僧侶のやさしさにつけ込み遁走した。


 人がよく押しに弱い僧侶はいつかどこかの街角で娼婦として会えそうな気がする。


 ツンキャラだった魔術師はデレを見せることなく最後の最後まで耐えていたようだった。


 が、魔王の城の前まで来ると図ったように将真を魔物の群れのど真ん中へ置き去りにして姿を消した。わかりやすい意趣返しだった。


「別に叛徒を討伐するのに軍を送り込むのは普通の思考じゃないか。俺のどこがおかしいっていうんだよ」


 ひとりぼっちで貧乏くじを引くのはなにか違う。


 なので、将真は城に援兵を乞い、バーデン・ガーデン王国の兵一五〇〇を用いて一気呵成に攻め寄せたのだった。


「いや、別に間違ってはおらんが。その代わり、人間どもの被害は甚大じゃぞ……?」


 ここに見えないだけでも、城のあちこちでは闘争に倒れ傷ついた兵たちが苦悶の呻きを上げている。


 将真は目を閉じてうむうむとうなずくと、わざとらしく人差し指で目頭をこすった。


「だが、十傑衆、四天王、参謀長など小うるさい雑魚はあらかた片づけられたぜ」


「おまえはそれでよいのか? そもそも勇者の存在ってなんなのじゃ」


「この期に及んでグチグチ男がいうのはみっともねぇぜ。正々堂々と一騎打ちだ。これならなんの問題もないだろうがっ」


「まーそうじゃが、まーそうなのじゃが。なにか、納得がいかん気がしてのう」


「つーとんとん、つーつとん。あ、城のエマか? 前衛が全滅した至急援軍乞う」


 将真はマジックオーブで城と通信すると援兵を恥ずかしげもなく依頼した。


「おいいいっ。そりゃちと卑怯に過ぎるんじゃなかろうかあっ!」


「エマ? おい、エマ? ……ちっ。あのメイド野郎切りやがった。なんてことだ」


 将真はふっと輝きの消えたオーブをどつき、あまりの痛みにしゃがみ込んだ。


「なんてことだなじゃくて、のう。お主、大丈夫か」


「ん。あ、ああ。どうもあのメイド、出てくるときに俺がこっそりコンドームに穴を開けたことを怒っているらしい」


「別におまえを心配などしとらんのだが。それよか、なんちゅう外道なことを。それじゃメイドさんも慌てるだろうて」


「なあ? ちょっとしたジョークなのにな。心の狭い女だぜ」


「なんだか儂なんかよりもお主のほうがよっぽど外道のような気がするのう」


「うるせええっ。とにかく俺はおまえをぶっ倒して姫さんといちゃいちゃしたいんだよっ」


「まあ、男ならどうでなくてはのう。お主は色のため、儂はこの世界を手に入れるために戦う。同じく命を賭けるに充分な理由であるぞ……!」


(とっととカタさせてもらうぜっ。俺は姫さんのワガママボディを早くムチャクチャにしてぇ……!)


 なし崩し的に勇者にされたのだが、なにごともフィフティ・フィフティだ。


 将真の脳裏には城の王座で待つフライヤ姫のきゅっ、ぼん、きゅっの身体しかない。


 あの肉を思うさま貪るためにこの日まで嫌々旅を続けて来たのだ。


 じゃなきゃ命など張れない。わかりやすい行動原理だった。


(揉んで、吸って、挟んで……嗚呼、とにかくいとしのフライヤちゃんに会いてぇ)


 将真の瞳には星飛雄馬のように情欲の炎がメラメラと燃え盛っていた。


 ほとんど発情した猿同然である。


 だが、この燃え盛る鬼気を闘志と勘違いした魔王はやる気を出していた。


「ふふ。さすが我が好敵手よ。この一戦に賭ける重みは並大抵のものではないと見た」


「たりめーよ。魔王さんよ。そこを動くんじゃねーぞ。フレイヤ姫への愛(肉欲)のためにも、おまえをここで打ち果たせねば、俺は生きて城に戻るつもりは、これっぽっちもない」


 将真は持参した木桶にちゃぷんと手拭いを浸した。


「の、のう。つかぬことを聞くが、それはなにをやっているのじゃ?」


「ああ? おまえ知らんのか。手拭いをお湯に浸すとよ……重くなって痛いんだぜ」


 将真はお湯を吸った手拭いをすたーんと床に叩きつけるとドヤ顔を作った。


「あ、ああ、うん」


 魔王は納得しかけて、茫然とした視線を向けて来る。将真は戦う前に勝ったと思った。


「じゃなくて! おまえ儂を馬鹿にしておるじゃろッ」


「ああん。なんだよ、人の得物にケチをつけて。ああ、そうか。魔王よ。アンタ、なんだかんだ理由をつけて、俺のフェイバリットを奪おうとしてるんだろーが、そいつは桑名の焼きハマグリよ」


 将真は言葉回しがいちいち古臭かった。


「ま、魔王さまっ。きさま、勇者……! よくも妻が男と会っているなどと出まかせをいいおってっ。おかげで我が精神力が途切れてしまったが、今度はそうはいかんぞ!」


 対峙するふたりの前に突如として現れたのは、魔王軍四天王筆頭にして最強のデーモン族戦士ロードミルである。


「うるっさいな。おとなしく自宅に戻っていればよかったのによ」


 ロードミルは最終決戦に向けて長年の幼馴染を妻に迎えたばかりだった。


 彼は、あちこちに打撲の青痣を刻みながらも、闘志を全身からみなぎらせていた。


 入り口から駆けだすと、将真に向かって長剣を振るい飛びかかって来た。


「ロードミル? お主、まさかそんな戯言で」


 魔王が痛ましいものを見るような目をした。


「ぬん」


 将真は竜と互角の膂力を持つ三メートルの巨体を誇る魔人を、手拭いのただのひと振りで壁際まで弾き飛ばした。


 ロードミルは断末魔を上げる暇すら与えられずに、打たれた首をぐるんと三六〇度回転させると、煉瓦の壁に顔面を激突させ潰れたトマトのようになった。


「き、きさま――!」


 たしーんたしーんと濡れた手拭いで平手を打ちつけつつ距離を詰めた。


「だからいっただろ? 俺の手拭いはレベル99だって」


「ンなことひとこともいっとらんわああっ!」


 将真と魔王は正面切ってぶつかり合うと互いの秘術を尽して力の限界まで戦った。


 それは龍虎が激突し、天変地異さえ起りそうな白熱した死闘であった。


 ときにはインターバルを取って休憩をこまめに挟む。


 レフェリーに逃げ出したはずの魔術師レイチェルがちゃっかり加わっていたなどいろいろあったが、七日七晩激闘を繰り返しても決着は着かなかった。


 魔王は巨体を揺らしながら荒く肩で息をしていた。


「さ、さすがフライヤ姫が召喚した救国の勇者よ。儂とここまで互角に打ち合えたのはお主が三〇〇年ぶりよ……」


「あ、あんたこそ、ありえねぇ硬さじゃねぇか。す、すぐ決着がつくと思ったのによ」


 将真は乾きつつある手拭いを手桶に浸すと、よろばうようにして再び魔王へ近づく。


 彼が人外の魔王と互角に戦えるのは胸に刻まれた無限の魔法陣マジョリカル・マナと呼ばれる伝説の紋章をおかげだった。


 将真はこの紋章の力で天地万物が有する魔力を無尽蔵に引き出し、人間の限界を超えて戦い続ける機械と化していた。


 桶に満ちている湯は将真の魔力で変質した闘気の塊であり、これが将真のただのひとつの武器だ。


 湯に浸された手拭いはこの世に現存するあらゆる聖剣を越えた強度と切れ味を持っていたが、その秘術を持ってしても容易に打ち滅ぼせない魔王は魔族の頂点に立つ最強生物の名に恥じない存在だった。


「ブレイク、ブレイク」


 とんがり帽子の魔女レイチェルが鴉のような真っ黒いローブを翻して両者を分けた。


 将真と魔王は、もはや定位置となった部屋の隅に移動して、のっそりと床に座り込み呼吸を整えている。


 魔王の側にはいつの間にかどうにか動けるようになった四天王筆頭のロードミルがセコンドについて励ましている。


「ショーマ。ナイスファイトよ」


 栗毛のくるんくるんとしたくせっ毛がかわいらしいレイチェル(15)が眠たそうな瞳でいった。


「レイチェル……おまえ……人をハメといて……ホント、面の皮厚いよな」


「そんなに褒めなくてもいいじゃない」


「おい、今のは皮肉ったんだぞ。第一、とっくにフケたと思ってたのに、なんでここに」


「や。思ったより魔物の数が多くて逃げそびれたの」


 彼女のイチイの杖はそれなりの激戦を終えた名残りかところどころ焦げていた。レイチェルは火属性の魔術を使わせれば当代取って並ぶ者無しの術者である。


「だあっ。もういいや。水」


「ん」


 将真はレイチェルの差し出した水筒を奪うと喉を鳴らしてごっごっと水分補給した。


「あのさ、ショーマ。あんたやればできんじゃん。なんでいっつもあたしにばっか戦わせたのよ」


「そんなん面倒だからだ。……おい、この状態で上級魔術はやめろ。マジで死ぬから」


「はあ。あんたがそんなんだから、仲間に逃げられんのよ。みんなどれだけストレスチェックで引っかかったと思ってんの? 反省しなさい」


「反省もなにもねーよ。ここまで来たら、必ず勝って帰る。で、援軍は? 城に頼んだんだろ。全然ナシのつぶてじゃねーか」


「あんたが、有給休暇だってだまくらかした十傑衆が城に帰陣したのよ。ただいま、王国の増援部隊と城門付近で絶賛激闘中」


「はあっ。じゃあ、やっぱ俺ひとりの力で戦わなきゃなんねーの。マジかよ」


「でも、アンタいざってときにはなんとかしちゃうんでしょう。それとも、童貞のまま死ぬ?」


「あのな。ひとついっておくが、俺は童貞じゃないぞ」


「あら? 素直に認めたら、女も知らずに死ぬのはかわいそだから、抱かせあげよっかな。って思ったのに」


 レイチェルの体形はつるぺたであるが、飢えたる熊同然の将真は基本かわいらしい女ならなんでもよかった。


 が、ここまでの旅の途中ついぞぶれることなくツンであった彼女だ。


 途端にがっつくのもいやらしいかと青年の自意識が邪魔して将真は興味のないふりを反射的に示した。


「ひひひ、人を、かかか、からかうのは、ややや、やめにしようぜレイチェルちゃん?」


「めっちゃどもってるやん、自分。おい、冗談だ。いきなりズボンを下ろすな。変態」


「は、はぁ? ほ、本気になんかしてねーし? お、俺はそういうの好きな人とっておもっちぇるぶぶれっ」


「おまけに舌噛んでるし。アンタ、どんだけ動揺してんのよ。ま、ショーマが今すぐ魔王を斃して見せるほどの器なら、ここですぐにでもさせたげるんだけど」


 レイチェルはにひひと笑いながら、長く美しい脚をロングスカートをめくって見せつけた。


 それが間違いだったのか――。


 将真は瞳を輝かすと、矢のように玉座に座り込んでいた魔王の顔面を振り絞った手拭いの一撃で吹き飛ばした。


 きらめく光の奔流が室内を真っ白に染め上げ、あらゆる音が消え失せた。


 次の瞬間、玉座には座ったまま胸部から上をそっくり消失させた魔王の下半身だけが残っていた。


 圧倒的な力の差である。


 ついでにそばにいた四天王筆頭も巻き添えを喰らって存在を掻き消されていた。


「じゃ、レイチェル――! 一発目は、メイド服でのご主人さま嫌よ嫌よも好きのうち凌辱プレイからおなしゃっ――っていねぇし!」


 将真の脱童貞に対する異常な底力を見せつけられたレイチェルは空間移動の術で速やかにその場を逃げ去っていた。


「あンのクソアマがあああっ。男の純情を弄びおってからにっ!」


 将真は手にした魔力の籠った手拭いを床に鋭く打ちつけ、巨大な亀裂を走らせた。


 魔王イブラヒムが滅んだことによって、城から発せられていた邪気が消えていった。


 城外では力を失った魔王軍幹部が逃亡し、兵たちの凱歌が上がった。


「だ、脱・童貞の野望が……ぐふ」


 精も魂も尽き果てた将真が呻きながらその場に崩れ落ちる。


 これにてこの地より、魔軍は退散しバーデン・ガーデン王国に平和が訪れた。


 将真は三〇秒後意識を取り戻すと、スキップを踏みながらフライヤ姫が待つトルコン城に帰っていった。


 すべては終わり、めでたしめでたし――。


 そして物語は、半年後に幕を開ける。


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