しあわせなゆめ
Dahlia
第6幕 しあわせなゆめ
管理室へ通じるドアをパティーが開けた。やはりこのドアも古くなっているのか、ノブを回して開くときに耳障りな金属の摩擦音と軋む音が不気味に響いた。ドアの向こうは小さなオフィスだった。部屋の中央には大きめのテーブルがあり、それを囲うようにして黒い革のソファーが備え付けられている。テーブルには資料か何かが置きっぱなしになっていた。入って正面の壁には本棚が二つ押し付けられていて、ぎっしりとファイルや本が詰まっていた。本棚の隣にはドアがあり、まだ先に続いているらしい。三人は、まずはこの部屋を調べることにした。
本棚には【B】から【I】まで資料がわけられて詰め込まれていた。そしてその資料には、どの区域のどの番号の部屋に何が仕舞ってあるのか、またその物品の詳しい説明が写真とともに掲載されていた。それは高価で価値のありそうなものから、壊れてしまって使い物にならなくなったもの、質の悪い複製品など、種類は実に多種多様だった。中には、いわくつきのものや、嘘か真かは定かではないが奇怪な現象を引き起こしたものまであった。だが、どんなに探しても【A】の部屋に関する資料は見当たらなかった。テーブルに置かれていた資料は、この倉庫の閉鎖に関する報告書だった。日付は二十年前ほど前だった。結局、めぼしいものも、鍵も、情報も全くと言っていいほど入手できなかった。仕方なく三人は次のドアを開けた。
♪♪♪
ここもあまり広い部屋ではなかった。正面に社長が座るような大きめの椅子とテーブルが設置されていた。その後ろの壁には大きな絵が掛けられている。その絵はルティも見たことがあった。最後の晩餐という絵だった。四方の壁にも宗教画がかけられている。こちらの部屋には本棚はなかった。テーブルの上には、一冊の日記帳とペン、そして鍵束が置かれていた。ダリアが椅子に身体を投げ出すようにして座った。
「社長さんになった気分!」
ダリアはご機嫌だった。ルティも壁に掛けられた絵を見ていると、不思議と心が落ち着いて幸せな気分になってきた。絵の中の聖母や天使は優しい眼差しで微笑みかけている。パティーもルティと並んで絵画を眺めている。その表情は穏やかだった。
「ねえ、ルティ。ルティは将来、なにになりたい?」
ダリアがテーブルに両腕を置き、手を組んでこちらを見ながら言った。まるで本当に社長になったかのようだった。ルティにはそう見えた。
「学校の先生になりたい。」
ルティはそう答えた。
「いいね。ルティなら優しい先生になれるよ。パティーは?」
パティーはまさか自分にまで質問が飛んでくるとは思わなかったようで、身体をびくりとさせた。ダリアとルティは二人とも興味深そうに彼を見ていた。彼は二人の視線に取り乱しながらも、恥ずかしそうに答えた。
「ぼくは、ミュージシャンかな。」
その答えに、ダリアが食いついた。
「わあ! わたし、歌手になりたいんだ! なにか楽器は演奏できるの?」
彼女は椅子から勢いよく立ち上がった。
「ええと、ギターとかピアノなら少しは。」
パティーは頭を掻きながら、視線を流して恥ずかしそうに言った。ルティはちょうどそのとき、自分のかたわらの壁に、クラシックギターが立てかけられているのに気付いた。先ほどまでは無かったように思えるのだが、気が付かなかっただけだろうか。ルティはほんの少し違和感を覚えたが、せっかくギターを見つけたのでパティーに弾いてもらおうと考えた。ギターを手に取って、パティーに差し出す。彼は顔をパッと明るくするとルティからギターを受け取った。左手でコードを押さえ、右手で弦を弾く。あたたかい音色が調和した。調律は完璧のようだった。彼は、こんなところにあったギターの調律が完璧であることに驚いた。だが、そんなこともあるのだろうと気にも留めなかった。
「なんだか、丸い音がするギターだね。」
ルティが音を軽快に鳴らすパティーを眺めながら言った。
「これはクラシックギターっていって、弦がガットとかナイロンなんだよ。
だから金属の弦のギターよりも、音がこんな感じでやわらかいんだ。」
「へえ、パティーって物知りだね。」
ルティがペンとノートを取り出して、パティーの言ったクラシックギターの特徴を書いていった。パティーが一旦、音を鳴らすのを止めた。一呼吸置いてから、今度はしっかりとした旋律を奏で始める。それはれっきとした曲だった。
「Moon river, wider than a mile, I`m crossing you in style some day,」
ダリアが話しているときの声とは全く違う、透き通ったきれいな声で唄い始めた。パティーの奏でるクラシックギターの音と、ダリアの歌声が重なり合い、空間に満ち、溶けていく。その心地良い音の調和に、ルティはうっとりとした。まるで、情景が浮かぶようだった。ルティは壁にもたれかかってその場に座った。観客のようにして静かに音を聴いていた。ダリアとパティーはときどき、視線を交わしながら互いの呼吸を計っていた。その様子がまた、二人で一つの曲を作り上げているということをルティに示し、心の温度を持つ二人が奏でる音なのだと実感させてくれる。
「Moon river and me,」
最後の歌詞を丁寧に歌い上げた。その声は儚く、残響となって消えた。その余韻を、パティーのやわらかなクラシックギターの音色が引き継ぐ。パティーは静かに最後の一音を弾いた。音が空間に響き、広がり、水が乾くように静かに消えていった。
無音。全てが終わり、音の世界にはなにも残ってはいなかった。その静寂の中でルティは手を打った。ルティの拍手する音だけが、小さな部屋にこだました。パティーは照れくさそうにまた頭を掻いていた。ダリアは白いシャツワンピースの中ほどを両手でつまみ上げて、まるで女優のように瀟洒な礼をした。ルティはより一層、手を強く打った。
「ダリア。ムーンリバー、知ってたんだね。」
パティーがダリアを向いて言った。
「もちろん!」
ダリアが胸を張って答えた。
「もう一曲、聴きたい!」
ルティが手を挙げて二人に言った。二人は笑って快諾した。ダリアとパティーは少し近付くと次の曲を相談し始めた。ルティはその間、わくわくしながら待っていた。心が弾み、固く冷たいコンクリートに座っているはずなのに、そんなことは気にならなかった。やがて、曲目が決まったのか、二人は元の距離まで戻った。曲が始まる前の、質の違う静寂が流れる。ダリアが瞳を閉じた。深く、呼吸をする。その様子をパティーは見ている。ダリアがエメラルドのように煌めく、美しい緑色の瞳を開けた。ダリアの息を深く吸う音が聞こえた。
「Amazing grace how sweet the sound, That saved a wretch like me,
I once was lost but now I`m found, Was blind but now I see,」
まるで、暗い闇夜に暁のまばゆい閃光が射したかのような歌声だった。次第に夜の闇は暁光に振り払われてその姿を消し、それに黒く覆い隠されていた美しい景色が光のもとでよみがえる。その歌声は、ふるえる大きな喜びに満ちていた。光も音も無いとこしえの闇が歌声によって打ち払われた。まるで、それによって世界が色を取り戻すかのように、パティーのクラシックギターが音を鳴らした。賛美の言葉、救いの音色、神の大いなる恩寵に自身の身の内に巣食う苦しみまでもが打ち払われるようだった。
あまりの心地良さと、音に想起させられる景色が、まるで夢のように眼前に広がった。自分の瞳のように透き通った、どこまでもどこまでも永遠に突き抜けていく蒼穹。薫風に、緑色の草原はまるで海のように波打ち、真っ白な花弁が天使の羽根のように天高く舞い上がる。喜びに打ち震える心のように、パティーの奏でる音が躍った。
「When we`ve been there ten thousand years, Bright shining as the sun,
We`ve no less days to sing God`s praise, Than when we`d first begun,」
クライマックスであった。ダリアは右の瞳から一筋だけ涙をこぼした。なおも、いまにもその心に注ぎ込まれる無限の喜びに破裂してしまいそうな声を一層強くして、心を吐き出すように唄い続けた。パティーも彼女の歌声が強くなるのに合わせ、その歌声に乗せて、ギターを強く激しく弾き鳴らした。風が強く吹き上がる。一気に天使の白い羽根が風に乗って、蒼い天空へと舞い上がって光を浴び、きらきらと輝いた。お互いに最後の一音を揃えて、それ以降は一切の音を生まなかった。その静寂に風は止み、天から真っ白な羽根が雪のように、穏やかに陽の光を浴びて舞い落ちてきた。三人はその中で、あたたかな光を浴びて互いを見つめあった。音の消えた世界の中で、三人は幸せそうに微笑みあった。
それから三人は、涼やかな風の吹き渡る草原を歩いて行った。ルティはこんなに心地の良い場所を歩いたのは初めてだった。見渡す限りに豊穣の大地は際限なく広がり、穏やかな川が命を潤していた。あちらこちらに木が生えていて、それにはみずみずしい果実がぶら下がっていた。花々は色とりどりに咲き乱れ、空を駆ける小鳥たちは楽しそうにさえずっている。
「なんだか、楽園みたいだね。」
ダリアが風に揺れる白金色の髪を掻き上げながら言った。
「うん。こんなところに住めたらいいなあ。」
ルティは白い花弁が舞い上がる空を上に見ながら応えた。そのときだった。蒼い空の一点が突然に輝き始めた。そこにはなにもなかったはずなのに、太陽が現れたかのように強い光を放ち始めた。ルティは目を細め、その光から視界を確保しようと小さな手を掲げた。なにかが光の中からこちらへやってくるのがわかった。それは大きな鳥のように見えた。光の中から真っ白い鳥の翼がはみ出している。それは自分たちの前に降り立った。着陸の音を合図にして、光が少しずつ弱まっていく。そのものの全貌が明らかになると、ルティは息を呑んだ。美しい金色の髪に、蒼穹のような瞳。純白の法衣を身に纏い、背には一対の真っ白な翼を広げていた。天上の神々に仕える、天使だった。天使は慈愛に満ちた声で言った。
「私は、主のお使いとして参りました。ようこそ、しあわせの園へ。
あなたたちは主にここへ入ることを赦されました。祝福します。
まずは主からの贈り物を、お受け取りください。」
そう言って天使は三人に背を向けると自分の翼から一枚だけ羽根を抜き取った。それを右手にペンを持つようにして構えると、まるで空間に絵を描くようにして手を動かし始めた。すると不思議なことに、天使が手を動かすたび、その手の動きに合わせてペン先が紙をこするような小気味よい音が本当に聞こえてきた。天使の背に広げられた翼がついたてのようになってしまい、向こう側でなにが起こっているのか視認できない。天使は手を空間に向かって動かし続けた。そのうち、三人の目にも天使がなにをしているのかがわかった。天使の向こう側に、黒い線が浮かんでいた。それは空間に漂っているようだった。天使はどんどん書き進めていく。線が重なり合い、やがてそれは小さなお城の形になっていった。
「わあ! すてき!」
ダリアが声を弾ませた。パティーも感動してその様を見ている。
「お気に召していただけたようで、なによりです。」
天使が最後に、お城の横に大きな鐘の吊るされた高い塔を描いてしめくくった。すると、みるみる線だけだったお城が実体を持ち始めた。なにもなかった空間に、あっという間に立派なお城が建った。天使はその不思議な羽根を恍惚としているルティに差し出した。ルティは両手で羽根を受け取ると、天使にお礼を言った。天使は微笑みを残して、三人の前へ降り立った時と同じように、また光の中へと消えていった。
きれいな鐘の音が響き渡った。それは王の凱旋を告げる鐘だった。三人が城へと進んで行くと、立派な城門がひとりでに開いた。中に入ると、そこには清浄な水を吹き上げる噴水があった。そのそばには大理石のテーブルと椅子が設置されている。建物の中のはずなのに、見上げれば透き通るような蒼い空が広がっていた。そして白い壁にはツタが這い、ところどころにかわいらしい薄紫色の花を咲かせている。壁には白い木の扉が三つあった。ドアノブや金具はすべて金で作られており、きらきらしていた。
「ねえ、お茶にしない?」
ルティが二人に提案した。二人は喜んで賛成した。パティーが紅茶を淹れるために必要なものを探しに行こうとして、一番左のドアの金のドアノブに手をかけた。
「パティー。わたしに任せて。」
ルティが得意そうに言った。パティーはドアノブを持ったままルティを振り返った。彼女は天使からもらった白い羽根で、テーブルの上の空間にティーセットを描き始めた。パティーは納得したようで、扉の側にギターを立てかけた。黒い線が空間でつながり、きれいなカップ、ポット、スプーン、更にはスコーンやジャムまでもが現れる。ルティが描き終えると、それらは瞬く間にテーブルの上に実態を持って色づいた。ポットの口からは湯気が立ち上った。
「すごい! ルティお絵描き上手だね!」
ダリアが一番で席に着いた。次にルティが羽根を鞄に仕舞いながら座った。パティーはポットの蓋を開けて中を見てから、改めて三つのカップに紅茶を注いだ。ダージリンの良い香りがふわりと優しく広がった。ルティとパティーはそのままで、ダリアはレモンを浮かべて、それぞれ紅茶を飲んだ。
紅茶はどれだけ時間が経っても冷めなかった。三人はかなり長いことお茶菓子をつまみながら紅茶を飲んでいたが、紅茶の温度は一切変わらなかった。蒼い空はいつまでも蒼く、時間の経過すら感じられなかった。
「さっきから気になってるんだけど、あのドアはなんだろうね。」
ダリアが、壁にある三つの扉に興味を示した。ルティもパティーもその扉の一つ一つを見ていった。ダリアは紅茶を全て飲み干すとカップを置き、席を立った。パティーがギターを立てかけた、一番左側の扉をよくよく見てみる。ドアの上の壁に、直接金色の文字が書かれていた。
――― Rutti・Bequaer ―――
ルティ・ベクアールと書かれていた。ここは、ルティの部屋ということだろう。
「ルティ。ここにルティのフルネームが書いてあるよ。」
ルティも紅茶を全部飲むと、ダリアが指し示す白い壁を見に行った。確かにそこには、自分のフルネームが書かれていた。パティーが真ん中のドアの上を見上げた。
――― Pati・Tiens ―――
パティー・ティエンス。真ん中はパティーの部屋だった。ダリアは一番右のドアの前まで早足で歩いて行った。そして、ドアの上を見た。
――― Dahlia・Poupee・en・biscuit ―――
ダリア・プペアンビスキュイ。彼女の部屋だった。三人は一斉にドアを開けてみることにした。それぞれドアノブに手をかける。そして声をそろえて合図をしあうと、同時にドアを開けた。
ルティは部屋を見て嬉しさのあまり思わず声を上げた。深紅の絨毯が敷かれた床には、たくさんのぬいぐるみが並べられていた。ベッドも天蓋とカーテンの付いた、お姫様が身を横たえる立派なものだった。そのベッドにも、ぬいぐるみが置かれていた。机もぴかぴかしていて上等な筆記用具が揃っている。本棚にはぎっしりと本が詰まっているし窓は大きく、部屋の中はあたたかい日光で満たされていた。ここが自分の部屋で、この部屋のものは自分のものだと思うと、嬉しさのあまり、ふかふかのベッドに飛び込んで意味もなく転げ回りたい気分だった。それをなんとか抑えて、パティーとダリアの方を見る。二人とも部屋に少しだけ入ったところでルティと同じように立ち尽くしていた。ルティはダリアの方へ行ってみた。
「ダリアのお部屋はどうかな?」
ダリアの後ろから覗く。ダリアの部屋は、その家具が全て美味しそうな食べ物の形をしていた。クッキーの床にケーキのテーブル。オムレツのベッド、クッションはマカロン。壁には風景画がいくつも飾られている。
「すごい! オムレツのベッドもある!」
「もう我慢できない!」
ダリアは叫ぶとオムレツのベッドに飛び込んでいった。にんじんの形をしたマクラを抱き締めながらベッドの上でゴロゴロと楽しそうにしている。ルティはその様子を笑いながら見ていた。
今度はパティーの部屋からピアノのきれいな音が聞こえてきた。ルティはパティーの部屋へ向かった。ドアからそっと中を覗いてみる。彼の部屋には黒光りするグランドピアノが隅の方に設置されていた。パティーは実に気持ちよさそうにピアノの鍵盤に指を乗せている。その景色は絵のようにきれいで、ルティは彼に話しかけないでおこうと思った。彼から目を離して部屋の中を見てみる。壁際にはクラシックギター、アコースティックギター、エレキギターなど多種多様なギターが立てかけられていた。そして更には、絵を描くための木製イーゼルと白い画布の貼られたカンヴァスまであり、絵描き道具も揃っていた。
三つとも、個性的な部屋だった。パティーとダリアがそれぞれの部屋でそれぞれの時間を過ごし始めたので、ルティも自分の部屋に戻った。窓際に設置された真新しい机に向かってみる。ルティは肩から下げた鞄を、机の上に置いた。そして部屋をもう一度見渡した。文句のつけようがない、自分の想像しうる最高の部屋だった。ルティは部屋の隅に置かれた豪華なベッドがだんだんと魅力的に見えてきた。ベッドに引き寄せられるかのように歩いて行くと、天蓋から垂れるわずかに透けたカーテンを開けた。やわらかそうな布団の上に、自分を見上げるようにして子犬や子猫、小鳥のぬいぐるみが並んでいる。目がかすんできた。身体がぽかぽかとしていて気持ちがよかった。ルティはそのままベッドに倒れ込んだ。顔を、身体を、やわらかなベッドの感触が包み込んでくれる。さらさらしていて、ほんのりと生地の温度があって、草原の風が運んでくるような良い香りがした。部屋は窓から射し込む日光で満たされて明るいというのに、まったく不快ではなかった。まるで光の雲の中にいるようで、ふわふわとした心地だった。ルティはこれまで感じたことのない幸福感の中、眠りに身を委ねた。
♪♪♪
暗闇にぼんやりと白い光が滲むように、まどろみの水底に沈んでいた意識が浮かび上がってきた。目を閉じているはずなのに認識している視界は真っ白だった。だが、眩しいというわけではなかった。眠りにつく前と同じで心地良かった。ルティは自分の身体を包み込むやわらかな布団を、更に自分に巻き付けるように引っ張りながら寝返りを打った。もう少しだけ眠りと現実の狭間をゆらゆらと漂っていたいと思った。せめて母親が起こしに来るまでは、このまま布団の中にもぐり込んでいることに決めた。
しかし、いつまで経っても母親は起こしに来なかった。ルティは心のすみに白いもやが漂っているような、そんなはっきりとしない違和感を覚えた。その違和感の原因は明確にはわからなかった。ただ、なにかが違う。なにかがおかしい。気にしなければ気にならない程度の、非常にかすかなものだった。ルティは布団を押し上げてベッドから起き上がった。周りは天蓋から垂れた薄いカーテンで覆われている。またルティはわずかな違和を感じた。自分はこんなベッドで寝ていただろうか。そう自分に問いかけた。自分を取り囲むぬいぐるみたちも、ずっと一緒にいたような気もするが、初めて会った他人のような気もする。ルティはしばらくベッドの上に座ってぼんやりとしていた。
ルティは天蓋から垂れたカーテンを開けた。きれいな自分の部屋が目に飛び込んできた。机には、自分のお気に入りの鞄が置かれている。ルティはそれを見て、しまったと思った。あんなところに鞄を置きっぱなしにしていると、お母さんに叱られてしまう。机は物置ではないから、という両親の言いつけを思い出した。そのとき、また妙な気分になった。自分の中に、もう一人自分がいるような心地だった。そのもう一人の自分が、ここにはお母さんもお父さんも入ってこないから、そのままでもかまわないよと耳打ちした。そしてルティはその言葉を、あと一歩のところで受け入れてしまうところだった。そして、明確な形を持たずに漂っていた違和感が一気に肉体を得て自分に襲い掛かってきた。ルティは恐ろしくなって机に駆け寄ると、鞄を引っ掴んで部屋を出ようとした。だが、部屋のドアにはドアノブが付いていなかった。ルティは自分がここに閉じ込められてしまったことを悟った。ドアは押しても、体当たりをしてみてもびくともしなかった。今度は窓に向かってみたが、すでに冷やかな格子がはめられていて出られなかった。ルティはいよいよ恐怖して、その場にへたり込んでしまった。
「ずっとここにいたらいいよ。しあわせになれるよ。」
どこからともなく子供の声がした。
「いやだ! もとに戻して!」
ルティは叫んだ。子供の声は優しく応える。
「なんでこんな、しあわせなゆめから覚めたがるんだい。苦しい場所に帰りたいの?」
ルティは下唇を噛んだ。そうだ。元の世界は辛いことがたくさんある。我慢しなければならないことも、頑張らなければならないことも、腹の立つことも、痛いことも、理不尽でもどかしいこともたくさんある。自分の思い通りにならないことばかりだ。しかし、それでもルティは自分が一度は望んだしあわせなゆめと、決別する覚悟を決めた。自分と、ダリアと、パティーの三人で、おかしくなってしまった博物館から出るという約束を守るのだ。ルティは自分の心にそう強く誓った。
「わたしは、ここを出て行く! 本当の世界で生きます! 辛いことも我慢します!
だから、わたしを元の世界に戻して!」
ルティは立ち上がり、強い声で言った。彼女がそう言い終わると、ドアに黒い文字がひとりでに浮かび上がった。ルティはドアへ近付いていった。そこには、辛い地獄へ行きますかと書かれており、その下には赤い字で【Yes】、青い字で【No】とあった。ルティは迷わずにイエスと言った。その瞬間、あんなに優しい光に包まれていた部屋が真っ暗になった。ルティはまた怖くなったが、心は引き下がらなかった。周囲の暗闇に真っ赤な字が無数に現れ出て激しく乱舞した。
――― 苦しめ かわいそうなルティ おまえは地獄行き おともだちも一緒だ ―――
そう書かれていた。ルティの足元が突然崩れ落ちた。轟音とともに、すさまじい勢いで身体が落下していくのがわかった。気分が悪くなる浮遊感だった。耳元でうるさいほどに、悪魔や亡霊の唸り声の如く、風鳴りがする。背中で風を切りながら、ルティは底の見えない闇の中へと真っ逆さまに落ちていった。
→第7幕へ続く
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