絵空事の世界

Dahlia

​​第5幕 絵空事の世界




 突然の叫び声に驚いて玉座の後ろを見に行くと、パティーの身体の半分以上が床に沈んでいる異様な光景が目に飛び込んできた。彼は苦悶の表情を浮かべながら、地上に両腕を着いてなんとか這い上がろうとしているところだった。彼のそばにまで寄ると、何が彼の身に起こったのかがよくわかった。彼の立っていたであろう場所の床にはぽっかりと四角い大きな穴が開き、下へと続くコンクリートの階段が現れていた。彼はやっとこさ立ち上がると、穴から一歩離れて自分を飲み込もうとした暗い穴を見下ろした。ルティもダリアも彼のそばに立って、同じように穴を見下ろす。どうやら、隠し通路のようだった。階段の中途には、この通路を隠していた蓋の残骸が散らばっている。

「大丈夫? パティー。」

ルティは心配そうに彼を見上げた。彼は服に付いた白く粉っぽい汚れをはたいて落としながら笑って応えた。パティーがしゃがんで穴の縁を調べた。錆びた金具のようなものがコンクリートに取り付けられている。どうやらかなり老朽化していたようだ。先ほどパティーが蓋の上へ乗ったときに壊れてしまったらしい。パティーは立ち上がると下唇を噛んだ。こんなところに隠し通路があったことには驚いたし、点検と補強が不十分だったことも気がかりであるが、通路の蓋を壊してしまった。その罪悪感が彼にのしかかってきていた。

「あ、パティー! 血が出てるよ!」

ルティが声を張り詰めて言った。言われてみると、右腕がなにやら痛かった。彼は鋭い痛みのする右腕の中途を見てみた。腕には血がしたたり、紅い筋ができていた。まだ出血は続いているらしく、血が傷口から溢れ出しては筋を伝い、指先からポタポタと紅い滴が落ちていく。思ったよりも深く切ってしまったらしい。コンクリートの地面に落ちた血は黒く滲んでシミのようになっていた。ルティは慌ててスカートのポケットから白いハンカチを取り出した。それをパティーの傷口に押し付けようとした。とっさに彼は身を引いた。

「いいよ、大丈夫だから。ハンカチが汚れちゃうし。」

「だめ! ちゃんと止血して!」

ルティが一喝した。その剣幕にパティーもダリアもびくりと身を震わせた。彼は申し訳なさそうにしながらしゃがみ、ハンカチを構えるルティへ怪我をした腕を差し出した。ルティは傷口にハンカチを当て、おもむろに自分の髪をくくっていた紅いリボンをほどいた。そのリボンをハンカチの上に巻いてしっかりと結んだ。

「はい。これでよし。」

「ありがとう、ルティ。ごめんね。」

パティーは立ち上がると、自分の腕を見た。真っ白のハンカチは、少しだけ血が滲んでいた。

「二人ともごめんね。ちょっとぼくは博物館のスタッフさんに報告してくるよ。

 ルティとダリアはこのまま見学して回ってて。」

彼は残念そうにしていた。ダリアはルティに采配を委ねた。ルティは少し考えたが、残り時間が少ないということもあり、それを承諾した。

「ルティ、ぼくの住所と電話番号を教えてあげるから、ノートに書いておいて。」

「え、なぜ? どうしたの?」

ルティは目をぱちくりさせた。

「この後、どうなるかわからないし、もう会えないかも知れないからね。

 ハンカチとリボンを返せないのは嫌だから。

でも、ぼくが小さな女の子の住所を訊くのは、ね、あんまりよくないんだよ。」

ルティは納得した。鞄からペンとノートを取り出して、彼の言う住所と電話番号をしっかりと書き留めた。彼は記載に誤りがないかどうかだけ確認すると、不思議の国のアリスの展示室から足早に退室していった。後にはルティとダリアだけが残されている。ダリアは秘密の通路に興味津々のようで、暗い穴の中をじっと覗き込んでいる。ルティも内心、気になってはいた。こういう隠し通路や隠し部屋といったものは、映画やドラマなど、空想の世界でしか目にしたことがない。そして、決まってそういったところでは何かしらが起こる。博物館に隠されていた地下への秘密通路。それはルティの好奇心、冒険心を大いにくすぐった。

「行ってみる?」

ダリアが訊いた。その言葉に、ルティの心は揺らぐ。もしここに両親がいたら、もしここにパティーがいたら、もしここに大人がいたら、きっとルティはこんなに揺らがなかっただろう。博物館の隠されていたところへ行く。それはいけないことだと、ルティは理解していた。だが、普段は抑圧されていたルティの願望や欲望はここに至って急激に膨れ上がってきていた。いまになって思い返せば、知らない人について行ってはいけないという両親の言いつけを無意識のうちに破ってしまっていた。ルティは、自分の心の中で膨らみ過ぎた風船がパチンと破裂したような感覚に陥った。行ってみたい。行ってしまえ。と、叫ぶ声が聞こえたような気がした。

「行ってみたいな。」

ついつい、無意識のうちに心の声は言葉になってこぼれ落ちた。

「うん、行ってみようよ!」

ダリアが元気に言った。その声に背中を押されて、ルティは階段を降りることに決めた。パティーがもしここへ戻って来たときのためのメッセージをノートに書き、そのページを破って階段の前に置くと、ゆっくりとコンクリートの階段へ一歩、足を下ろす。ルティは一歩、また一歩と暗い階段を注意深く降りて行った。

 その階段は思ったよりも短かった。十段もない、非常に短い階段だった。降り切ったときに立つ位置は玉座のちょうど真下くらいであろうか。空気はひんやりとしていてほこりっぽい。壁には蒼白い蛍光灯が光っていて、寂しい色を染みわたらせている。階段を降り終わると、目の前はすぐに壁となる。右を向けば比較的広い通路が伸びていた。その通路は階段を降りる向きとは反対方向に真っ直ぐ通じている。この通路はどうやら、玉座の後ろに聳え立つ壁のその奥へ通じているようだった。その薄暗い通路の終着点には、また階段があった。ルティとダリアは手を取り合って、黙したまま歩き続けた。階段に近くなると、両側の壁になにごとか黒いインクで文字が書かれ始めた。ルティは歩みを遅くした。それにダリアも歩調を合わせる。


 ――― たすけて ―――

 ――― わたしを みつけて ―――


主に、この二つであった。かすれて読めないものもある。ひときわ大きく書かれた黒いインクの前で、ルティは立ち止まった。ダリアと手が離れてしまったが、ダリアもルティの隣でその文字を見上げる。そのたった二つの悲痛ともとれる言葉がルティの胸に突き刺さった。不思議と、怖いとか気味が悪いとかそういうネガティブな気持ちは現れなかった。その文字は細く、そして丁寧に書かれていた。ルティが思っていた通り、こういった場所では何かが起こる。これはその前触れのような気がしてならなかった。ルティとダリアは一言も発さずにその文字を見つめていた。

 ルティはあるとき、ふとダリアへ視線を移した。彼女はその文字を見つめて、ちょっとだけ悲しそうな顔をしていた。だが、ルティの視線に気が付くと、その色を消した。

「なんだろうね。これ。誰かが閉じ込められちゃったのかな?」

ダリアが言った。

「わからない。わからないけど、なんか、悲しい気分になっちゃった。」

ルティはうつむいた。温度の低い光の色を照り返す地面と、自分の足が視界に映りこんだ。そのままで、ダリアの手を取った。彼女の手をきゅっと握るともう一度だけ顔を上げてその文章を見た。

「行ってみよう。」

そう言うと、ダリアの手を引いて先へ進もうとした。ダリアが手を離した。

「待って。ね、ルティ。わたしのリボン、使いなよ。」

ダリアは自分の胸元にいろどりを添えていた薄桃色のリボンをほどいてルティに差し出した。ルティは迷ったが、ダリアがとても優しい瞳をしていたのでその眼差しに甘え、笑んでシルクのように滑らかなリボンを受け取った。後ろで髪を一つにまとめて上げると、ダリアのリボンでくくる。ルティは少しだけ気分が落ち着いた。

「よく似合ってるよ。かわいいね。」

ダリアは優しく笑っている。ルティはお礼を言ってまたダリアの手を取り、先へと進み始めた。

階段を登ると、やはり蓋がしてあった。その部分は木が組んであった。やはり比較的大きく、自分たちが降りた秘密通路の入り口くらいの大きさがあった。下から思い切り押し上げようとするが、ルティ一人の力ではわずかにしか動かなかった。それを見たダリアはルティの横で同じようにして蓋を押し上げにかかった。そうすると、ようやく軋んだ音を立てて地上への出口が開いた。

 地上へ出たものの、そこは地下通路と同じ蒼白い寂しげな光が滲んでいた。地上に出た二人はまず、辺りを見回した。そこまで広い部屋ではなかった。正方形の部屋で、角と角のちょうど真ん中にある出入り口とおぼしきドアから真っ直ぐ進んだ壁の前に、この通路は位置していた。本館で見た展示室のように、壁際に押し付けられるようにしてガラスケースが並べられている。本館と違うところは、それらに白い布が被せられていて、中が全くうかがえないということだ。館内にはしんとした静寂が漂っていた。窓は無く、コンクリートが剥き出しになっており、総じて殺風景であった。どこか、湿っぽい匂いがした。

「ここは、なにの部屋なのかな。」

ルティは部屋を見回しながら言った。ダリアはわからないと答えた。ルティは一番近くにあった白い布の被せられたガラスケースの前に立った。布にはほこりが乗っており、そのほこりも長い年月を過ごしたのか少し黄ばんでいた。ルティは垂れた白い布の端をつまんでそっとめくり上げた。無機質なガラスケースの中には何も入れられていなかった。ルティはがっかりした。隣のガラスケースの布をダリアが同じようにめくり上げているが、そちらも空だった。二人はこの部屋のガラスケースを順番に調べていった。

二人は全てのガラスケースを調べ終えたが、収穫は何もなかった。二人は肩を落とすと、この部屋のただ一つの出入り口となっている木の扉へと進んだ。ルティがノブに手をかけて回した。中が錆びついているのか、引っかかったような感覚とともに金属の耳障りな摩擦音が短く鳴った。鍵はかかっていなかった。ノブをそのまま押すと軋んだ音を立てて、ドアは億劫そうに道を開ける。その先は通路だった。左右の壁には等間隔に扉があり、それぞれの扉の上にはプラスチックのプレートでアルファベットとナンバーが記されている。通り過ぎながら、そのプレートを何気なく確認する。一様に【B】が数字の頭に付いていた。通路に扉は四つあった。試しに【Bー3】と記されたドアを開けようとしてみたが、鍵がかかっていて開けることはできなかった。ルティはここが博物館の倉庫のような区域なのだなと思った。ルティとダリアは次の扉を開けた。


→ Side Pati


 パティーは不思議の国のアリスの展示室を出て、エントランスの壁の一点をじっと見つめていた。そこには別館の地図が貼られていた。誰も人がいないようなので、サービスカウンターや事務室などがないか探していたのだ。だが、なかなか見つけ出すことができないでいた。一階部分をしらみつぶしに探し、次の二階部分に目を通し始めていた。

「なんか、一人になったら薄気味悪くなってきたなあ。」

パティーはつぶやいた。少しでも、なにか音が欲しかった。一人になった途端、この静けさが冷たく背筋に張り付くようになった。パティーはその後もぶつぶつと独り言を言いながら案内図に目を通す。だが、結局この案内図に欲している文字がないことを確認すると、小さく息を吐いて周囲を見渡した。やはり誰もいなかった。彼は心に焦燥を感じながら、仕方なく本館へ向かうことにした。だが、元来た桜の園の展示室への扉がどこかわからなくなってしまい、そのことが更に彼の焦燥を煽り立てる。

「迷ったのかい? それとも、迷っているのかい?」

冷たい蒼色の声がした。振り返るとそこにはダリアに非常によく似た人物が立っていた。短い白金色の髪、マカライトのように薄く滑らかな緑色をした瞳。胸元の淡い蒼色のリボン。ダリアの双子の兄、フォルミスだった。彼は冷やかな半眼でパティーを見上げている。

「ああ、きみはダリアのお兄さんの。」

「フォルミス。」

相変わらずフォルミスの口調は淡々としていて冷たかった。その口調と、何を考えているのかわからない表情に気圧されながらも、パティーは別館の出口を訊ねた。

「なんだ、ただ迷っただけか。それならあっちだよ。」

フォルミスはやはり、眉一つ動かさずにすぐ近くのドアを指さした。パティーはお礼を言ってすぐにそのドアの方へ行こうとした。三歩踏み出して、脚が止まった。フォルミスが問いかけた言葉が、どうも不思議に思えた。どこかへ歩き出したフォルミスをパティーは呼び止めた。彼はゆっくりと振り返った。

「さっきの、迷うとかどうとかって、どういうこと?」

フォルミスの表情が初めて変わった。微笑んだように思えたが、それはどうも冷笑のようだった。小さな子供の冷笑だというに、なぜか悪寒が走った。

「道が見つからなくてさ迷っているのか。それとも、選び取るべき道を迷っているのか。

 それを訊いたんだよ。どうも前者のようだったけれどね。それだけ。」

フォルミスはそういうと、またパティーに背を向けて歩き始めた。パティーは彼のことをつくづく不思議な子だなと思った。その小さな背中をしばし見つめると、彼も自身が向かうべき場所へと歩き始めた。

 まずは桜の園の部屋へと入る。部屋はなぜか葉巻の匂いが充満していた。テーブルのすぐ側にあるソファーではきちっとした身なりの老人が一人、うたた寝をしていた。黒いスーツのような服を着ていた。ここに来て、フォルミス以外の人間に初めて出逢った。彼はようやく安心した。その老人を少しの間だけ見ていた。まるで、桜の園の登場人物のようにそこにいた。その姿はまるでラネーフスカヤ夫人の召使いである老僕、フィールスのようだった。彼はフィールスと老人とを重ね合わせながら見ていた。やがて満足すると、次なる部屋へ向かった。

桜の園の展示室を出ると、開け放たれていたはずの十二人の怒れる男の展示室のドアが閉まっているのが目に入った。扉の隣には警官のような服を着た大柄な男が立っていた。パティーは首をかしげた。さっき通った時には全く気付かなかったが、こんなところにこのような精巧な作りの人形はあっただろうか。彼は疑問に思いながらも扉に近付いていった。

「待て! この部屋は立ち入り禁止だ!」

ドアノブに手をかけようと扉の前に立った瞬間、人形だと思っていた警官のような服の男に制止されてしまった。パティーはそのことに大いに驚いた。後ずさりし、その大男に視線を送る。

「立ち入り禁止って、なぜですか?」

パティーはおどおどと訊ねた。

「なぜって決まってるだろ。有罪か無罪かの議論と評決やってるからだよ。」

パティーは唖然とした。彼はこの通路を通らないとこの別館から出られないので通して欲しいと男に言ってみたが、断固として拒否された。パティーはイライラとしながら、その気を落ち着かせるように腕時計を見て時間を確認した。その針はちょうど、三時三〇分を少し過ぎたところだった。


 ――― 三時三〇分過ぎ ―――


時計が止まっていた。今朝起きてから昼過ぎ、さっきここで確認したときまでは確かにこの腕時計は時を刻んでいた。最後に見たときを境に壊れてしまったようだ。秒針も動いていない。彼は仕方なく目の前に立つ男に時間を確認した。男は至極めんどうくさそうに自身の右腕に巻き付けられた腕時計に視線を落とした。

「三時三〇分過ぎだ。」

パティーは耳を疑った。そして、それを認識すると背中に嫌な汗がじっとりと滲むのを感じた。そしてただならぬ異常を感じた。だが、確定してしまうには情報が少ない。

「ついでにもう一つ。いまこの中で評議されているのは息子が父を殺したっていう事件?

 そう、すごく変わった飛び出しナイフで上から心臓をグサリとやったっていう。」

パティーの心臓がうるさいくらいに鳴った。胸を打つその鼓動が相手にも聞こえてしまうのではないかと思えるくらい、パティーはその音を感じた。男は眉間にしわを寄せてパティーをにらんだ。

「なんで知ってんだ?」

パティーの嫌な、夢物語のような予想は見事に的中してしまった。曖昧な笑みで男の質問を誤魔化すと、パティーは桜の園の展示室へと戻った。部屋のソファーでは、相変わらずフィールスのような老人が眠っている。いや、おそらく彼はフィールスであろうとパティーは思った。まだ二つの展示室しか見ていないが、その二つの部屋は、その部屋が体現する世界観を現実のものとしてしまっていた。これがこの別館の、来館客を楽しませる特別なパフォーマンスなのかとも思ったが、来館した人間を次の部屋に通さないなど考えられないので、その仮定は瓦解した。未だ葉巻の濃い匂いが残る部屋で、パティーは現状を整理していた。

どこからともなく木に斧を入れる静かな音がこだました。作り物の窓からうかがえる桜の園の景色は、最初に見たときとは少し変わっていた。壁に描かれた絵であるはずなのに、桜の木が切り倒されている。いまも、遠くの方で木こりとおぼしき人物が桜の木に斧を入れていた。その音が聞こえてきていたのである。絵が動いて、絵の中から音が聞こえてきていたのである。木こりのかたわらには上等そうなコートを羽織った男が立っている。新たな桜の園の地主となったエルモライであろう。商人、ロパーヒンであろう。パティーは戦慄した。大慌てで部屋を飛び出してエントランスへと出た。

 パティーはそのまま走って、不思議の国のアリスの展示室へと向かった。不可思議な出来事の連続で信じられないことばかりだが、各展示室がその世界観を現実にし始めたということは、かなり危険な世界も現実になるということだ。ルティとダリアが心配だった。パティーはまず二人と別れた部屋を探すことに決めた。展示室の前で立ち止まると、まるでスパイのように壁に張り付き、そっと部屋の中の様子をうかがった。不思議の国のアリスの展示室はハートのクイーンの王宮が再現されていた。うかつに飛び込めばトランプの兵士に包囲され、クイーンの一声で首が飛んでしまう危険がある。それを避けるため、慎重を心掛けた。幸いにも、部屋には誰もいないようだった。それでもパティーは慎重に足を進める。先ほどここに来たときにはあちこちにいた個性豊かなキャラクターたちはいなくなっていた。玉座も、いまは誰も座っていない。玉座の後ろへの道を塞いでいた、横一列に並んだトランプの兵士たちも消え失せていた。もちろん、玉座の後ろにいた白いうさぎも姿を消していた。その代わり、隠し階段の前には、紙切れが一枚落ちている。彼はそれを拾い上げた。かわいらしい字で、ここから先に進むと書いてある。パティーはその字の主が誰なのかすぐにわかった。紙を折りたたんでジーンズのポケットに入れると、彼は薄暗い階段を降りて行った。


​​→ Side Rutti and Dahlia


 【B】と表記された部屋番号の扉のある通路を抜けると、そこは別館のエントランスによく似た空間が広がっていた。違うのは上の階へ続く階段がないことと、別館のエントランスに比べて狭いことだった。それ以外の構造は非常によく似ていた。ここも、蒼白い蛍光灯があちこちに光っていて、ここまでと同じように総じて暗い雰囲気だった。ここにきて、ルティは少しだけ恐怖し始めていた。それはいわゆる、お化け屋敷に入ったときのような漠然とした恐怖だった。その場の雰囲気から沸き上がった恐怖だった。引き返したいとは思わなかった。振り返って、自分たちが出てきたドアの上を見てみると【B】とプレートに書いてあった。やはり倉庫のような感じを受ける。

「ここ、博物館の倉庫なのかな?」

ルティが言った。

「そうみたいだね。なにか面白いものないかな?」

ダリアがエントランスの中央へと進んで行く。ルティもその後を追った。床は何も敷物が敷かれておらず、コンクリートが剥き出しになっていた。二人が歩みを進める度に、靴底と固いコンクリートがぶつかって密度の高い音が鳴った。エントランスはまるで迷宮のように、四方八方の壁にドアがあった。ドアと、コンクリートだけの空間だった。歓迎の意思はまったく感じられず、まるで墓穴の中のような冷やかさだった。窓もなく、自然の光は入ってこない。二人は適当に、近くのドアへと歩いて行った。

 そのドアの上にはプレートが取り付けてあった。そこには【D】と書かれていた。やはりこうしてアルファベットと番号を付けて管理しているのであろう。【D】のドアから壁を伝って辿り着く次のドアの上には【E】と書かれたプレート、その次は【F】だった。その次が、最初に自分たちが出てきた【B】だった。二人はこのエントランスにあるドアを全て見て回った。【B】を起点として右に回ってみると【B】【G】【H】【管理室】【I】【A】【C】【D】【E】【F】となっていた。ドアは全部で十あった。【B】以外は全て規則正しく並んでいるというのに【B】だけが、順番を無視して【A】の対角線上に位置しているというのがなんとも不思議だった。

「なんだか、たくさん部屋があるね。どこから行ってみる?」

ダリアが【I】と書かれたプレートを見上げながら言った。どこから見て回ろうとしても同じではないかとルティは思った。【B】の区域のドアには鍵がかかっていたし、こうして管理されているのできっと他の部屋も閉ざされているだろうと予測した。見て回るのならば、まずは管理室に行って鍵を探さなければならない。だがルティの心には次第に、戻った方がいいのではないかという気持ちが芽生えてきていた。それに、ここは立ち入ってはいけない場所だろうし、見つかればきっと大目玉を食らうことになるだろうという焦りもあった。

 ルティがもう戻ろうかと思い始めたときだった。彼女たち二人しかいないはずのエントランスに、何者かの足音が響いた。その音は小刻みで、音の主が走っているのがよくわかった。その音を認知した瞬間、ルティの心臓が強く胸を打ち始めた。頭の中では、どうしよう、どうしようとそのことばかりが回転した。ルティはとっさにダリアの手を取って、どこかへ身を隠そうとした。だが、だだっぴろいエントランスには死角になるようなところも、身を隠せる物陰もなかった。そうこうしているうちに、足音はエントランスに到達した。ルティはおそるおそるその方を見た。

「ルティ! ダリア!」

それと同時に知っている声が自分の名前を呼んだ。蒼い服に白っぽいジーンズ。パティーだった。その姿を認めて、ルティは張り詰めていた心を弛緩させた。彼はこちらに慌てた様子で駆けてきた。知っている、優しい顔ではなかった。

「パティー。どうしたの? 顔が怖いよ。」

「二人とも、信じられないかもしれないけど、落ち着いて聞いて。」

彼は荒い息を吐きながら、まくしたてるように二人と別れてから起こったことを次々に並べ立てた。展示室に再現された世界観が、そのまま現実に空想の人物もろとも出てきてしまったこと。出口に続く道の一つである十二人の怒れる男の展示室は、その物語の通り評決が出るまでは部屋に鍵がかけられ、それを守衛が警護していて出入り厳禁になっていること。そして、前回に腕時計を見た三時三〇分から、この別館の時間が止まっている可能性があるということ。

にわかには信じがたいことばかりだった。ルティは彼の話を聞きながら恐怖を募らせていた。もしかしたら自分たちはこのまま一生ここから出られないのではないかという最悪の想像までもがふつふつと浮かび上がってきた。お腹が空いて、喉が渇いて、少しずつ骨と皮だけになっていって、次第に身体が冷たくなって、苦しみながら徐々に死んでいく。そんな悪夢のような死を思ってしまった。ルティはもはや口も利けなかった。パティーはダリアに、他に出口はないのかと訊いた。ダリアは首を横に振った。

「出入口はあそこだけ。あの出入り口への通路はもう一つあるけど展示されてるのは、

 ハムレットとマクベスだからもっと通れないんじゃないかな。」

パティーはがっくりと気落ちしてしまった。ハムレット、マクベスはともにシェイクスピアの四大悲劇の一角となっている作品だ。そこに出てくるのは血なまぐさい惨事と、身体を鎧で固めた屈強な男たちだ。そんな中に飛び込んでいくことは危険すぎた。暗い顔をする二人を、ダリアは必死に鼓舞しようと明るく話を続けた。

「でも、諦めないで! こっち側にも出入り口がないかどうか、探してみようよ!

 もしかしたら、外に出られる出入り口が見つかるかも知れないよ?」

彼女の話に、パティーは姿勢を正してしゃんと立つと、自分の顔を両手でパンと左右から挟み打って気合を入れた。

「そうだね! よし、探してみよう。」

ダリアが塞ぎ込むルティの両手を取って、エメラルドのような瞳で彼女を見つめた。

「ルティ。大丈夫。絶対に出られるから! 一緒にここから出ようね!」

ルティは涙を堪えて深くうなずいた。パティーはルティの頭を優しく撫でてやった。

 ダリアはパティーに、このエントランスのような場所の壁に見える扉について説明した。それから、ここへ至る途中にあったアルファベットとナンバーの書かれた扉のこと、管理室と書かれた扉があることも伝えた。パティーはあごを撫でながら、それらの情報を咀嚼してしばらく考えていた。そして、まずは管理室へ行くことを二人に提案した。ルティもダリアも異論はなかった。パティーは二人にいくつか注意もした。まず、いま自分たちがいるところは異常なことになっているので、常に周囲に気を付けること。なにかあればすぐに逃げること。誰かを見つけたとしても、安易に近付いたり話しかけたりしないこと。それからパティーはなにか身を守るための武器になるものがあればいいなとも言った。パティーを先頭に、ルティとダリアが後ろに続いた。三人はまず、管理室へと向かった。





→第6幕へ続く

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