孤島の狂人に明日は来ない
千秋静
第1話
喫茶店のガラスの向こう側では、人の群れが何方向にも分かれて流れている。俺はガラスの内側からずっと人の流れを見ている。
ふと、自分の右足が小刻みに動いていることに気付いた。貧乏ゆすりが癖になったのはいつからだろう。仕事をしていた時にはこんな癖はなかった気がする。やはりクビになってからだろうか。
無職になってから貧乏ゆすり、舌打ち、独り言という妙な癖が出るようになってきた。ストレスが原因だということは病院になど行かなくても自分が一番よくわかっている。無職で孤独で貧乏という三重苦に襲われたら誰だってこれくらいの異常は出るだろう。こんな状況で常に心身ともに健全でいられる方がおかしいと思う。だから俺は正常なのだ。おかしいところなど何もない。
それに引き換え、ガラスの向こうのあいつらときたらどうだろう。へらへら笑っている奴、スマホを見ながらニンマリと顔を歪めている奴、楽しそうに会話をしている奴ら。あいつらは何がそんなに楽しいのだろう。そして楽しそうにしている姿をまわりに見せつけてどうしようというのか。
イライラする。他人の笑顔が俺を不愉快にしやがる。胸の中の真っ黒いものがごそごそ動いて落ち着かない。その真っ黒いものが今の俺を操って幸せな奴らを潰してやれと、嗾けて来る。俺はその囁きに逆らえないでいた。
紙コップの底に残っていたコーヒーをズズッと音を立てて飲み切って店を出た。今日は駅の構内を通って帰ることにした。朝からずっと降っていた雨は夕方ごろに止んだため、手に持っていた傘が邪魔に思えていたが、違う使い方でまた役に立つ時が来た。
駅の奥の方から目が不自由だと思われる白杖を突いた中年の男がこちらに向かって歩いてきているのだ。今は夕方五時という帰宅ラッシュが始まる時間帯で、駅の構内は人でごった返している。そんな中で、男の近くを歩く人々は男と少し距離を取ってぶつからないように気を付けながら歩いていた。
いい気なもんだ。まわりから大事にされて気遣ってもらえているその男を羨ましく思った。そして黒いものがまた動いた。
俺は男の正面から少しずれた位置で擦れ違えるように歩いていった。男は俺の存在に気付くことなく白杖を小刻みに動かしながら近づいてくる。まっすぐ前だけを見ている色付きの眼鏡をかけた男が俺の斜め正面にまで来たとき、俺は顔を前に向けたまま、目線だけを斜め下に向けて擦れ違いざまに男の白杖に傘の先を引っ掛けて滑らせてやった。男は
「あっ」
という声を上げてよろけた。
後ろを振り返っていないからその後男がどうなったのかはわからないが、転倒はしていないだろう。俺はヒヒッ、と声を出して笑って傘をゆるゆると振りながら駅を後にした。
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