ヘルツリバーシ

城山 藍潤

第1話プロローグ

――この世で「生」を実感する時はいつか。


 少年はそう深々と考え耽った。

 しかし、掘り下げてみても辿り着く答は曖昧で納得のいくものではなかった。


 母体から取り出され産声をあげた時。

 自我が芽生え理性を人並みに授かった時。

 五体満足の生活を心底実感した時。

 あくびをし、限界まで全身を伸ばした時。

 友人と喜怒哀楽を傍で共感した時。

 人類が夢見た前人未到の大業を成した時。


 どれも「間違い」ではないが「正解」ではない。

 どれも「確信」ではあるが「核心」ではない。

 少年は何度も繰り返し思考し、脳が擦りきれるほど練り直し、自分が想い描く結論が出るまで追究をやめなかった。


 否――やめることを許されなかった。


 少年はわざと、歯牙にもかけていない真実を前に路頭に迷う振りをした。そうしなければ無理だった。今にも途切れそうなこの自我を保ち続けることは。

 だがそれも一時の寄り縋りでしかない。

 少年が突き付けられた現実にどの真実も呆気なく壊された。


 静寂そのままの無音空間。

 鼻腔をひどく燻くすぶる鉄の香。

 赤黒く塗り潰された視界。

 右手に握られた鈍い光沢。


 幼い少年は全て理解し悟った。

 もう逃げることはできないのだと。

 もう自分を騙すのは無理なのだと。

 もう脳以外の神経細胞はとっくに気付いているのだと。

 もう結論を出すしか方法はないのだと。

 もうこの光景の前には己は無力なのだと。


 少年はこの意図も簡単な「問」に再度「答」を示した。


 この世で生を実感するときはいつだろうか。

 それは――目の前に無数の「死」が散らばっている時である。





「……ド…………」


 最後の息吹が何かを掴み静かに溶けた。

 冷ややかに映えた朧月おぼろづきが照らすのは巌いわおの如く積み上がった遺骸と、それを見下ろす幼き影が一つ。


「……ハァ……ハァハァ」


 少年はその手に持った血塗られた短剣を地へと滑り落とした。

 それは宙をほとんど回ることなく落ちていき血の溜池へと、その刀身を叩きつける。

 パシャンッと舞い上がった流動物は四方へと飛散し、そのほとんどを少年へと浴びせながらまた静かに同色の池へと身を隠した。

 緩慢かんまんに全身を滴り落ちていく半固形状のそれは、肌に擽るような感触を持ってして少年に語り掛けた。


 ――もうお前は戻れない。


 ――念願を叶え、殺ったんだ……もっと喜べよ。


  ――悪に染まった気分はどうだ?


 聞こえてくる筈のない声が。血の叫びが。

 咎めるように、感謝するように、少年の愚かさを祝福する。


「……コイツらが…………悪いんだ」


 少年は一歩。また一歩と後ずさった。

 幻聴の惑いを聞き流しながら。

 自分が正しい、何も間違ってなどいないと一心に貫いた。

 だが、この血塗られた大地が、服が、短剣が、そしてこの身体が己の選択の善し悪しを有耶無耶うやむやに突き付けてくる。

 このまま非を認めて楽になろうものなら、自分が自分で無くなる確固たる自信があった。

 だがら少年は、死しても否定しなければならない。


「ッ!!」


 少年はその場を背に、ひた走った。

 無我夢中でその未成熟な四肢ししを振り仰いだ。

 乱れる呼吸と生きた心臓の音だけを耳朶じだに留めて、一心不乱に前だけを見た。

 自分は今どこを目指し、どこを駆けているのかさえわからない。

 ただ、次々と芽生え出す感情を押さえ付けて、ひた走った。


「ハァハァ……ハァッうがっ!!」


 少年は足を縺もつれさせ盛大に地を這った。

 木の葉や木片が皮膚に突き刺さり、舞った土埃をその身に被る。

  その時、今になって少年は山を走っていたことに気が付いた。

 暗くボヤけた視界が、徐々に遠くを捉える。

 月下の元、木々の合間を縫う風が少年に森のざわめきを伝え、夜の静かなほとぼりは少年に多大な寂寞せきばくを促してくる。

 それは少年に再度、塞き止めていた何かを思い起こさせた。


「クッ……違う違う違う違う!!」


 立ち上がろうにも力が入らず関節が折れ、爪を立てようとも引っ掻ける場所まで腕が上がらない。

 身動きの取れない少年に残されたのは――孤独。


「違う……んだ――――――」


 押さえ付けていた感情が絶え間なく溢れだす。

 ホロリと少年の頬を一筋の涙が伝う。

 それからは容易だった。

 箍たがが外れたように、背負っていた雫が擦っても拭っても流れ出てきた。


 寂しい、悲しい、怖いのか。

 この感情が何なのか無知な少年にはまだわからない。

 それならば幼い子供なりに。

 惨めで憐れな自分の為に。

 理性を捨て、本能の赴くままに。

 たった今、出来ることをやろう。



「うぐ……う、うぁぁあああああああああ!!」



 少年は――泣いた。

 己の声が掠れるまでずっと。


 まだ夜は明けない。

 白にも黒にも馴染もうとしない鉛色の空は。

 その表情を変えず、ただ少年の慟哭どうこくを聞き続けていた。

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