輝くもの天より
びゅうびゅうと身を切るような冷たい空気が全身を叩く。
垂れた鼻水が長い尾を引いて宵闇の彼方に消えてゆく。
(寒い……死ぬ……死ぬ……)
恭太郎は超高層マンションの地上三十メートルの壁面にへばり付きながら、パートナーである女サンタが一定の距離を登るのを待っていた。
目指すは地上三十四メートルの十二階ベランダ。
二人は互いをザイルで繋ぎ、片方が登る時は片方が自らを固定点として位置を確保しながら少しずつ登っていた。
びゅおう、と一際強い風が吹く。
ぴぴぴ、と顔に冷たいものが張り付く。
『雪だ。恭太郎』
「ホワイトクリスマス……か」
『ハンドルが滑るぞ。注意しろ』
「東京で見る雪はこれが最期……かもな」
***
「登る? 壁を? 手と足で?」
「ベランダ伝いは目立ち過ぎる。東側の壁面を必要高度まで登り、その後ベランダ側に回り浸入するんだ」
エイトは恭太郎の体に分厚い幅広のナイロンベルトでできたハーネスを取り付けてながらそう説明する。
「あの僕……壁とかは登るもんじゃありませんって小さい頃お母さんが……」
ずい、とエイトはハンドルの付いた黒い円盤を差し出した。
「ここがハンドユニットのスイッチ。爪先のユニットのコントロールもこのハンドルでやる。こっちが爪先側のスイッチだ。間違うな。体重が掛かってるユニットの吸着を誤って解除すれば真っ逆様だぞ。青い光の点灯が吸着状態。赤い光が解除状態」
「つるっつるっのタイル壁だぞ。本当にくっつくのか?」
「ファンデルワールスの力は知っているか?」
「えっと……基礎化粧品?」
「分子間力の一種で、ヤモリも壁に張り付くのに利用している。このモデルは気圧差を利用した吸盤に比して、単位面積あたり約千三百倍の耐荷重がある。このユニット一つで九百キロ以上に耐える計算だ」
「すげえな」
「手を滑らせれば無意味だがな。民間に公開されてるのは、軍事・諜報の分野で使い古された手垢まみれの技術だけだ。君たちの認識より、時代はずっと進んでいる」
「いっそ自律型のアンドロイドにプレゼント配らせたら?」
「研究中だがもう少しだ。状況にイレギュラーが起きた時の対応が、AIでは極端になる傾向があってな。……これでよし」
更にエイトは、三メートル程のザイルで自分と恭太郎とを繋いだ。
「万一滑落が起きたら、まず滑落しなかった側がとにかく固定点に徹して二人分の荷重を支える。滑落した側は落ち着いて態勢を立て直し、自分で吸着できたら合図する」
「分かった」
「私からアタックする。合図をしたら登り始めてくれ」
「おう」
「そう気負うな。上がったら速さよりも冷静さだ。落ち着いて確実に。大丈夫。夜明けまではまだ二時間以上ある。間に合うよ」
「俺が落ちたら支えてくれよ」
「勿論だ。その為のパートナーだからな。行くぞ」
***
『大丈夫か恭太郎』
「寒い……死ぬ……手が」
『これが終わったら朝食を奢る。温かいスープを飲むんだ。この国には二十四時間営業のレストランがあるんだろ』
「日本円持ってるのかよ……」
『並みのスープなら五十杯は飲めるだけの金額をな。OK。君が登る番だ。さあ、登り切ってしまおう』
「こんちくしょおおおっっ!!!」
鉛のように重い右腕を捻るようにして持ち上げ、吹きさらしの壁にユニットを吸着させる。青のランプを確認し、左の爪先ユニットの吸着を解除、足を持ち上げて壁に当て、また爪先ユニットの吸着の電源を入れる。
追い詰められた破れかぶれと、これで終わりという目に見えるゴールに向かう力とで、彼はモリモリと壁を登って行った。
「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ……」
『良くやった。高さは十分だ。横に移動してベランダに近づけ』
「くおぁぉっっ……!」
『よし。そのままだ。一度ザイルを外すぞ。プレゼントを置いてくる。そのまま待機だ』
「俺は室内に入れないのか?」
『君はスニーキングの訓練を受けていない。リスクが高過ぎる。すぐ戻る。少しだけ堪えてくれ。あとは下りだ。行きよりずっと楽に行ける』
「……分かった。まあなんとかなりそうだ。最後にヘマすんなよ」
『君もな。雪が酷くなって来ている。重心を移す時、ハンドルの把握の確認を怠るな。滑落事故は下りの時の方が起きやすいんだ』
そう言うとエイトは忍者のような身のこなしでベランダの柵の向こう側に姿を消した。
握力の減衰をひしひしと感じながら、恭太郎は、ぽつりと呟いた。
「……壁登りの訓練だって受けちゃいないぜ」
五分程たっただろうか。
ひょい、と赤い服の人影がベランダの柵を越えて壁面に張り付いた。
『待たせた。降りるぞ』
「終わったのか? 終わったんだな?」
『まだだ。安全に状況を離脱するまでがミッションだ』
そう言いながらも、エイトの声もどこか、からりと弾んでいる。
『ザイルを寄越してくれ』
「あいよっ♪」
恭太郎は自分の腰から下がるザイルを手繰り寄せると、先端のカラビナ金具を手に取って隣に距離を寄せて来たエイトに手渡そうとした。
その瞬間──
【パシャッッ!】
眩しいフラッシュが二人を照らし出した。ベランダからだ。
恭太郎は思わずカラビナを取り落とした。そしてエイトが取り落としたのは、彼女自身だった。
ふわり、と彼女の体が細かい雪が舞う虚空に投げ出される。
フラッシュが蒼く焼き付いた視界の中で、恭太郎は必死に手を伸ばし、彼女の左手を捉えた。
が、くんっ
「ぐうぅっっっ……んがっ!!!」
みしっ、と腕全体が悲鳴を上げる。
自由落下の加速度で少しだけ増した彼女の体重を、恭太郎は片手でなんとか支えた。ぞわっ、と嫌な汗が背中を湿らせる。
恭太郎は、冷え切った彼女の冷たい手を力一杯に強く握り締めた。
「ママーっ、サンタの写真! サンタの写真とったよ〜っ!」
「馬鹿なこと言わないのっ。何時だと思ってるの? 早く寝なさい」
ベランダの内側からそんな会話が漏れ聞こえて来たが、必死に壁にぶら下がる二人は当然それどころではない。
「大丈夫か……エイト」
『すまない。恭太郎。最後の最後でヘマをやった』
「にしても……重いっ。いいから早く登って来てくれ」
『……手を離せ』
「はあっ⁉︎ バカ言ってねえで早く俺を登れ! 長くは持たねえっ!」
『このままでは君の左手がユニットから外れる。そうなったら君は自力で態勢を立て直せない。二人とも落ちる』
「るせえっ! 女一人と自分の身の上くらい支えて見せらぁっ! グズグズ言ってないで登れっエイトォッ!!!」
『私が落ちたら下は騒ぎになるかも知れない。君は逆に屋上まで上がり切って、西側の壁面から行け。西側には階段がある。階段の踊り場に入って階段で降りるんだ。自転車置場がある側ならカメラはない。地階のドアの鍵は内側からだけ開く。ハーネスは畳んで上着に隠して持ち帰れ。幸い君は普通の服装だ。君一人なら、逃げ切れる』
「ご免だねっ! 逃げるならお前も一緒だ! 絶対にッ!!!」
『サンタクロースは秘密厳守。私はこのボディを焼却処分する。テルミットI.A.S。焼夷痕以外はフレームも残らない。上手くすれば、焼夷痕も雪が隠してくれるだろう』
「ダメだっ! そんなの絶対にダメだっ!」
恭太郎のハンドルを握る左手はずるずると滑る。何度も握り直すが、どう考えても長くは持ちそうになかった。
「俺のせいなんだ! お前のそりが落ちたのは! 俺を振った女にやる筈だったプレゼントを放り投げたら、それをエンジンが吸い込んで……知らなかったんだよ! あんなとこをサンタがステルス機で飛んでるなんて誰が思う⁉︎ ご免、言い出せなくて! 俺がそりを落としたから……エイト、お前が……こんな目に……」
恭太郎は泣いていた。
『君を振った女がいるとは、驚きだ』
「民間人の女は、男を見る目が無くって……なっ……!」
『君のせいじゃない。誰のせいでもない単なる事故さ』
「でもっ……」
『だからこれから起きることに、君が責任を感じることはない。全くない』
「エイト……ダメだ……くっ、やめ……」
『恭太郎。君はいい奴だ。見掛けによらす賢く、度胸もあり、感情豊かで、そして何より……優しい』
「見掛けにっ……よらずは余計だっ……俺はまだ……くっ、スープを奢って……貰ってねえぞっ……!」
『今夜、一緒に仕事ができて良かったよ。君の部屋で、君が報酬に望んだ小さな奇跡。どうやら今夜の私には、その持ち合わせがないようだ』
「よせっっ! エイトッッ‼︎」
『メリークリスマス。相馬恭太郎。幸運を』
きらり、と冷たい光が弧を描く。その軌跡が恭太郎の手をなぞると、真っ赤な飛沫が風に舞った。エイトが浅く斬りつけたのだ。
手は、離れた。
「あ……」
ナイフを手に微笑むエイト。
その姿が、吹雪の闇の中に吸い込まれるように遠ざかる。
闇が彼女を飲み込んだ途端、遥か下方に、ぽっ、と明るい焔が灯った。
一際強い風が吹き抜ける。
愛すべきサンタクロースのコールサインを呼ぶ恭太郎の叫びは、吹雪の風を貫いてなおはっきりと、夜明け前の瑠璃の空に長く長く響き渡って行った。
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