第8話 浮かぶ瀬もあれ
兄上の驚愕の瞳にみつめられながら、私は静かに地に降りる。見上げる程の高さから見下ろせる位置まで、兄上はじっと目をそらされぬ。
どれくらいの時間が経ったのか定かでない。
ずいぶんゆっくりと、その時が過ぎたように。それとも一瞬のうちの出来事だったかのように。
私は、兄上の正面に、そっと降り立ったのだ。
兄上は私をがしりと抱き上げられて、テラスの掃き出し窓からリビングに入り、そのまま階段を駆け上がられた。兄上、私はまだ、お靴をはいたままです、兄上!
「お、お、お、おにい、ちゃんっ、に、にぃに」
身体が揺れて声がぶれる。何度呼びかけても、兄上はなんにもおっしゃらない。
「お父さん! お祖父ちゃんっ! いるっ?」
兄上は書庫の引戸をガンガンと叩いてから、お祖父様の書斎のドアを勢いよく開けられた。
お祖父様は窓辺のソファに座ったまま、驚いたお顔でこちらをご覧になっておられる。
書斎の隣の書庫から父上が顔を出された。
「柾樹、どうしたんだ? あ、瑞樹もか?」
「お父さん、良かった。ちょっと書斎に来て」
私は兄上に抱き上げられたまま、お祖父様の前まで運ばれた。
「柾樹どうした? 瑞樹、怪我でもしたか?」
少し慌てた声で父上がお尋ねになる。「瑞樹、どこか痛い? 足か?」私の顔を覗き込みながら足をさわって確かめてくださっている。
「ううん。けがないよ、痛いとこないよ」
私が首を振ってそう返事をすると、お祖父様がふうーっと息を吐いて立ち上がられた。
「そうか、よしよし。二人ともソファにお座り」
兄上が私を抱き上げたままソファに座られたので、父上が私のお靴を脱がしてくださる。お祖父様が新聞紙の上に揃えて置いてくださった。
「柾樹、ん? どうした? 何かあったの?」
お祖父様が、ソファの前にしゃがみ込んでゆっくりとお尋ねになると、兄上の身体が震え始めて、私をいっそう強く抱きしめてしまわれた。
「う、うう。うううぅ」
兄上が泣いておられる。
私は振りあおいで兄上のお顔を見上げた。
「にぃ、にぃに……」
お詫びせねば、兄上を泣かせて、悲しませて。
「ご、ごめんなざ、い、いゔぅうゔぅ」
詫びの言葉を口にしようとするのに、声にならない。私も大層悲しくなって、泣けてきた。
「ゔぐ、ぁああん、にぃにぃ、あゔぁああん」
「う、ゔぅうぅ、み、ずき、ゔぅう」
◇ ◇ ◇
息子達が二人で大泣きしている。瑞樹はともかく柾樹まで。どうしたんだ? 爺さんを見ると、流石の親父も首を傾げているようだ。少し落ち着くまで待つか。爺さんと目で示し合わせる。
爺さんが付いてくれているので二人を任せて、階下におしぼりでも取りに行くか。タオルで顔を拭くゼスチャーをすると、爺さんも頷いた。
柾樹の好きな甘い紅茶を淹れてやろう。瑞樹の好みは、あれだな。玄米茶か。渋い野郎だ。
今日はよしこさんも休みで、母さんと真弓も二人で出かけている。まあ、居ない方が良かったかもしれん。心配性だしな。三人とも。
タオルを絞って茶を淹れて書斎に戻ると、二人は少し落ち着いた様子でくっついて座っていた。
「ちょっと熱いぞ」
声をかけながら柾樹におしぼりを渡す。瑞樹はあれだな、ぐちゃぐちゃになってるな。おしぼりをはたいて少し冷ましながら拭いてやる。ずいぶん泣いたな。まだ少しえぐえぐ言ってやがる。
「お茶いるか? 熱いから気をつけて飲めよ」
紅茶のティーカップ二つと玄米茶の湯呑みを二つ、ローテーブルに置いてやる。
あ、瑞樹、迷いなく湯呑みに手を出した。やっぱり玄米茶か。渋い六歳児だ。
「瑞樹、フーフーしてね」
紅茶を飲みながら柾樹が声をかけてやっている。まったくいい兄貴だよなあ。
玄米茶をすすりながら、柾樹の話を待つ。
何かがあって、それですっ飛んで来たんだろ? 瑞樹を抱えて。
爺さんも静かにカップを傾けて待っている。
「あのね。聞いて。真面目な話をするから。」
柾樹がカップを置いて、俺と爺さんを見つめて言う。そして、腕を伸ばしてまた瑞樹をぎゅっと抱きしめた。慌てた瑞樹が湯呑みを置こうと焦っているので、受け取ってテーブルに置いてやる。
「さっき、庭でシュートしようと思って、ジャンプしたんだ」
「バスケットだね」
「うん」
柾樹はまた黙ってしまった。瑞樹が心配そうに柾樹を見上げている。
「ジャンプしたら、そのまま、あのね、うん」
「うん」
「そしたら、ふっと身体が軽くなったんだ」
「うん?」
「浮いたんだ」
「浮いたのか?」
「そう。やってみる」
柾樹は立ち上がった。
「にぃに、にぃに」
瑞樹が柾樹にまとわりついている。最近は『おにいちゃん』と呼んでるようだが、焦ると相変わらずの『にぃに』が出るな。
ドアの前のフローリングの所で振り返ってこちらを向いた。
「やってみる」
柾樹がトンと、床を蹴った。
◇ ◇ ◇
兄上がふわりと浮かんだ。
魔力の波が柔らかく広がる。見事だ。
天井まで浮かび上がって、そのまま背中を天井に付けて止まった。
「ま、柾樹、降りて来れるか?」
お祖父様が兄上の下で手を伸ばしてお声をかけておられる。
「あれ? なんか、降りられない。さっきは降りれたのに」
「柾樹! 待ってろ! 動くなよ!」
父上が椅子を持って駆けて来られた。椅子に乗って兄上を下に降ろそうと抱えられる。ああ、父上、だめです、それでは、だめだと思います。
「なんだこれは? 体重が感じられない。風船のようだ……」
父上が兄上を降ろそうと抱えられるが、兄上はふわふわと浮き上がってしまう。
「柾樹、大丈夫か?」
「うん、なんともないんだけど、なんか、降りられない。あ、あ、あれ?」
どうする? 呪文で降ろせるが、どうする?
呪文の説明をいかにする?
呪文は無理か。無理だ。
迎えに行こう。うむ。その方がまだ。
◇ ◇ ◇
「瑞樹!?」
柾樹の声で振り向くと、瑞樹がふわりと浮かんで天井に張り付いている柾樹へと近づいて来た。
「み、瑞くん?」
爺さんの声も震える。俺はもう声も出せない。
「にぃに!」
すいーっと俺の背後を廻り込んだ瑞樹が柾樹の手を取る。なんだ、これは? どういう?
「にぃに、手を繋いで。ゆっくり降りよう」
「あ、ああ、あ、瑞樹……」
「にぃに、さっきと反対。ゆっくり波を収めて、鎮めて。床に錨を降ろして」
「イカリ……こう、かな?」
「そう上手! そのまま巻きあげて、ゆっくり」
瑞樹が柾樹の手をとって、二人してゆっくりと下まで降りていく。
下で爺さんが二人を抱きとめている。
俺も椅子を飛び降り柾樹の体調をみてやる。
「大丈夫か? 苦しくないか?」
熱は無いな。
顔色は……青いか。俺もだ、きっと。
「瑞樹、ありがとう」
柾樹が瑞樹に抱きついている。
そうだ。瑞樹。
瑞樹、いったい、どういうことだ。これは。
瑞樹は、なんともいえない、困り切ったような、そんな顔をして、俺たちを見上げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます