ミルフィーユ★ダイアリー
柊木まもる
4月6日「ウェルカム・フレッシャーズ」
(1)
朝6時30分。目覚ましがけたたましい音を立てる。
「はーい、今起きますよー。」
そう言いながら、彼女―木原小夜子は起きた。
「ああ、もうこんな時間か・・・さっき寝始めたばっかりなのに・・・。」
大きなあくびをしながら自室のカーテンを開ける。朝の陽ざしが、部屋に差し込む。
小夜子は私立つばめが丘中学高等学校に通う高校1年生である。一昨日から本物の女子高生になったわけなのだが、あまりその実感がない。
というのも、中高一貫校のため、通う学校もクラスメイトも去年と全く変わらないため、高校生になったという実感を持てないのだ。
いつもと同じ時間におき、いつもと同じ電車に乗って、いつもの学校へ通う日々が始まっただけ。
「小夜子、いつまで寝てるの!遅刻するわよ!」
「はーい」
彼女は洗面台に行き、顔を洗う。髪をとかし、結ってから自室に戻り、制服に着替える。
「おはよう、母さん。」
「おはよう。ご飯、奥の居間において置いたから食べといてね。」
「はーい。」
木原家の朝は早い。カフェを営んでいる小夜子の両親―恵美子と良平は朝5時には起きて、7時の開店に備える。小夜子が起きるころには両親はカフェの店員モードになっている。
開店に向け慌ただしくしている両親を見ながら、小夜子は母親が用意してくれた朝食を食べる。
目玉焼きに、トーストに、サラダに、コーヒーという、定番のメニューである。
電源が付いたTVからは、ニュースが流れていた。昨日国会でなんとかという議員が問題発言をしただの、ある芸能人の離婚騒動がどうなっただの、小夜子に直接関係のない、赤の他人の情報が発信されている。こんなのを見て何が楽しいのか、小夜子にはわからない。
「ごちそうさまでした。」
20分で朝食を済ませ、食器を洗う。春になって、水道の水も少しだけ温かくなった気がした。
「行ってきま~す。」
7時20分、勝手口から家を出た。
商店街を通り駅へと向かう。その間に、何人ものご近所さんに会う。
この商店街ではあまり子供はいないので、小夜子は割と珍しい部類の商店街の住人である。だから、たくさんの人が声をかけてくれるのだ。小夜子はそれがとてもうれしかった。
「さやちゃん、おはよう、いってらっしゃい!」
「あ、魚屋のおばさん!いってきま~す!」
こんな具合に、朝の挨拶を交わす。そうして、10分の駅までの道のりを歩ききる。
「おはよう、さや。」
駅で声をかけてきたのは幼馴染で同級生の江田友輝だった。
「おはよう、友輝くん。」
「今日は新入生歓迎会だな。あ~どうしよう、今から緊張してきた!」
「なに緊張してるのよ。定期演奏会じゃあるまいし。」
「だってクラスメイトとかが見てるんだよ。緊張するじゃんか!」
「そうかな~。」
「さやはいいよな、舞台慣れしてて。」
「そんなことないよ!緊張するときは緊張するもん!」
2人は室内楽部の部員だった。そして、小夜子はヴァイオリンで、友輝はピアノだった。2人は幼稚園の時からペアを組んで演奏をしていた。
電車が入線した。小夜子たちが乗るのは下り方面なので、上り方面と比べると空いてはいるが、昼間と比べると混んでいる。
「今年はどんな1年生が入部してくれるかな。なあ、さやはどんな1年生が欲しい?」
「そうね、私はチェロが弾ける子が欲しいかな。ヴィオラはヴァイオリンから転向させればいいし・・・。」
「いや、そういう現実的な話じゃなくてさ、こういう性格の子がいいとか、そういうことを聞いてるんだよ。」
「ああ、そういうこと!それなら優しい子であればどんな子でもいいよ!うちの部活の雰囲気になじむ子ならね!」
友輝は少し求めているのと違うんだよな~とか思いながら小夜子の答えを聞いていた。
学校の最寄り駅についた。最寄り駅は最近地下化されて、街の雰囲気も大きく変わった。小夜子たちはそこから路線バスに乗る。
2人は学校までの急行バスの乗り場に向かった。急行バスはつばめが丘に通う生徒しか乗らないため、実質彼らのスクールバスである。
「おはよう、さや!今日も友輝くんと一緒なんだ」
「駅が一緒だからね。幼馴染だし、部活も一緒だし。」
クラスメイトの二宮明日菜が声をかけてくる。彼女はバスケットボール部に所属する小夜子の友人である。
「でかい鞄だな。今日は試合かい?」
「そう。新入生歓迎会終了後、すぐに公開試合をするの。」
「試合で部活の真の姿を見せるってことかい?かっこいいねー。」
「友輝くんも来る?」
「僕はいいや。運動苦手だし。」
「かなづちだしね~」
「人間魚じゃないんだし、別に泳げなくたっていいじゃないか!」
「さや、友輝くんと船旅デートしないほうがいいよ~いざって時、助けてくれないよ!」
「明日菜やめてよそのいじり!私友輝くんと付き合っていないし!」
「僕もまっぴらごめんだね。さやと付き合うということはあり得ない、絶対に!」
「そういって2人とも、ほんとはお互いのこと気になってるんじゃないの~」
「なってない!」
2人が同時に返す。息ぴったりだ。
小夜子と友輝は中学の友人からこのようにお付き合いネタでいじられることが多いが、本当にお互いのことは気になっていなかった。お互いはあくまで幼馴染であり、彼氏・彼女になることはあり得なかった。幼いころから一緒にいすぎて、そういった感情すら抱かなくなってしまったのだ。
厳密に言えば、小夜子が小学校5年生の時に、友輝に対して好意を寄せたことがあり、友輝に告白をしたこともあった。しかし、友輝は小夜子と恋人関係になることは拒否した。その理由を小夜子は今でも覚えている。
『僕はさやとは幼馴染としてずっと一緒にいたいんだ。恋人関係を始めてしまったら、いつかそれが終わってしまう。僕たちはまだ子供だ。今始めた恋なんて、いつかはきっと冷めてしまう。そうしてお互いの関係が悪くなってしまうのが一番嫌なんだ。僕にとってさやは大切な存在。だから、僕は恋人にはならない。もし、20歳になっても僕に対して好意をもっていたら、またその時告白してほしい。』
これを聞いて小夜子は納得し、今の関係を維持することを選んだ。ただ、事情を知らない人間からすれば、2人は付き合っているようにも見えるので、いじられてしまう。最初は鬱陶しかったが、今ではそれも慣れた。
「ところでさー、2人は今年も新入生歓迎会で演奏するの?」
「するよ。」
友輝が答える
「なにやるの?」
「バルトークのルーマニア民俗舞曲。」
「へぇー。」
クラシックの知識がさっぱりな明日菜には何の曲かわからない。
ハンガリーの作曲家バルトークが作曲したルーマニア民俗舞曲(Sz.56)。アンコール曲としても頻繁に演奏される曲である。ピアノの小品の組曲で、手ごろな長さと親しみやすい旋律から人気の高い作品である。作曲者でピアニストでもあったバルトーク自身も、自分のコンサートでよく演奏したという。今回小夜子たちが演奏するのは、1926年に出版された、バルトークと親しかったヴァイオリニストのゾルターンによるヴァイオリンとピアノによる編曲版である。某TV番組で使用された曲ということもあり、親しみがあって面白いだろうということでこの曲を取り上げた。
「盛り上がる曲なの?」
「この曲の後半部分に早いパートがあるんだけど、その部分は盛り上がると思うよ。ここをいかに早くやるかで友輝くんと散々練習したんだから。」
今度は小夜子が答える。
「へぇー。」
「で、今度はさやがはしるようになってさ。」
「友輝くんがあおるからでしょ!」
「さやがはしるから僕が必死でおいついたんでしょ!」
「もう、朝から夫婦げんかしないの」
「ちがうっつうのー!」
そんなやりとりをしているうちに、バスは学校に到着した。
(2)
授業は午前中の4限までだった。午後は授業を休講して新入生歓迎会が行われる。
最後の授業が小夜子の大好きな世界史Bの授業だったこともあり、テンションが高かった。
お弁当をもって、友輝が待っている音楽室に向かう。お昼休みを利用して最後の合わせをする約束をしていたのだ。
音楽室からは友輝のピアノの音が聞こえる。授業が終わってから10分経っていた。
「ごめん!遅くなった!」
「また女子の面倒なやりとりがあったのかい?」
「まあね・・・。ほんと、女子って面倒な生き物よね。」
そういいながらヴァイオリンケースを開ける。
「先にご飯だべなよ。僕はなんか適当に曲弾いて待ってるからさ。」
「でも、50分しかないし、先に最後の合わせやっちゃおうよ。」
「2人で何回もやってる曲じゃないか。そんな合わせしなくたって・・・。」
「友輝くん緊張してるんでしょ?上がってミスでもしたらどうするのよ?」
「緊張はするけどへまはしないよ。逆に本番近いんだからみたいな雰囲気出される方がよっぽど緊張するよ。」
バルトークのルーマニア民俗舞曲は何回も本番で演奏したことのある曲だった。だから、2人にとっては特別何かをしなければならない曲ではなかったのだ。だが、小夜子が最後の合わせがしたいと言ってこのお昼休みに確認の合わせをやることになっていたのだ。
「とりあえず合わせしよ。」
「さやは大丈夫なのか?ご飯食べなくって。」
「大丈夫!早くやろ!」
小夜子がAの音を出す。友輝がピアノのAを鳴らした。
チューニングが終わり、小夜子が友輝に合図を送った。
2人の最後の合わせが始まった。
しっかりとした、重い足取りの中に情熱的な雰囲気を感じる第1曲、前曲とは対照的に軽くステップを踏むような軽快な第2曲、ヴァイオリンの高音が幻想的な雰囲気を醸し出す第3曲、東欧の寂しい冬のような雰囲気を感じる第4曲、それまでの曲とは全く違う、独特のリズムが聞いていて楽しい第5曲とさらにテンポの速い軽やかな第6曲と続いていく。最後の第6曲の再現部でさらにテンポを上げて、曲は劇的に幕を閉じる。
たった4分ちょっとの曲に、バルトークがルーマニアで拾った7つの舞曲が詰まっている、非常に面白い曲である。
最後の1音を小夜子が弾いて、合わせが終わった。
「本番、私のこと伴奏であおらないでね!これが私の限界値なんだから!」
「わかってるよ。さやの方こそ、走らないでくれよ!」
そこへ、室内楽部の後輩たちが入ってきた。
「あ、小夜子先輩に友輝先輩!お疲れ様です!」
「お疲れ様です!先輩たちのデュエット、かっこいいです!!」
やってきたのは3年生の羽佐田理恵と佐原知与だった。理恵はピアノ奏者で、知与はヴァイオリン奏者である。
小夜子と友輝のペアは学校内でも有名なペアだった。2人ともコンビネーションもよく、演奏技術もある。昨年参加した都内の室内楽コンクールでは準優勝にあたる銀賞を受賞したほどだ。その2人に憧れてこの部活に入部する者も少なくない。理恵と知与も2人に憧れて入部した生徒である。
「ありがとう。ただ、本番も同じように演奏できるかどうかわからないけど・・・。何せ友輝が緊張してるからさぁー。」
「さやが走んなければ何の問題もないよ!」
「先輩たちの演奏、聴いてますからね!頑張ってください!」
「ありがとう、理恵ちゃん。新入生獲得のためにも頑張らないとね!」
ひばりが丘は1学年が150人ほどしかいない。そんな中、たくさんの部活があるため、新入生獲得は各部同士の熾烈な争いとなる。音楽系の部活では吹奏楽部に軽音楽部、室内楽部の3つがあり、一番人気は軽音楽部だった。吹奏楽部も根強い人気がある。いかにこの2つの部活に人を取られないようにするのかがポイントだった。
どうしても中学生で、ひばりが丘の生徒で、ヴァイオリンをやっていて、かつ室内楽部に入ろうという生徒はなかなかいない。ヴァイオリンをやっていても、教室に通うために部活をやっている時間がないのだ。
「今年は何人入部してくれるんだろう・・・。」
「去年よりは多く入部してほしいね。」
昨年の入部者は7名。室内楽部全体では18名。うち14名は中学生である。小夜子と友輝が入部して以降14名が入部している。つまり、それまではかなりの弱小部活だったのである。顧問の富岡先生も、2人の入部をきっかけに、室内楽部を盛り上げてきた。それだけ2人の演奏が多くの人を動かしたのである。
そこへ、顧問の富岡先生がやってきた。
「おお、木原に江田。お疲れ様。」
「先生、こんにちは。」
「今年も頼むぞ~。せっかくここまで盛り上げたんだ。もっと部員を増やして、本当の室内楽部にしないとな。木原、部長として頼むぞ。」
「はい、先生。」
室内楽部には5年生がいない。なので、今年は4年生の小夜子が部長を務めている。
「今年は何を演奏するんだ?」
「バルトークのルーマニア民俗舞曲です。アンコールでモンティのチャールダッシュも用意はしていますが、生徒会がいいと言ってくれるか・・・。」
「そうだな。最近の“成り上がり”部活だからな、うちは。でも、生徒が盛り上がっていれば、一曲ぐらいは余分にやらせてくれるだろ。チャールダッシュなら4分程度だろ?」
「ええ、ただバルトークも4分ですが・・・。」
新入生歓迎会のパフォーマンス時間は各部活4分と決まっていた。ただ、ダンス部や吹奏楽部といった人気部活はちゃっかり10分くらいやってたりするのだ。生徒会が黙認すれば許されるのだ。
「とにかく頑張ります!先生と私たちで、廃部寸前だったこの部活を立て直してきました!今年また10名程度入れば、廃部の危機に陥ることはなくなると思います!」
小夜子は背筋をピンと伸ばして富岡先生に向かってこう宣言した。
「頼もしいぞ木原!その意気だな!本番、がんばれよ!先生はこの後定例の職員会議があるのでそれに行ってくる。本番には間に合うと思うがな。」
「はい、先生!」
そう言って富岡先生は音楽室を出た。
本番は10番目。歓迎会自体は13時半に始まる。室内楽部の出番は14時10分だった。
(3)
新入生歓迎会は校内の、ひばりホールで行われる。
ひばりホールは一般的な学校でいう講堂みたいな位置づけにあたる施設だった。規模の小さい市民会館の様な構造になっており、各式典や集会はここで行われる。ホールの固定椅子はコンサートホールみたく階段状になっている。ちょっとしたコンサートを行うこともできるほどの本格的な施設だ。
歓迎会のトップバッターは、盛り上がり役として軽音楽部が務める。
歓迎会は前後半に分かれており、前半にダンス部を除く発表系の部活が行い、後半は文芸部や生物部といった何かパフォーマンスを実際に行わずに、映像で紹介する部活動が割り当てられる。そして、締めはダンス部である。
室内楽部の本番まであと10分。小夜子と友輝は舞台裏で待機していた。
「すごいわね、在校生の盛り上がりようが。」
「ああ。“新入生を歓迎する会”なのに、“在校生がハイテンションになる会”になってるな。」
「気持ちはわかるけどね。」
「僕たちがこの歓迎会に参加した時も在校生の盛り上がり様に驚いたけどな。」
室内楽部ではピアノを使うため、その用意の時間が1分ほど設けられている。その間に少し在校生のテンションが下がってくれればいいけど、と友輝は思っていた。
前の部活の発表が終わった。舞台裏にその前の部活の、ジャグリング部のメンバーがやってきた。
「次ね。」
「ああ、がんばろね、さや。」
2人の拳を合わせる。
「では室内楽部さ~ん、どうぞ~。」
生徒会の係の生徒の声が聞こえた。
2人が舞台に上がると大きな歓声が上がった。
2人のペアが有名となったのは、小夜子たちが1年生の時の文化祭で発表を行ったときからだった。クラシック好きだった校長先生が、2人の演奏を聴いて感動し、文化祭の閉会式で、その年の文化祭で最も素晴らしかった発表団体に贈られる校長賞を贈ったのだ。そして、校長先生のリクエストで、閉会式で演奏を行った。閉会式でパフォーマンスを行うことは例年ではありえないことであったため、校内で話題となったのだ。
その後、コンクールで銀賞を受賞した際には再び校内で大きな話題となり、2人の実力が広く知られるようになったのだ。
「さや~!がんばれ~!」
同じクラスの女子連中の黄色い声が小夜子に聞こえた。
「すごいな・・・。クラシックの演奏なんだから、そういうのは要らないのに・・・。」
友輝が呆れたような声で小夜子に言う。
「まぁまぁ。正式なコンサートじゃないんだし。いいじゃない。」
そう言いながら、2人はピアノの前に並び、お辞儀をした。
そして、友輝は椅子に座り、小夜子はヴァイオリンを構えた。
チューニングをする。そして、演奏を始めた。
演奏が始まると、ホールにいる生徒は皆、2人の世界へと吸い込まれるような感覚で演奏を聴いていた。これまでの盛り上がりが、まるで嘘だったかのように、静かに聴いていた。
2人の演奏には、それだけの力強さと迫力があった。
そして、第5曲に入ると、はじける様な軽やかなヴァイオリンのフレーズに皆が手拍子をする。会場が一気に盛り上がる。
演奏が終わると、2人に大きな拍手が送られた。立って拍手をしてくれている生徒もいる。
深々とお辞儀をする。
すると、アンコールを求める手拍子が始まった。
小夜子がちらっと進行責任者の生徒会のメンバーがいるブースを見る。
意外だったのは、生徒会からOKのサインが出たことだった。ついに、室内楽部が10分発表を黙認されたのである。
「やった!」
小夜子は小さな声でそうつぶやいた。
友輝に合図を送り、アンコール曲として用意していたモンティのチャールダッシュを演奏した。
このチャールダッシュも東欧の舞曲をもとにした曲で、ルーマニア民俗舞曲と似た雰囲気の曲だ。
曲が終わると、盛大な拍手が2人に送られた。深々とお辞儀をし、退場する。
新入生には大きなインパクトを与えることができたはず。あとは、音楽室に来てくれる新入生を待つのみである。
(3)
音楽室に戻ると、顧問の富岡先生がいた。
「お疲れ様~!いい演奏だったぞ!」
「先生、ありがとうございます!生徒会から黙認されたのが大きな収穫でしたね!」
「そうだな。ついに、廃部寸前だった室内楽部がここまでになったのだな・・・。」
富岡先生が、涙を流して喜んでいる。
「泣くほどのことかな・・・」
友輝が呆れたような顔をしていた。
富岡先生は音楽の先生で、室内楽部を立ち上げた本人である。自身はピアノ奏者で、クラシックができる部活が欲しいとこの部活を立ち上げた。立ち上げ当初は10名ほどが在籍していたが、新入部員を獲得することができず、立ち上げから4年で廃部の危機へ陥った。しかし、小夜子たちが入部したことで新入生の獲得に成功し、今に至る。そんな苦労を経験してきた富岡先生にとって、今回の出来事は大きな進歩だった。
「何人新入生が来ますかね?」
2年生のヴァイオリン奏者、吉田健が友輝に話しかける。彼にとっては初めての後輩が入ってくる。それだけに健はわくわくしていたのだ。
「どうだろうね。ヴァイオリンをやっていても、教室に通うのが大変とかでなかなか部活には入ってくれないからね・・・。僕たちの演奏を聴いて、入ってみたいと思ってくれればいいのだけど・・・。」
「きっと思いますよ!実績はまだあまりありませんが、今年コンクールとかに積極的に参加して実績を重ねていけば、きっと広く認知されますよ。」
「だといいんだけどね。僕たちも頑張らないと。」
その時だった。音楽室のドアをノックする音が聞こえた。
「はーい、今開けまーす」
小夜子がドアを開けると、そこにはヴァイオリンケースを持った、ツインテールが印象的な女の子が立っていた。
「えっと・・・入部希望の子・・・かな?」
おどおどした感じで立っていたその女の子に、おどおどと小夜子は声をかけた。
「は、はい!」
「楽器は・・・ヴァイオリン?だよね?」
「は、はい!」
「経験年数はどのくらいかな?」
「は、はい!経験年数は・・・」
最後の質問に答えない。友輝が女の子に声をかける。
「もしかして、初心者の子かな?」
「そ、そうなんです・・・。」
「でもヴァイオリン持ってるよ?」
「お母さんが使ってたとか、そんなのじゃないのかな?」
「なんでわかったんですか!?」
女の子が驚きの声を上げる。
「ケースが古びていたからね。どう見ても最近買ったとは思えない。だとすれば、中学入学を機に、ヴァイオリンを始めたいと思って、親御さんからもらったんじゃないのかな、と思ってね。」
「全くその通りです!」
「なるほどね~。とりあえず、中入って。」
小夜子はその女の子を音楽室に通す。そして、小夜子がそっと友輝に耳打ちする。
「初心者の子って・・・経験者が来てくれる方がいいんだけど・・・実績上げるためにも。」
「初心者だからって無下に帰ってください、ってのもひどいんじゃない?教えてあげる時間くらいはあるでしょ?」
小夜子たちはその女の子の正面に座った。
「で、さっき友輝が言った通り、中学を機にヴァイオリンを始めようと思って、この室内楽部に来たの?」
「はい。ひばりが丘に合格した時、校舎に室内楽部の受賞を祝う垂れ幕があるのを見て、ここだったら技術の高い先輩方に教えていただけるのではないかと思いまして。」
「ああ、あれね。」
「へぇー、それで興味持ってくれたんだね。ありがとう!クラシックは好きなの?」
「まあ、たしなむ程度ですかね。普通です。」
「なるほどね。何か、好きな曲とかある?」
「えっと・・・管弦楽曲で、ですか、それとも室内楽で、ですか?」
「まぁ、どっちでも。」
友輝は、この少女の瞳の奥がキラッと光ったのをなんとなく感じた。
「管弦楽曲であればメンデルスゾーンの交響曲第5番<宗教改革>が好きです!室内楽であれば、ラヴェルの弦楽四重奏です!」
「へぇー、ラヴェルの弦楽四重奏を知ってるんだ。」
友輝がなかなかマニアックな選曲をしてきたところに反応する。
「はい!2楽章のピッツで奏でられる部分が特に好きです。あの独特の響きが癖になりますね!」
「クラシックは結構聞きこんでるのかい?」
「えっと・・・月に3回はコンサート聴きに行く程度ですかね?」
「それって結構な頻度だよね」
小夜子たちですらそんなにコンサートにはいかない。
「じゃあクラシックに対する知識はかなりあるってことだね・・・。さや、これならいけると思うよ。」
「でも・・・。」
小夜子が懸念していることは友輝にも何となくわかっていた。
「えっとね、この室内楽部には割と経験年数の長い子が入部しているんだ。スタートラインが違うから、練習や乗れる本番の曲目、回数は他の子とはどうしても違ってきてしまうんだけど、それでも君は大丈夫かい?」
「はい!大丈夫です!先輩たちから技術を学べるだけでも、私はとてもうれしいです!なので、それは大丈夫です!」
「よし、さやからなにか彼女に確認しておきたいことはあるかい?」
「え、あーえっと・・・特にないかな・・・。」
「オッケー。じゃあ今日から君は室内楽部の仲間だ!よろしくね。」
友輝が女の子に手を差し出す。2人の間で硬い握手が交わされた。
「って、それ決めるの私の仕事なんだけど!!」
「じゃあ、この入部届けに名前書いて。」
「だから、友輝聞いているの!それ私の仕事!」
「新入生の前でそんなキーキー声を上げるんじゃない。怖がっちゃうだろ?」
「あんたがそうやって勝手にやるから、私がキーキー声を上げるの!」
「へぇー、三島紗枝音、っていうんだ。」
「はい。さえってよばれてます。」
「ほう、いい名前だね。なあ、さや。」
「・・・」
部長としてのプライドを傷つけられた小夜子は友輝の問いかけには答えなかった。
「ああ、そういえばぼくたちの自己紹介がまだだったね。」
そういって友輝は紗枝音の前に立った。
「僕は4年の江田友輝。ピアノ奏者です。そしてこちらが現部長の・・・」
「木原小夜子です!私が部長です!4年生のヴァイオリン奏者です。よろしくね!」
こうして、小夜子にとって、室内楽部にとっての、新しい1年が幕を開けたのである。
(4)
この日室内楽部を訪れたのは、初心者の紗枝音を含め6名だった。
「経験者が5名、初心者が1名。なかなかいい収穫だったじゃないか。」
「そうね。」
「いや~、明日からの部活動が楽しみだな~。あれ、さやはまだふてくされてるのかい?」
「別にっ!」
どうみてもふてくされていた。
「初心者の子が来てくれたのは本当にうれしいな。初心者でうちの部活に来るのはかなり勇気が必要だっただろうね。」
「彼女の期待を裏切らないように頑張らないといけないね、私たち。」
「ああ、そうだね。」
「私、うまく教えられるかな?初心者の子に教えるの初めてなんだけど・・・。」
「大丈夫だよ。ふてくされてない限りさやはやさしいし。だいたい、友達に勉強教えるのもうまいじゃないか。」
「そうかな~。」
「そうだよ。僕も力になれることがあれば何でもするよ。」
「ありがとう。でも、部長としてのプライドは傷つけないでね。くれぐれも!」
「はいはい、わかりましたよ。」
小夜子は、どうやって紗枝音に室内楽の楽しさ、合奏の楽しさ、ヴァイオリンの素晴らしさを伝えようかとわくわくしながら考えていた。
自分たちの演奏を聴いて、この部活で新しいことにチャレンジしたい、そう思ってくれた人がいた。そのことを感じられて、とても幸せな気分だった。
帰りの電車から見える夕日が、今日はいつも以上にきれいな夕日に見えた。
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