苔の洞門
山智 侑
1話
白木の長いカウンターの隅っこで、いつものジン・リッキーをちびちびと飲みながら、ぼんやりとスマホを撫でていたら、《苔の洞門 平成28年度も閉鎖 崩落の危険性》の文字が目に入ってきた。
クリックして読んだ記事によると、平成13年に起きた岩盤の崩落で既に洞門の中に入れなくなっており、せめて遠くから眺められるよう入り口に観覧台をこしらえてあったところに、昨年秋の豪雨がさらに止めを刺したらしい。
全然知らなかった。
へえ、今はあそこ、入れないんだ。
支笏湖畔へのドライブコースは、札幌からの程よい距離もあって、ガイドブックによく載っていたが、一般に知られている湖畔のスポットから、さらに車を走らせて千歳市側へ回ったところにある苔の洞門は、当時も観光客にはあまりメジャーではなかったと思う。
彼と二人で、駐車場にレンタカーを止めて、角が取れた石ころの多い上り道をしばらく歩いた。見た目より傾斜は強く、大ぶりな砂利をジャッ、ジャッと踏み鳴らしているうちに、普段運動をあまりしない私は息が上がってきた。確か、夕方だった。北海道特有のピンと冷たく乾いた大気を、ハアハア大きな音を立てて呼吸したのが耳に残っている。
両側を原生林にはさまれて15分ほども歩いただろうか、何度目かの緩やかなカーブの後、前方に黒みがかった岩が盛り上がってくるのが見えてきた。道はその間へとさらに続いていく。
艶のない岩(さっきの記事によれば、数百年前に樽前山の噴火で流れ出た溶結凝灰岩)だけだった入り口から進んでいくと、徐々に道の幅が狭くなり、右へ左へとうねるようになった。岩の壁も高くなってきた。
私たちが歩いているところを流れて行った膨大な水が、岩を少しずつ
さらに道幅が狭くなって、二人を包む空気の湿度がだんだん上がってきた。そして、次に曲がった瞬間、左の壁に、苔が現れた。
よく見ると、1種類ではない。
いろんな種類の葉が、かわるがわる場所を占めている。
それは、ちょっと、触ってはいけない神々しさを秘めていて、だから苔の
今までよりも、ゆっくりと歩みを進めた。苔はどんどん勢いを増し、やがて、10メートル近くなった左右の壁一面を覆うようになった。命ある生き物でありながら、まるで緑のコーデュロイのような光沢と密度だ。その周りに、苔たちの抱える湿り気を帯びた空気がひっそりと溜まっている。
二人とも、息を潜めて、さらに奥へと進んだ。
と、突然、私たちの前に巨大な岩が出現した。
両側の岩壁の間にすっぽりとはまり込んでいる、直径5メートル近くあるその岩は、なんと、地面から1メートルあまりも浮いていた。
どうすればこんなことになるのか。
突然、私の頭の中に、ルネ・マグリットの有名な絵「ピレネーの城」で、天空に浮いているあの大岩が浮かんだ。
晴れた青空を背景にした、シュルレアリスムの巨大な岩だ。
と、それまで私のすぐ横にいた彼が、急に前方に走り出し、その岩のそばまで行ってしゃがみこんだと思ったら、右肩にその岩の一番下のとんがったところを当ててこちらを向き、両手でその大岩を持ち上げるような格好をとってみせ、叫んだ。
「見て、見てー、アトラス」
……プッ、何やってんのよ、ハハ。
ギリシア神話で、ゼウスに敗れた巨人アトラスは、世界の西の果てで天空を支える役目を負わされた。この物語は、当時通っていた美術専門学校で、前の週に美術史の講義で聴いたばかりだった。
確かに、彼がその大岩を抱え支えている風に見える。
しかし、同じ専攻で、こうもインスピレーションが違うとは。
それにしても、なんて格好。
なんで、そんなに得意満面なの。
苔たちは今も同じように生しているんだろうか。
あの岩は、倒れたり、土砂に埋まったりしたんだろうか。それとも、まだあそこで、絶妙な均衡を保って、誰かが来るのを待っているんだろうか。
「すみません、マスター」
「はい、何でしょう」
「きれいな苔みたいに、深い緑色のカクテルって、ありますか」
「そうですね……ちょっと古いレシピですが、グリーン・フィールズなんていかがでしょう。ウォッカに緑茶風味のリキュールとミルクを入れてシェイクしたものです」
「それ、北海道らしいかも。じゃ、連れが来たら、それを二つお願いできますか」
「いつもは、モルト・ウィスキーなのに、よろしいのですか」
「いいんです。訳は、後で話します」
「かしこまりました」
もうすぐ、このバーのドアの鈴が揺れて、入ってくる。
今の私を支えてくれる、アトラスが。
苔の洞門 山智 侑 @YamachiYu
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