マンション管理人.com
おしょぶ~
第1話
小説「マンション管理人.com」
夏の終わり、日差しはもうすっかり夏のそれとは呼べないものだったが、それでも最後の力を振り絞るように強くそそいでいた。
「おい!雄介、お昼どうする?」
声をかけてきたのは、西島聡(にしじまさとし)だ。営業課の同期で、役職は同じ係長だ。
「ごめん、俺クライアントの連絡待ちだから今日は一人で行ってくれる?」
「あ、そう。どこ?」
「オハラ工業さん」
「雄介のお得意さんか。じゃ、しょうがないな」
「悪いな、また一緒に食べよう」
「じゃ、軽くラーメンでも行ってくるわ」
西島は背を向けたまま、右手を軽く上げて事務所を出て行った。
小笠原雄介(おがさわらゆうすけ)は求人広告の代理店の営業マンだ。今年、三十七歳でまだ独身だが焦りはない。と言うのも、地元の旧友達も会社の同僚も同年代の独身者が多いためだ。
係長と言っても部下はいない。この会社の役職は、課長までは前期の営業成績で決まる。
前期の営業成績の査定によって、今期も同じ役職を守れたもの、降格になったものと分かれる。昇格については、かなりの好成績と部長の推薦が必要だ。
そう、課長までは全員一営業マンで、真の上司と言うのは部長からと言う、大変営業色の濃い会社だ。
雄介はこの会社が気に入っていた。部下など持つのは御免こうむりたい質だ。
現在、係長で年収も六百六十万円あり、会社の独身寮に光熱費込みで月二万円で入居しており、経済的にはかなり楽な生活をしている。まさに、独身貴族そのものだ。
出身は神戸だが、転勤で広島県の福山市に来ている。事務所はJR福山駅からすぐにあり駅を挟んで反対側に社宅がある。事務所・駅・社宅この三角形がすべて徒歩五分以内に収まる生活をしており、実家の神戸より住み心地がいいくらいだ。
気がかりと言えばただ一つだ。両親の事だ。雄介は両親が歳をとってからの子供で、三十七歳の親にしては、母が七十七歳・父が七十六歳と高齢なのだ。
雄介には姉がいるが、歳が十三離れており今年五十歳になる。若くして嫁に嫁いだので、あまり付き合いがなく、兄弟だが年賀状のやり取りぐらいの仲で、近況はもっぱら両親から聞くぐらいだ。
なんでも、嫁いだ先の義理の父親が、寝たきりの生活になり介護が大変らしい。
それで、漠然とだが雄介も自分の両親がへばれば、どうなるか分かったものではないなと、少し心配しているのだ。
その予感めいた心配は当たってしまう。
十一月に向けての営業会議が終わり、雄介は会議室から出てきて喫茶コーナーに向かうところだった。
「小笠原さん!二番、菅野様と言う方からお電話です」
事務所一の美人である事務の御手洗京子(みたらいきょうこ)が声をかけた。
「はて?菅野さん」雄介は独り言を言いながら、受話器を上げた。
「お電話変わりました。営業の小笠原でございます」
「あ、お仕事中にすみません。私、お父様とお母様のケアマネジャーをしております菅野と申します」
ケアマネジャー…
「実はお父様には息子様には連絡しないでと言われておりましたが、限界と思い私の考えで、家にあった名刺を頼りに連絡させていただきました」
雄介は~もう嫌な予感しかしないな~と思いながらその菅野の話に耳を傾けた。
十月の終わり、雄介は有給を五日間申請して新幹線の車中にいた。前後の土日を合わせて九連休を組んだのだ。
社内カレンダー以外で九連休は始めての経験だ。しかし、この九日間でも問題は解決しないのは明白だった。
雄介は、窓から外を眺めながら、ここ二・三年実家に帰らず、電話でたまに父親と話すだけにしていたことを後悔していた。
ケアマネジャーの菅野の話によると、母の様子がおかしくなってすでに一年が経つらしい。まだ体は動くものの、言動・行動がかなりおかしいらしい。
父がめんどうを見ているが、困り果てて市の窓口に相談に行き、担当ケアマネージャーもつき、要介護認定も済んで母は要介護度3である。
その母は認知症の進行が早いうえに、歩くのも難しくなりつつあると菅野から伝えられ、雄介は母が長らく膝を痛めていたのを思い出した。父は雄介への配慮か、自分一人で十分と思ったのか、ケアマネージャーに息子への連絡はしないでくれとずっと言っていたらしい。
しかし此処にきて、どうやら父の様子もおかしいらしい。菅野は「もはやここまで」との思いで、父には言わずに雄介に連絡をしてきたと言うわけだ。
福山から西明石は新幹線で、一時間程でついてしまう距離だ。雄介の実家は兵庫県神戸市垂水区にあり、新神戸駅より西明石駅の方が便利だ。
西明石駅に降り立った雄介は、「こんなにすぐ着く距離なのに、ほったらかしにしすぎたな」とひとりごちし、歩を在来線の西明石駅に進めた。
雄介の実家はJR垂水駅からバスでおよそ十五分乗り、バス停からさらに十分ほど歩くので、神戸市内とは言え便利な場所ではない。
つい、不便さもあり帰省時には、毎回タクシーに乗ってしまう雄介だった。
実家は市営の集合住宅だ。所得により家賃が毎年上下するが、ここ十年ほどは上限に張り付いている。雄介は寮住まいで、転勤がいつあってもおかしくないので、住民票を実家に残したままにしているため、雄介の年収が加算され家賃が高止まりしている。
もちろん、雄介は自分のせいで上がっている家賃分は、仕送りしているので経済的に両親が困っている事はない。
「あ、運転手さんここで結構です」
雄介は実家がある八号棟の少し手前からタクシーを降りて、二階部分を遠目でしばらく眺めていた。こちら側から見えるのは、ベランダと父の部屋と、ダイニングキッチンだ。
まだ、陽は落ちていないが両方とも灯りがついていた。「ふぅ」雄介は一息ため息をついて歩き出した。
建物の正面へまわり、階段を二階に上がるとすぐ右手が玄関のドアだ。踊り場を右に曲がって、雄介は目を見張った。ドアに張り紙がいっぱい貼られているのだ。
真っ先に頭に浮かんだのが、借金取りの張り紙だがよく見ると母の字だ。
「しらない女の人は家にいれません」「私はだれも呼んでいません」「私は何処にも行きません」など6枚A4ほどの紙が貼られていた。
「なんやこれ!」雄介は大きな声で独り言を言って、玄関のドアのカギを開けて「ただいまー」と入って行った。
誰の返事もなく、左の方から洗濯機が回る音がしている以外静かだ。玄関にサンダルが二足あるので、おそらく両親は居るはずだ。
雄介は急いで家へ上がり、ダイニングから和室に入った。そこには雄介の知らない病院で使うようなベッドが置かれており、しらない老婆が寝ていた。
そのベッドの横に、後ろ姿からおそらく父だろうと思う男が、ベッドにもたれ掛かる形で寝ていた。
ならばこの知らない老婆は、そうは思いたくないが母だろうなと雄介は思った。老けたのは当然としても、顔つきと言うか人相まで変わってしまっているではないか。
父を起こすのもかわいそうなので、そのまま自分の部屋に入った。以前同居していた頃と変わらないままだ。父が掃除をしていてくれたのだろう。
雄介は自分の部屋で、今ある情報を頼りに頭の中を整理していた。母のあの様子だと今は歩けるらしいが、先はあやしい。菅野の話だと父の様子もこの頃おかしくなり始めている、となると先々はW介護がまっていると言う事だ。
姉には頼れないだろう。よくしてもらえて、お金を送ってもらえるぐらいと考えていた方が賢明だ。仕事は続けられるだろうか?おそらく事情を話せば神戸支店への転勤希望は通るだろうが…
「雄介か?」父の声がした。すぐ自分の部屋を出てリビングに向かった。
起きて、玄関の靴と荷物を見て気が付いたのだろう、父がリビングに立っていた。
「ただいま」
「おう、おかえり久しぶりやな。元気か?」
「俺は大丈夫。そっちはどう?」
リビングのテーブルにお互い座りながら話す。見た感じ父は元気そうで、二年ほど前とさほど変わらないように見える。父は問題なさそうだなと雄介は思った。
「なんや、今日は出張か?」
「いや、ケアマネージャーの菅野さんから、かあさんの調子が悪いと聞いてさ、一週間休みがもらえたから、様子を見に帰ってきた」
「そうか、あのおばはんには黙っとくよう言うたのにな」
「まぁまぁ、菅野さんも心配してくれているんだよ。それにおばはんとか言ったらダメだよ。」
「けっ、お茶でも飲むか」
「いや、ビール飲むわ」
「そうか、まぁ好きにせいや。じゃ、一週間ほど泊りやな」
「ああ」
父は立ち上がり、母のベッドへ向かった。おそらく母を起こして俺が帰って来た事を伝えるつもりだろう。
「ああ、父さん、起こさなくていいよ。自然に起きた時に挨拶するわ」
「そうか」父は目を細めて、そう言うと自分の部屋へ入っていった。
次の日曜日、雄介は目が覚めると天井がいつもと違うのに驚いたが、すぐに実家に帰って来ている事を思い出した。
昨日は父と少し話したあと、冷蔵庫から缶ビールを出し、自分の部屋で駅で買った乾きもので一杯やりながら、どこかで寝てしまったらしい。
しかし、ちゃんとパジャマに着替えてベッドで寝ているところが、酔っ払いの不思議だ。着替えた覚えも、ベッドに入った覚えもない。
雄介はトイレのあと、洗面台で顔を洗いリビングに顔を出した。
「おはよう」
「おお、起きたか」父が言った。
ダイニングテーブルに車椅子のまま座っている、母であろう老婆の後ろ姿があった。
雄介は少し躊躇ったが、声のトーンをあげて、その後ろ姿の肩に手を置き声をかけた。「ただいま、雄介やで」
振り向いた老婆は、きょとんとした目で雄介を見ると、うんうんと頷いた。
「あんた、仕事は?」
「あぁ、ちょっと休暇をもらって帰ってきたわ」
「そうか…」
それから母は黙ってしまったが、会話のつじつまが合っていたので、少し安心する雄介だった。ただ、話し方に抑揚がないのは引っ掛かった。
母の朝食は、どうやら宅配の弁当が届いているようだ。そのお弁当のおかずを、父がスプーンで小さく刻みながら、母に食べさせている。
横目でその様子を見ながら、雄介もダイニングテーブルに座り、自分で淹れた珈琲をすすった。雄介は、新聞を見てはいたが、大きな字しか追っておらず、頭の中の半分で明日の月曜日にはケアマネージャー菅野と会って、詳しく話を聞かなければと考えていた。
おおかた母の食事は終わったようだ。
ふと思いついて残っているおかずを雄介は指でつまんでみた。「まず…」思わず口に出た感想だ。この味付けはないわと思ったが、別に父には言わなかった。
雄介はもし家に帰る事になったら、もう少しうまいものを母に食べさそうと思った。
父が片づけを済ませ、トイレにたった。雄介が後を引き継ぎ、返却するため弁当箱を洗おうとしたとき母が話し出した。
「雄介」
「うん?」
「スパーの前にパソコン教室があるやろ」
「あぁ、あるな。親父が通っているところやろ」
父は数年前から「ボケ防止や」と言って、趣味でパソコンを始めていた。なかなか気に入ったようで、近くのパソコン教室に通っている。雄介は良い事だなと建設的にとらえている。
「あそこな、とんでもないところやで!」
「え?どう言うこと」
「あそこは、全国的な売春組織や。お父さんも騙されている。今度警察に言いに行くつもりやから、あんたついて来てな」
「…」
あまりの事に、すぐ言葉が出てこなかった。母が完全に壊れているのを、認識した雄介だった。
父がトイレから帰ってきた。またダイニングテーブルに座り、母と話し始めた。「急に冷えてきたとか」とか「明日は燃えるゴミの日だとか」話していた。
先ほどの会話の事は話さず、横で珈琲を飲みながら母がすごいやきもち妬きだった事を思い出していた。
すごく前の話だが、父がバレンタインデーに会社の事務の女の子から、チョコレートをもらって帰ってきた。よくある話だ。もちろん義理チョコだろう。
だが、母はそれこそ泣きわめいて父を罵倒しチョコレートを窓からまき散らすように捨てた。その様子を雄介は、あきれ果てて見たものだ。
近所迷惑になるので、雄介がチョコレートを外に拾いに行き纏めてゴミ箱に捨てた。その様子を父がバツの悪そうな顔で見ていたのをよく覚えている。
認知症がひどくなると妄想するらしいが、母の父に対する嫉妬心が火をつけているのだろうか?父は、雄介から見ても、母を大切にしている主人ではなかったのだ。
稼いできたお金は全て渡すタイプではなく、「これぐらいで足りるやろ」と見込みで渡すが、それはかなり少な目だ。まぁ、大人になってから分かった事だが家計が足りないので仕方なく、母が働きに出て雄介は鍵っ子となって寂しい思いをしたが、父のそう言う振る舞いが原因だった。
父は不倫をしていたのかもしれないな、と雄介は思っているが事の真相は分からないし、今に至ってはどちらでもよかった。
ただ、若い頃に母がそうした疑いを持ちながら、父と暮らしていた心の中のブラックホールの様なものが、今の認知症の母の精神に影響しているかもしれないと雄介は思った。
月曜日、雄介は三ノ宮にいた。三宮は政令指定都市神戸の中心の街で、オフィス街も歓楽街もあり賑やかだ。ただ夜の引けは早く、終電が無くなればいっぺんに静かになる。
雄介は神戸が大好きだが、夜が早いのが気にいらない。大阪の南や、今働いている広島のえびす辺りは遅くまで楽しめる。福山から週末は広島までよく遊びに出かけた。
今日は、夕方からケアマネージャーの菅野と初めて会うことになっていた。午前中にでも、会って話を聞きたかったが中々忙しいらしい。夕方まで時間が空いたので気晴らしに三宮まで出てきたと言うわけだ。
「なつかしいなぁ」誰に言うではなく、背伸びをしながら雄介はJR三宮駅に降り立った。雄介に言わせると、神戸には神戸の匂いがあるらしい。
夕方から菅野と会う約束がなければ、昼酒といきたいところだが、駅の北側すぐにある「にしむら」と言う喫茶店でゆっくする事にした。
広島県福山支社に転勤する前は、雄介は神戸支社で主任として働いていた。その時、息抜きに来るのが決まってこの「にしむら」だった。フルサービスの喫茶店なので、珈琲一杯が六百五十円とけっして安くはないが、味的にも店の雰囲気も合わせて十分価値のある一杯と言うのが雄介の評だ。
雄介は学生時代、「さんちか」と言う神戸を代表する地下街にある「明和館」と言う珈琲専門店でアルバイトをしていた。そこで初めてサイフォン珈琲に出合い、珈琲豆に種類がある事を知った。
雄介は珈琲に夢中になった。初めてのバイト代で、サイフォン・アルコールランプ・手で回すミルを買った。豆の違いで味がどれほど変わるのか、ドリップ珈琲と比べたりとけっこうな趣味になっていた。
今はそこまでやってはいないが、珈琲好きは変わらない。「にしむら」のブレンドは酸味が強く雄介の好みに合っているのも、長く通っている理由だ。
雄介を驚かせたのは、三年来ない間に喫煙席が二階のずいぶん奥に追いやられ、しかもかなり狭くなっていた事だった。「たばこ吸いはついにここまで追いやられたか」とひとりごちし、苦笑しながらテーブルについた。
ブレンド珈琲を注文した雄介は、お店のサービス台まで自分で行き、そこからマッチを貰ってきた。珈琲と共に、ここのマッチがお気に入りだ。古臭いデザインと言えなくもないが、なんとなくお洒落を感じさせるマッチだ。
出て来た珈琲を口元に運び「あ~この香、このかおり」とひとりごちしながら、雄介の思考は今後の事に向けられた。今日の話がどんな内容だろうと、母の様子があれでは近々父一人では看れなくなる。
早めに手は打っておかないと…心の中で言った雄介はスマートホンの画面で営業部長、金沢 尚介(かなざわ なおすけ)のアドレスを探した。
金沢 尚介は雄介が務める福山支社の営業部長だ。事務方には課長職以上がいないので、実質支社のトップで、支社長代理も兼務している。俗にどぶ板営業と言われるビルの上から下まで企業のドアを叩き、名刺を集め、手にガムテープで受話器を巻き付けテレアポ取りをして広告を売ってきた叩き上げだ。
今はその会社も業界の上位の位置にあり、ホームページから広告の問い合わせが入る事も珍しくなく、こちらと親和性の高い企業リストがつくられてかなり営業活動が楽になっている。金沢は、まるで別の会社にいる錯覚まで起こしそうで、心中で苦笑する毎日だ。
セクハラだの、パワハラだの今まで普通の事だった事が通じない。完全週休二日で、本当に週二日休む営業マンがいる事が信じられない。中小企業の管理職は土曜日はまず出勤している。ならば、本当に商売敵が土曜日休みで営業をかけて行かないなら、営業をかける絶好のチャンスじゃないか!
金沢は先日の光景を思い出しながら、言葉にはせずに自分の席から見える男を睨みながら心中で罵倒した。あれは金曜の帰り間際だった。
「あーその件でしたら、来週の月曜日にお伺いします。ええ、あっそうですか」
「ええ、はい。いやぁ当社土日は休みでして…ええ、あぁそうですか。申し訳ございません。また機会がありましたら。」
「はい。失礼します」
「ふ~」大きくため息をついて、係長の西島は受話器を置いた。
「どうしたんだ?西島」
「いや、部長。先塚商店さんなんですけど、広告を考えているので来てくれと」
「それで?」
「お忙しいみたいで、土曜日しか時間がとれないらしくて…」
「ふん。それで?」
「?いや、それだけのことです」
「それで、お前商談を断ったのか?」
「断ったと言うか、月曜日でとお願いしたら断られました」
「…」
怒鳴りちらしたかった。罵倒したかった。営業の神髄をこれと言うぐらい思い知らせてやりたい。しかし、金沢は堪えた。時代が違うのだ。
実は金沢はそうは思っていない。「営業に時代もくそもあるか!」行きつけのスナックではママ相手に、とうとうと語った。
しかし、会社が時代が違うと言うのだ。最近は部長研修となると、ほとんどコンプライアンス関係だ。内部告発で、セクハラ・パワハラが認められたら一発降格だ。
金沢は、どぶ板営業でここまで上がってきた。年収は1000万円を超えている。つまらない事で、足をすくわれるわけにはいかない。
冷静に指導をするのだ。商談の大きさや、今後の発展ぐわいの予想から土曜日でも商談を受ける事も考え、後日他のアポや内部作業を調整して代休を取りなさいと…
プライベートの件でどうしても商談が無理なら、断る前にわたしに振りなさいと…
課長か部長のわたしが代わりに商談に行くからと…
冷静にそう言えば彼も「いやいやそんな!部長に行ってもらうなんてとんでもない!」と言うだろう。あんうんで、わたしの伝えたい事を理解してくれるだろう。
金沢は喫茶コーナーに西島を呼び冷静に話してきかせた。
西島は「わかりました。今後そのような事があれば部長に行って頂きます」と一礼して自分のデスクに戻っていった。
金沢のはらわたは煮えくり返っていた。西島のあの態度はなんだ!いや態度ではない。態度は悪くないが、考え方が営業向きではなさすぎるのだ。
実は福山支社の営業課長は金沢より年上で、今年を最後に早期退職制度の利用を選び退職が決まっている。彼はそろそろ潮時で良い判断だと金沢も納得している。
次の営業課長について人事担当役員から意見を聞かれる場面があった。金沢が意見したからと言ってそれで決まるわけではないが、ひとつの判断材料にはなるだろう。その時、金沢は西島と小笠原の両名を推薦した。
二名を推薦したのには理由がある。もうすぐ呉の営業所でもトップの空きが出ると噂があるからだ。営業所のトップは課長職が務める。そこにどちらかを滑り込ませれば、自分の息のかかった部下で中国地方を固める事が出来る。
そう、金沢はまだ上を狙っている。営業成績的にも、西島と小笠原は拮抗しており二名推薦でもなんらおかしくはない。
金沢は決めた。次の部長会議で正式に人事が話し合われる、西島を呉に小笠原を手元の課長におくように働きかけようと。なぁに、理由などどうとでも言える。
その考えがまとまると、口元が自然に緩んだ。そう決めてしまえば、目の前にいる西島を見ても腹が立たなくなってきた金沢だった。
さて、決済の書類でもと思った時スマートホンが震えた。「うん?小笠原からメールだ」金沢はひとりごちし、メールを開けた。
「お疲れ様です。いま有給を頂き帰省中ですが、ご相談したい事がございます。少し長い話となりますので、ご都合の良い時間をメールで教えて頂きますようお願いいたします。時間が来ましたら、わたしの方からお電話させて頂きます」
金沢は舌打ちした。こう言うメールはまず金沢にとって良い事があったためしがない、多くの部下を使ってきた経験則が、心にそう言うのだ。
金沢は「五分後で、いい」と短いメールを送った。
事務方に、喫茶コーナーにいる事と重要案件でなければ、掛かってくる電話は折り返しにするよう指示をだし、喫茶コーナーに向かった。
少し疲れを感じた金沢は、自動販売機で砂糖を追加した甘めの珈琲を買って席についた。珈琲を一口すすると、小笠原からの電話が入った。
「はい。うん、お疲れ様」
「いや、気にするな。うん… うん…」
金沢は聞き役に徹した。小笠原の話に真摯に耳を傾けた。さすが、営業のホープと金沢が認めるだけあり、小笠原の話は論点が纏まっており彼の現状が手に取るように理解で来た。
金沢は、野心家で策略家ではあったがあくまで仕事上の話で、基本的に人の良い人間だ。話を最後まで聞いて「大丈夫だ。俺が全て上手くやってやる。心配するな」と言い、詳しくは福山に帰った時に打ち合わせるとして電話を切った。
金沢は電話を切って宙を見ながら思わず出た苦笑いの後、「仕方ない、西島と上手くやっていくか」と少し大きめな声でひとりごちし、再び珈琲を口に運んだ。
「ふ~」雄介は通話を切ると自然にため息をついた。金沢との会話が終わったところだ。すっかり珈琲は冷めてしまったが、常温の珈琲も嫌いではない雄介だ。
一口飲んで一息つき、思う感覚より美味しく感じた。おそらく転勤希望の交渉がスムーズにいった事の安堵感がより珈琲を美味しくしたのだろう。味覚と言うのは不思議なものだ。
「大丈夫だ。俺が全て上手くやってやる。心配するな」金沢の言葉はありがたかった。金沢とは上手く付き合ってきたつもりだが、大きな頼みごとをするのは初めてだったので、正直どう出て来るかはわからなかった。
前もってのメールで真剣な内容である事が伝わっているとは言え、雄介の言う事を一切遮らず聞き役に徹してくれたので、話の腰を折られることなく現状と、考えられる対応策や自分の想いを上手く伝える事が出来た。
雄介は、金沢が部長になる前に支社で10年連続のトップセールスだったのは伊達ではないなと感じた。こうなって思えば、もう少し金沢の下で勉強したかったと思う雄介だった。
雄介は、会計を済ませてウインドウショッピングを楽しんだが、適当なところで三宮を後にし実家に帰った。
「ただいま」と雄介が帰ると、玄関に知らない靴があった。おそらくケアマネージャーの菅野のものだろう。
「あ、お帰りなさい。ちょっと時間が早く空きましたので、お父様とお話させて頂いておりました。初めまして、ケアマネージャーの菅野です」
いま居る状況説明と挨拶をまくしたてて話し、名刺を差し出してきた。
菅野典子(すがののりこ)と書いてあった。
「初めまして、長男の小笠原雄介です。今回はお気遣い頂いた電話をありがとうございます」名刺を受け取り、挨拶と礼を述べた。
「そんなとこで立ち話せんと、こっちへ座りや。」と、父が何故か半分怒ったような口調で中へ招く。二人で苦笑いして奥へ進んだ。
三人でダイニングテーブルに座り、母はベッドを半分起こして座っているような体制で寝ていた。しばしの沈黙があり、菅野が話し始めた。
両親がすぐ横にいるのに、遠慮なく二人の現在の病気の進行具合にまで、話が進んでいった。
菅野の話はこうだった。母は大変「拒否」が強く、今でも菅野以外を受け入れていなくヘルパーさんが来ると、大変怒って追い返そうとするらしい。雄介が驚いた玄関ドアの張り紙は、母がヘルパーさんを追い返すために貼ったらしい。
「なるほど、そう言うことか」と腑に落ちた雄介は先日母が言った、パソコン教室を全国的な売春組織だと言った件を菅野に話した。
母の頭の中では、全ての話が混ざっているらしい。ヘルパーさんが来ると母が怒り、帰らそうとするが、父が間に入りなだめてヘルパーさんに家事などをしてもらう。
まぁ当たり前の行動だが、母はある意味の嫉妬を覚えるのだろう。しかも、以前にパソコン教室の女の先生が親切に教えてくれると話した事があるらしい。
過去の不倫への疑いとパソコン教室の女先生とヘルパーさんが、母の中では一つの物語を作っているため、あのような張り紙をしたり怒ってヘルパーさんを追い返したりするらしい。雄介は自分の母ながら、もう普通の人ではないなと思った。
雄介は福山に向かう新幹線の中にいた。あっと言う間に過ぎた有給休暇期間だった。
月曜日に菅野から両親の現状の話を聞き、火曜日は菅野の勧めで銀行にもいった。実は母も父ももう何回となく、通帳やカードを紛失したり暗証番号を何回も入力ミスしたりして、カードが使用停止になったりしていた。
詳しく法定後見人の話も聞いたが、少々敷居が高いようだ。まずは、銀行に便宜を図ってもらって、その銀行のしかもその支店の窓口しか利用できないが、雄介が代理人になって預金の出し入れは可能のようだ。その方向で考える事にした。
雄介は窓の景色などまったく目に入れず、考えを巡らし続けた。ひとつの問題は父の認知症診断だ。以前に菅野がそれとなく父に打診したが、驚くほどの「拒否」があったとのことだった。父はまだ俗に言う「まだらボケ」の段階らしい。
つまり、調子のよい時は健常者と変わらない。そんな時に、自分がボケている可能性に触れられても、到底受け入れるわけがない。あの父が。
父は若くして起業し、それなりに稼いでいた時期があった。しかし一度手形で不渡りを掴まされてから坂を転げ落ちるように倒産まで一気に落ちた。
ただ父にはわずかばかり運が残っていたようで、取引先の社長さんが助けてくれて最終的に借金も残らず、サラリーマンとしてだがその社長さんの会社で職を得る事が出来て、定年まで勤め上げた。
苦しかったなりの、自分の人生観や哲学はもっているプライドの高い男だ。自分が認知症でボケたなどと言う現実を受け入れるわけがないと雄介は理解している。が、どうするか…
雄介は買っておいた缶ビールに手をつける。自分でも酒好きは否定しないが、今は呑まずにはやってられないと言うのが正直なところだ。
「ふ~」一口ビールの飲むと息がこぼれた。
一番気になるのはお金の事だ。雄介はそこそこ稼いではいるが、実は貯金らしきものはほとんどない。わりと贅沢に飲み食いをし、洋服を揃える生活を長く繰り返してきた。自分の収入が下がる事など頭の片隅にもなかった。
しかし、今後はどうだろう。うまく金沢が神戸への転勤の絵を描いてくれても、両親に介護の必要性が高まれば、勤め続けるのは難しいかもしれない。
頭の中で、今答えが出ない事だとわかっていても悪い想像だけが、ぐるぐるまわる。
「うん?」雄介のポケットの中のスマホが震えた。
取り出して画面を見ると、金沢からのメール着信だった。雄介は直ぐに開けて見た。
「お疲れ様。詳しくは社で話すが11月1日付けで、神戸支社第二営業課係長で着任と決まった」メールにはそれだけしか書いていなかった。金沢らしい。
「そうか、決まったか」雄介は誰に聞かすとなくそう言うと、ビールを一気に飲んだ。
第一話完
by おしょぶ~
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