忍び橋―――金沢・梅の橋

夏子

第1話

「金沢の冬の厳しさが加賀友禅を類稀な美しさにし、加賀の女を芯のあるいい女にするがやぞ」

金沢の浅野川の沿いにカウンターだけの小さな小料理屋を営んでいる幸はこの頃、昔聞いたお客さんの言葉を思い出す。雪の降らない九州の南国の街から、大学の進学のために金沢へやってきて10数年。雪が珍しくて楽しかったのは最初の数年で、ここ数年は冬の寒さが身に染みるようになった。


「ユキちゃん、またきれいになったがない」

馴染みの繊維問屋の社長がウンター越しにいう軽口をいう。

「南の方の生まれがんに、よほど金沢の水が合っとるんかね。それとも酒か男か」

九谷焼屋の店主も意味ありげにニヤリと笑い、着物に割烹着姿の衿から出ている幸の細く白いうなじに視線が落ちるのを感じた。三十を超え和服が似合う女になったと自分でも思わなくもない。

「ユキちゃんこんなに美人やさけ、男がほっとかんと思うんやけどなぁ」

幸は32になって今もまだ一度も結婚していなかった。

「だぁれも相手にしてくれんからや」

随分と板についた金沢弁で答える。

「そんならワシが―――」

下卑た笑いが起こった時、離れて一人で飲んでいた客がいきなり立ち上がって幸に真っすぐ向かっていった。

「それなら僕と付き合ってもらえませんか」

東京から転勤してきた大手出版社の営業をしているという小森だ。アルコールが入って赤い顔をしているが、顔は真剣そのものだった。あまりに真剣な小森の視線に場が静まった。が、次の瞬間、幸は吹き出した。

「やだぁ、小森さんたら飲み過ぎやよ」


加賀百万石といわれた城下町の風情が今なお息づく美しい金沢の街。大学を卒業したら故郷に帰るつもりだった幸が金沢にとどまっているのは、この街が好きなのももちろんある。が、付き合って10年になる隼人の存在が大きかった。


学生同士の合コンで知り合った隼人と付き合い始めたときは、お互い気軽な付き合いだった。しかし、隼人は将来の総理大臣と目される地元の名士を父親に持つ男だった。県議会議員になり、地元の有力者の娘と結婚し、跡取り息子としての階段を一段一段登っていく。そこに職業選択の自由も、婚姻の自由もなかった。隼人が結婚した時も、子どもが生まれたときも、幸は心が切り刻まれる思いをし、何度も別れ話が出ては消え、出ては消えて結局隼人と別れられないのだった。


幸の携帯が鳴った。隼人からだ。

「ごめん、今日は無理や」

カウンターの方が気になり、チラリと目をやる。幸の方を気にしている者はいない。

「承知しました。こちらは大丈夫ですのでご心配なく」

できるだけ業務的に聞こえるよう電話を切ったが、溜息が出る。


最後の客である小森が勘定を済ませ、店の小さな格子戸を開けると刺すような冷気が店の中に入り込んだ。

「今夜は積もりそうやなぁ」

「困るわ。店の前の雪掻き、本当に大変で」

金沢は雪の量が半端ではない。女手では半日かかっても雪掻きが終わらないのだ。

「雪掻きなら僕が手伝いに来ますよ。営業なので気楽なもんです」

「じゃあ積もったら甘えようかな」

幸が暖簾を外しながら笑う。「○日にまた来ます」といったら必ず顔を見せる小森なら、来るだろうなと思った。

「幸さん、さっきのこと、真剣に考えてくれませんか」

不意に小森が幸の手を握り、低い声で言った。

「東京から来たから頼りなく見えるでしょ。でも雪が降ったら来られない男よりずっと頼りになりますよ、僕」

分厚くて温かい手だった。


翌朝、街一面雪化粧となった。雪下駄を履き、着物の裾が濡れないよう気を付けながら店の前の浅野川にかかる梅の橋を渡ると、身を切るような寒さの中、川の中に人影を見付けた。寒釣りかと思ったが、よく見ると水面に反物が浮かんでいる。友禅流しだ。加賀友禅を作る工程で染めた反物ののりや余分な染料を洗い落とす、浅野川の友禅流しはかつて金沢の風物詩であった。しかし、今はほとんどの業者が工業団地に作られた人工の水流で洗っているそうで、金沢に暮らして10年になる幸も目にするのは初めてだ。


極上の黒留袖だけは浅野川の冷たい水で引き締めなければ、漆黒の深みが出ないのだと頑固一徹に友禅流しをする職人の噂は聞いたことがあった。幸は友禅流しをしている方に目を凝らしてみる。昨日の雪雲が嘘のように晴れて、水面に黒地の着物に紅や藍、紫の花々がくっきりと浮かび上がる。身も凍りそうな浅野川の冷たい水に揉まれた加賀友禅の反物は、まるで垢ぬけない娘から大人の女になったように妖しいほどに美しく艶やかだ。「金沢の冬の厳しさが加賀友禅を類稀な美しさにし、加賀の女性をいい女にする」という言葉が幸の胸に蘇る。

金沢は美しく離れがたい街だ。だが、南国生まれの女には金沢の冬も浅野川の水も冷たすぎるのかもしれない。幸は加賀美人にはなりきれない自分を思った。

「もう、そろそろ潮時かな」

幸は呟いて、儚げに揺れる反物を眺めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忍び橋―――金沢・梅の橋 夏子 @flowyumin2006

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ