(16)追わない男

(何なの何なの、あれはっ!! どこまで最低野郎なのよ、あいつ!! この一週間面白がって、放置してたのよね? その間、私がどれだけ悩んだと思ってるのよ! それにあれを持ってるって事は、四人全員グルって事よね!? もうどうしてくれようかしら!)

 すれ違う者達から、好奇の視線を受けている事にも気が付かないまま、美子は公園内を駆け抜けたが、地下鉄の駅へと下りる階段の所で、ふと我に返った。


「……バッグ」

 自分の迂闊さに気付いた瞬間、美子は脱力して思わずその場にしゃがみ込んでしまった。


(財布もカードも携帯も、全部バッグの中。戻って、あいつに返して貰わないと。でもそんなの絶対に嫌! したり顔で返してくれるとは思うけど、それと引き替えに何か大事な物を、捨てる事になる気がするんだもの!!)

「うぅ、どうしよう……。私の馬鹿」

 階段の上がり口の横で、美子が涙ぐみながら暫く悶々としていると、頭上から困惑気味の声が降ってきた。


「あの……、大丈夫ですか? 具合が悪いなら休める所にお連れするか、救急車を呼びますが。取り敢えず、立てそうですか?」

(え? この声、ひょっとして!?)

 どうやら美子が体調を崩したのかと勘違いした人間が声をかけてきたと分かったが、微かに記憶にある声と言い回しに、美子は勢い良く声のした方を振り仰いだ。


「やっぱり! あいつの後輩の柏木なんとか!!」

「げ!? 藤宮さん!?」

「ここで会ったが百年目! 千円で良いわ。お金を貸して!!」

 叫びながら勢い良く立ち上がった美子は、そのままの勢いで柏木に組み付いた。対する柏木はあれから二年以上経過した現在でも、女性恐怖症を完全に払拭できていないらしく、真っ青になりながら美子を振り払おうとする。


「は、はいぃ!? ちょっ、取り敢えずその手を放して下さい!!」

「何言ってるの、逃がさないわよ!? 女のプライドがかかっているんだから!」

「逃げませんから! お金も出しますから、お願いですから少し離れて下さい!!」

「そもそもこんな事になったのは、全面的にあの男のせいなのよ! 悪いけど、あの男の後輩に払う気遣いなんか無いわ!」

「気遣ってくれなくても良いですから! 離れて貰わないと財布が出せません!!」

 どちらも必死に言い募った二人は、そこで取り敢えず一歩分の距離を取った。そして逃げ腰の柏木が、恐る恐る美子に財布から取り出した千円札を手渡す。


「どうぞお使い下さい」

「ありがとう。取り乱してごめんなさい。すぐに返すから、連絡先を教えて貰えるかしら?」

「いえ、差し上げますから。それでは失礼します」

 そこで踵を返してさっさとその場を離れようとした柏木の腕を、美子ががっちりと捕まえた。


「ちょっと! ちゃんと返すって言ってるでしょう!? あの男の後輩に、借りは作らないわよ!」

「分かりました! 分かりましたから! 今すぐ連絡先を書きますから、お願いですから手を離して下さい!」

 殆ど泣きが入りかけていた柏木は、手早く名刺の裏に自宅の住所と電話番号を書き込むと、それを美子に押し付ける様にして脱兎の如く駆け去って行った。


「……悪い事をしたわ」

 その背中を見ながら一応反省した美子は、なるべく早く返金する事を心に誓いつつ、地下鉄の構内に向かって階段を下りて行った。


「一体何をやってるんだか」

「まともに拳を食らってたわね~」

 美子が走り去った後、秀明がベンチに広げたハンカチを畳んでいると、どこからともなく美実と淳が現れて、からかい混じりの声をかけてきた。しかし秀明は全く動じず、薄笑いしながら応じる。


「見せ物としては面白かっただろうな。見物料をよこせ」

「冗談はともかく、益々怒らせてどうする気だ? せっかく彼女の方から、連絡をくれたってのに」

 苦々しく言った淳だったが、秀明は淡々と言い返した。


「そんな事より、彼女がバッグを取りに戻って来るから、お前達はもう少し隠れてろ」

 それを聞いた美実が、肩を竦めて言い返す。

「そんな事は今更でしょう? 指輪を持ってる事をバラしたんだから、私達がグルだって事は美子姉さんに分かっちゃった筈だし」

「それもそうだな」

「でも姉さん、どんな顔して戻ってくるかしら? 怒りと気まずさで真っ赤になってるんじゃない?」

「悪い妹だ」

 淳と美実のそんな楽しげな会話に、秀明は苦笑しつつ時折交ざりながら聞いていたが、美子が立ち去って十分以上経過しても戻って来る気配が無い為、僅かに眉根を寄せた。


「おい、少し遅くないか?」

 そう言われて、思い出した様に腕時計で時間を確認した淳と美実も、怪訝な顔になる。


「う~ん、俺達まで一緒に居るのを見て、戻りにくいとか?」

「それで本格的に拗ねて、公園の入口辺りでうろうろしてるのかしら? ちょっとそこら辺を探して、姉さんを見付けたら引っ張って来るから、このままここで待ってて」

「了解」

 そして美実が小走りに駆け出して行き、出入口までの道とその周辺に加えて、念の為広い公園の半分程を二十分位かけて回ってみてから、元のベンチに戻ってみたが、そこには淳と美子のハンドバッグを手にした秀明しかいなかった。


「美子姉さん、どこにも居なかったんだけど……。戻って来て無いのよね?」

「そうだな」

 その頃には、秀明は不愉快そうな表情で物騒なオーラを周囲に撒き散らし始めており、長い付き合いでその危険性を知り抜いていた淳の表情は冴えなかった。しかしそこまでの認識は無かった美実は、後先考えずに軽口を叩く。


「おかしいわね~、近くに交番も無いし、まさか家まで歩いて帰るなんて、馬鹿な事を考えるとは思えないし。そうするとヒッチハイクとか? 姉さんもやるわね~」

 それを聞いた途端、秀明が無言で美実を睨んだ。その眼光の鋭さに、慌てて淳がその場を取り繕おうとする。


「こら、美実! 幾ら何でも、美子さんがそんな軽率な事をする筈無いだろうが!」

「そりゃあ、普段の姉さんだったらね。でも随分頭に血が上ってたみたいだし、『乗せてってやるから』とか言われて、ホイホイ男の車に乗っちゃったりして~」

 そう言って美実がくすくすと笑った為、秀明は完全に表情を消して立ち上がった。それを見た淳が秀明の両腕を捕らえつつ、小声で言い聞かせる。


「ちょっと待て、落ち着け! 美実に悪気は無いし、美子さんだってどうやってかは分からんが、帰宅してる最中だと思うから、こんな所で暴れるな!!」

 かなり本気の淳の訴えに、秀明が不気味な笑みを見せながら応じる。


「暴れる? おかしな事を言うな、淳。俺が誰を相手に暴れると?」

「取り敢えずの憂さ晴らしと美実の代わりに、俺をボコるつもりだろ!」

「分かってるなら抵抗するな」

 そんなやる気満々の台詞を聞いて、淳は盛大に舌打ちした。


「抵抗するに決まってるだろうが! そもそもそんなに美子さんの事を心配するなら、最初から怒らせずに自分で送っていけよ! 好きな女に会う度にちょっかい出しては怒らせて喜ぶなんて、今時の小学生以下だぞ!」

「はぁ?」

「……なんだよ、その間抜けな声と顔は」

 なにやら急に殺気が薄れた上、毒気を抜かれた表情になった秀明を、淳は呆気に取られて見やった。そんな中、どこかに電話をかけていた美実が、通話を終わらせてのんびりとした口調で二人に報告する。


「ねえ、美子姉さん、ついさっき家に帰ったらしいわ。留守番してる美幸に確認したから」

 それを耳にした男二人は、勢い良く美実に視線を向けた。


「は? どうやって帰ったんだ?」

「さあ、そこまでは。美幸も聞いてないみたいだし」

「お前の姉さんには、靴の底に札を仕込む習慣でもあるのか?」

「そんな変な習慣は無いわよ! ……え? 江原さん?」

 怪訝な顔の淳と憤慨気味の美実が言い合う中、秀明は無言のまま美実にハンドバッグを押し付け、石畳を歩き始めた。その背中に、淳が慌てて声をかける。


「あ、おい、秀明! どこに行く気だ?」

「帰る」

「……そうか。またな」

 振り返りもせず、素っ気なく立ち去っていく秀明を見送りながら、淳は隣の美実にボソッと呟いた。


「以前から、ひょっとしたらと思っていたんだがな」

「何が?」

「秀明の奴、本気でお前の姉さんに惚れてるっぽい」

 それを聞いた美実は、たちまち渋面になって確認を入れてきた。


「これまで、面白半分にちょっかい出してるだけかと思ってたわけ?」

「いや、そうじゃなくて……。あいつ恐らく、本気で惚れた腫れたって経験がこれまで皆無だったから、それを自覚していないと思う」

 困惑気味にそう語った淳の顔をしげしげと見上げた美実は、怪訝な顔になって問いを重ねた。


「つまり? 江原さんは本気で美子姉さんの事を好きだけど、自分では面白半分に、ちょっかいを出しているだけだと思ってる?」

「……多分」

 そこで真顔で顔を見合わせた二人は、少ししてから心底嫌そうに視線を逸らした。


「面倒くさいわね……」

「冗談じゃ無いよな」

 どう考えても姉と親友の色恋沙汰に巻き込まれるのが決定事項の二人は、これからの騒動を思って、揃って重い溜め息を吐いた。

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