半世紀の契約

篠原 皐月

第1章 賽(さい)は投げられた

(1)不本意な見合い

 とある休日の昼下がり。都内某高級ホテル、趣のある日本庭園に面した広々とした和室では、一組の男女の見合いが行われていた。

 当人達に加えて、付き添い兼仲介者として男性側の上司の妻、女性側の叔母を交えてのその席は、茶会席に準じた料理を食べつつ、傍目には順調に進行していった。……当人達が殆ど喋らず、付き添い人ばかりが会話に花を咲かせている以外には。


「そんな風に主人は白鳥さんを、とても買っておりますのよ?」

「優秀な成績を修めて東成大を卒業されただけでも素晴らしいのに、国家公務員試験も合格して官庁入りして前途洋々であられるなんて、本当に素晴らしいですわね」

「私も同感ですわ。加えて白鳥さんは有能な上に、大変眉目秀麗でいらして。主人とは月とスッポンですもの」

「まあ、少しご主人がお可哀想。確かに白鳥さんのように見た目涼やかと言う感じではありませんが、なかなか味わいのあるお顔をしていらっしゃる上に、ご主人程他人に存在感と信頼感を感じさせる方なんて、そうそういらっしゃいませんわよ?」

「ありがとうございます。美嘉よしかさんがそう言っていたと伝えたら、主人は泣いて喜びますわ。美嘉さんの審美眼の高さは、つとに有名ですもの」

「まあ、そんなを仰らないで。恥ずかしいですわ」


 途切れなく会話を続けつつ、合間に「おほほほほ」と高笑いしている叔母達を軽く横目で眺めた、一方の当事者である美子よしこは、溜め息を吐きたいのを懸命に堪えた。


(もう帰りたい……。美嘉よしか叔母さんの交友関係から持ち込まれた話だから、無碍に断るわけにはいかなくて了承してしまったけれど。やっぱり来るんじゃなかったわ)

 内心で愚痴を零した美子は、冒頭に「白鳥秀明」と紹介された後、供された膳を優雅な所作で平らげている、向かい側の男に目を向けた。


(政治家のイケメン三男坊で、官庁勤務のキャリアと言っても、農水省じゃなくて経産省勤務だもの。旭日食品の業務と直接係わり合う事柄は少ないし、結婚しても大したメリットは無いはずなのに。美嘉叔母さんったら、どうしてこんな縁持ち込んだのかしら?)

 隣に座る叔母の考えが全く読めず、美子は軽く眉根を寄せた。しかし相変わらず上機嫌で話し込んでいる彼女達を見て、ふと思い至る。


(単に叔母さんが面食いだったから、とか? そんな筈ないでしょう! 叔母さんに失礼じゃない!)

 思わずそんな事を考えて脱力しかかった美子だが、心の中で自分自身を叱咤し、なんとか気を取り直した。そこで向かい側からの視線を感じ、僅かに眉根を寄せる。


(だけどどうしてさっきから、あの人はずっと胡散臭い笑みで私を見ているのかしら?)

 その視線が不躾とまでは言えないことで、はっきりと口に出しの非難も出来ず、美子がモヤモヤしたものを胸の内に抱えていた。すると年長の女性二人が、我に返ったように二人に声をかけくる。


「あら、ごめんなさいね。当人そっちのけで、年寄り二人で盛り上がってしまって」

「うるさかったでしょう?」

「いえ、お二人の仲が良いのは伺っておりましたし、遠慮なさらずお話し下さい」

 美子は正直(寧ろ、最後まで二人だけでしゃべり倒していて)と思ったが、そんな事はおくびにも出さず、穏やかに微笑んでみせた。すると、それに賛同する声が上がる。


「そうですね。女性が楽しく歓談されているのに、それに水を差すような無粋な真似はしたくはありません」

「本当に白鳥さんは紳士ね。それに長年武道を嗜んでいらっしゃるそうで、姿勢がとてもお綺麗だし」

 上司の妻に感心したように褒められた白鳥は、恐縮した風情で軽く頭を下げる。


「恐れ入ります。空手歴は長いのですが、芸事などには疎いもので。休日にも気分転換に道場に出向く位ですから、父や兄達からは『とんだ不粋者だ』と、日々叱責を受けております」

 そう謙遜してみせた白鳥に、女性二人は真顔で力強く否定した。


「まあ、無粋だなんてとんでもない!」

「そうですわ! 健康的でよろしいじゃありませんか」

「ありがとうございます。そう言えば美子さんは私とは違って、色々芸事に秀でておられるようですが、普段気分転換にはどような事をされていますか?」

 ここで唐突にこちらに視線と話の矛先を向けてきた秀明に、美子は訳もなく苛ついた。


(ついさっきまで全然話しかけてこないで、人の事を散々観察していたくせに、何でここで話を振るのよ)

 美子は少々やさぐれた心境になりつつも、口調だけは穏やかに話し出す。


「私の気分転換の方法ですか? それはやはりサッ」

「茶道です! 美子はお茶を立てると、心が落ち着くと申しまして!」

 いきなり声高に会話に割り込んできた叔母の美嘉に、美子は軽く眉根を寄せたが、特に文句は言わずに話を続行させた。


「いえ、そうではなくシュー」

「習字もこの子は上手でして! 書道で五段の腕前なんですの。写経なんかもう、惚れ惚れするくらいの流麗な文字で。あれは精神統一にはもってこいですわね!」

「まあ、素敵! 私、自分の書く字に自信がないから、羨ましいわ」

「安心なさって。私もそうですから」

 無理やり自分が話そうとした内容を捻じ曲げた挙句、女二人で「おほほほほ」と高笑いに近い笑い声を上げた叔母に、美子は些か呆れた気味に囁く。


「美嘉叔母さん?」

 姪の何とも言えない表情を見た美嘉は、微妙に顔を引き攣らせた。そして小声で弁解してくる。


「あ、あのね、美子ちゃん。やっぱ物事には、言う順番とタイミングがあると思うの。幾らなんでも、最初から“あれ”はちょっと拙いんじゃないかしら?」

「……分かりました」

 諦めて溜息を吐いた美子と美嘉の様子を、座卓の向かい側から秀明は興味深そうに眺めていた。するとその隣から、今更ような声がかられる。


「それではここら辺で、少し余人を交えず、当人同士でお話ししてみては?」

 その提案に救われたように、嬉々として美嘉が腰を浮かせた。


「そうですわね。私達はロビーでお話ししていましょう」

「このお部屋はあと一時間は使えますし、お庭の散策も素敵ですわよ? 白鳥さん、美子さんを宜しくお願いしますね?」

「畏まりました」

「じゃあ、美子ちゃん。白鳥さんと色々お話ししてみて」

(お願い。あまり無茶な事はしないでね?)

 目は口ほどに物を言いとは良く言ったもので、叔母の表情から懇願する気配を読み取った美子は、溜め息を吐きたいのを堪えつつ穏やかに微笑んだ。


「はい、分かりました。後程、叔母さん達の所に参りますので」

 そうして年長者二人が部屋を出て行くと同時に室内は静寂に包まれ、窓の外に広がる庭園に設置されている鹿威しの音が、心地よく聞こえてきた。


「漸く、静かになりましたね」

「はぁ……」

 苦笑しながらそんな事を言ってきた秀明に、美子は曖昧に笑って頷く。


「あの方は悪い人ではないし、善意でやっているのは分かっていますが、いかんせん賑やか過ぎます」

「叔母も同様ですし、気にしてはおりません」

 相槌を打った美子だったが、何故か秀明がそれから無言になり、そ知らぬ顔で茶を飲んでいるのを見て次第に苛々してきた。

(何? この人はどうして黙ったまま、含み笑いで私を見ているわけ?)

 そのまま十分程が経過し、痺れを切らせた美子が声をかけてみた。


「あの……、どうして黙っていらっしゃるんですか?」

 その問いかけに、秀明はにやりと笑ってから、当然の如く答える。


「君が喋らないから」

「は?」

「君、俺と結婚する気は無いだろう?」

「はい」

「即答か」

 唐突に話題を変えたのに、些かも動揺せず真顔で返してきた美子に、秀明は面白そうに指摘してきた。


「周りに言えないだけで、他に好きな男がいるという感じではないし、そもそも結婚をそんなに意識しているわけでもない。だが適齢期を迎えた五人姉妹の長女であり、周りからさり気なく結婚を勧められている上に、身内である叔母からの紹介で断りきれなかった。違うかな?」

「違いませんが、『適齢期』云々の言葉は、セクハラ用語に認定される時代です。特に職場で口にされる場合は、気をつけた方が宜しいかと思われます」

「これは失礼」

 落ち着き払って指摘した美子に、秀明は笑いを堪える表情になって軽く頭を下げて謝罪した。すると今度は美子が、秀明の事情について推察してくる。


「あなたこそ、自分から声をかけなくても、あなたの気を引こうと喋りまくる女性達に囲まれる生活を送っておられそうですから、本気で見合いをするつもりは皆無でしょう? 直属の上司からの話だから、心証を悪くしない為に出ざるを得なかった。違いますか?」

「違わない。頭の回転は悪くなさそうだ。結構な事だな」

 そこで満足そうに微笑んだ秀明に、美子は思わず皮肉をぶつける。


「普段はそんなに頭の回転が悪い女性ばかり、相手にしていらっしゃるんですか?」

「そうだな。女性の回転は早いと思うが」

(見かけと肩書きだけの最低野郎ね、こいつ)

 心の中で美子がばっさり切り捨てると、秀明が気安く頼んできた。


「どうやらこちらから一々事情を説明しなくても分かってくれたようだし、君だって結婚したくない筈だから、この話は適当に理由を付けて君の方から断ってくれないか?」

 しかしその申し出に、美子は「はい、そうですね」とは頷かなかった。


「私だって、叔母の顔を潰す真似はできません。いつもは親戚中から押し付けられる縁談を体良く断ってくれている叔母が、珍しく気合いを入れて持ってきた話ですもの。……本当に、どうしてこんな男を推したのかしら?」

 ぼそりと独り言のように付け加えられた言葉もしっかり聞き取り、秀明は含み笑いを漏らした。そして、何やら思わせぶりに言い出す。


「俺はさっき言ったように、上司の手前断りにくくてね。確かに条件としてはなかなかだから、一応会ってみようかと思ったんだが」

「条件? 私のどこが、あなたの意に適っているの?」

 不思議そうに首をかしげた美子に向かって、秀明は淡々ととんでもない事を告げる。


「とある筋から『藤宮家の五人姉妹の中で、一番美人で気が強さが人一倍なのが二番目で、一番愛想がなくて抜け目がないのが三番目で、一番賢くて従順だが控え目過ぎて扱いにくいのが四番目で、一番天真爛漫で行動力が有り過ぎて手を焼く猪娘が五番目で、一番凡庸だが愛人を囲っても喚き散らさない程度の世間体を保てるのが一番目だから、正妻にするなら一番目だ』と聞いたので。違っていますか?」

 話の途中から綺麗に表情を消した美子に、秀明が楽しげに尋ねた。対する美子、何秒か無言を保ってから、静かに尋ね返す。


「……因みに、そのお話。どなたからお聞きになりました?」

「肯定ですか」

 問いには答えずに含み笑いで応じた秀明に、美子は一瞬殺意を覚えた。


(この男……、絶対喧嘩を売ってるわね。それなら高く買ってやるわ)

 その結果、彼女は殆ど何も考えず、二人の間に置かれている座卓の縁の下側に両手をかけて勢い良く上に持ち上げようとした。


「うっ……」

 しかし座卓は僅かに浮き上がった程度でとてもひっくり返せる状態ではなく、美子は早々に失敗を悟った。

(失敗したわ。これ、予想以上に重い!)

 すると笑いを必死に堪える風情の秀明から、ご丁寧な指摘が入る。


「くっ……、彫細工を余裕で施せるくらい分厚い黒檀、しかも普通の座卓の約五割増しの大きさの、最上級品ですからね。その細腕では、華麗にひっくり返すのは無理ではないですか?」

 そう言って目元にうっすらと涙を滲ませながら片手で口元を押さえ、もう片方の腕で腹を抱えている秀明を見て、美子は完全に頭に血を上らせた。


(一度ならず二度までも、人を馬鹿にして……、もう容赦しないわよ!?)

 美子は激怒したもののすぐに冷静さを取り戻し、これから自分がする事の段取りを頭の中で纏めた。その間、約五秒。

 そして彼女は座卓の下に置いてあったハンドバッグからアトマイザーを取り出し、そのキャップを外して右手で握りながら、目の前の茶碗を左手でった。そして準備ができると同時に、その茶碗の中身を秀明の顔めがけてぶちまる。


「喰らえっ! 女の敵!」

「おっと、悪いが茶をかけられた位で」

「遅い!!」

 秀明はすかさず顔の前に片腕をかざし、余裕で茶の直撃を避けた。しかしその間に座卓上にぶちまけた茶で足が濡れるのも厭わず、美子が茶碗を放りして勢い良く座卓に飛び乗る。そうしてスーツ姿の美子が秀明に肉薄すると、彼の顔面目掛けて、至近距離からアトマイザーの中身を噴霧した。


「……つうぅ!?」

 唐辛子からの抽出成分を濃縮したその溶液は、霧状になって秀明の顔面に襲い掛かる。瞼内は勿論、鼻粘膜や口腔粘膜に付着しても刺激を与えるそれの直撃に、流石に秀明が手で顔を覆って呻いた。美子はその隙を逃さず、微塵も躊躇わずに座卓上から彼の顎を下から蹴り付ける。


「天誅!」

「ぐあっ!!」

 全く反撃できず、秀明はそのまま畳に仰向けに転がった。すると美子も素早く畳に下り立ち、とどめとばかりに右足で秀明の喉を踏み付ける。


「うぐっ……」

「腕力には自信はないけど、脚力には少々自信があるのよ。失礼させて貰うわ!」

 濡れた足の裏を拭うように秀明の喉を何度か踏みにじってから、美子は捨て台詞を吐いた。そして憤然とした足取りで座卓を回り込み、ハンドバッグを拾い上げて何事もなかったかのようにその場を後にする。

 その間、呆然としたまま畳に転がっていた秀明は、彼女が乱暴に襖を閉めた音で漸く我に返り、のろのろと上半身を起した。


「は、ははっ……。すっかり油断した。まさか女に、蹴り倒されるとは」

 そう独り言を呟きながら、彼は服の乱れを直した。


「ああ、女に蹴り倒されたのは久しぶりだが、女に踏まれたのは初めてか」

 そのままひとしきり笑ってから、彼は物騒な笑みを浮かべる。


「面白い。文字通り足蹴にしてくれた侘びの代わりに、この際俺の計画にとことん付き合って貰おうじゃないか」

 その時の秀明の顔には、彼を良く知る者だったら絶対近寄って来ない程の、邪悪で不敵過ぎる笑みが浮かんでいた。

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