第6話

 隣りの部屋の人が、部屋を訪ねて来た。

 俺への苦情かと思ったら、何かあったんじゃないかと、心配になって来てくれたらしい。

 帰り際、「何かあったら一人で抱えこまず、私にでも誰でも相談してくださいね」と、ろくに話したこともない人間に言ってくれるくらい、優しい人だった。

 その人が帰った後、俺はまた少し泣いた。


 目を覚ますと、午前4時を過ぎていた。

 ラジオからは、たまに耳にする男性アナウンサーの声。どうも泣き疲れて、そのまま寝てしまったらしかった。

 しばらくの間、ラジオを聞き流してボーっとしていた。昨日の発狂ぶりを思い出して、恥ずかしさのあまり死にたくなった。

「今なら死ねる。まちがいなく」

 ベッドの上で悶えた。

 しかし腹が減って、買い置きのカップラーメンを食べ終える頃には、そんな感情は薄らいでいた。

「……よし」

 机に向かうと、昨日と同じようにパソコンを立ち上げた。「小説」のフォルダから、「浦沢 ヒロイン」というファイルを開く。

 2年前の日付が書かれている以外は、何も書かれていないページが、目の前の液晶に表れた。

「結局、今日の今日まで、何も書いてないな……」

 創作用のノートを広げたり、高校のアルバムを見返したりして、さてどんな話にするか……と、考えを巡らす。

 ふと、昨日読んでいた、いつもの文庫本が目に止まった。


 ――アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ『かもめ』――


 あの日、彼女の名前の由来を聞き、書店でこの作品がのる文庫本を買った。何回もページがめくられたせいで、今ではもうすっかりボロボロになってしまった。

 ことあるごとに読み返したのは、周囲から認められないことに苦悩し、最後には自殺してしまうコースチャに、自分を重ねたかったからだと思う。

 しかし今になってみると、それだけではなかったのだと思う。

「あの野郎……さんざん『誰にも言うなよ』って言ったのに」

 しかし不思議と、怒りはわいてこず、こぼれたのは笑みだった。


 2時間ほど書き続けただろうか。

 少し休もうと、カーテンを開けてみると、外が明るくなり始めていた。

 今から土手を目指せば、日の出が見れるかもしれない。

 俺は寝間着にジャンパーをはおって、アパートを出た。


 土手に着くと、予想通り、東の空に太陽が出始めていた。暖かに白く輝く太陽を中心に、淡いオレンジにピンクの混じる光が、水色の空に広がっている。

 朝の冷たさが、今日は優しく感じられた。橋の方からは、昨日と同じように自動車の音が聞こえてくる。

 また今日も、生活が始まっていく。


 あのラジオドラマのヒロインが、彼女だという確証はない。

 でも、あの懐かしい声は、まちがいなく彼女のものだ。

 そして思いがけず、彼女の初恋を知ってしまった。

 あの頃、自分の思いを告げまいとかたくなに心に決めていた。

 けれど、それはまちがっていたのかもしれない。

 お互いの夢を打ち明けた日のことを思い出し、胸が少し苦しくなった。


 あの日から今日まで、彼女はいったい、どう過ごして来たのだろう。

 知るよしもないことだけど、少なくとも前に進み続けていたのだろう。

 だからこそ、彼女の声を聞けたのだから。

「あいつスゴイな……サークルどころか、もう、プロになって活躍してるんだな」

 日の光がまぶしかったので、太陽から目を離し、西の空を見る。


 西の空には、清々しいほどの水色が広がっている。また黄昏が近づけば、今は東に輝く朝の太陽が、西の空に最後の光を灯して、夜の外へと姿を隠す。そして朝が来たら、またその姿を空に見せ、世界を照らす。

 世界の終わりまで、それの繰り返しだ。

 その前に、俺の命が終わるだろうけど。


 よくよく考えれば、死とは未来の行き着く果て――終着駅だ。

 だから「死にたい」という感情は、その究極のゴールへと早くたどりつきたい、「生きたい」という感情の、もっとも極端で、焦燥感に満ちあふれたものなのかもしれない。

 極楽も西にあると聞いた。

 今まで俺の中で西の空は、過去を表す場所だった。

 けれども今見つめる西の空は、俺にも未来があると言っている。


 彼女がヒロインの小説は、コースチャが生き残った『かもめ』にしよう。

 チェーホフが『かもめ』を喜劇と言ったように――自殺未遂が起きたなんて感じさせない、暗いエネルギーを、未来へ進む活力にする、あの頃好きだった、バカバカしい深夜ラジオのリテラシー全開コメディ。


「よし」と一つ声に出して、アパートへと足を向けた。

 話の続きをあれこれ考えながら、うずうずしていた。

 彼女は俺より少し先に、望んだ未来へと飛んで行ったのだ。

『かもめ』のニーナのように。

 そんなことを考え歩いていると、小説のタイトルが思い浮かんだ。これ以外ないと自画自賛したくなる、いいタイトルだと思う。


『かもめは西の空』


 この小説がきっと、俺の処女作になる。

 そんな予感を覚えながら、俺はアパートへと急いだ。 



                                  〈完〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る