かもめは西の空
クマガイショウ
第1話
いいの、これで楽になるわ。……わたし、もう二年も泣かなかった。ゆうべおそく、こっそりお庭へはいって、あのわたしたちの劇場が無事かどうか、見に行きました。あれは、まだ立っていますわね。それを見たとき、二年ぶりで初めて泣いたの。すると胸が軽くなって、心の霧が晴れました。ほらね、わたしもうないてないわ。
……あなたは作家、わたしは――女優。お互いに、
(チェーホフ『かもめ』)
ニーナはエレーツへと旅立つために、コースチャに別れを告げる。
去り際、彼女は彼を抱きしめ、ガラス戸から走り出る。
他の男を――トリゴーリンを、まだ愛していると言って。
コースチャは、原稿を全て破り捨て、書斎を出る。
――そして、1発の銃声が聞こえた。
すりきれた文庫本を閉じて、窓の外を見る。
西側にある角部屋なので、夕日がよく見える。今日は淡いピンクで、空は薄い紫に染まっている。包み紙をほどいたキャンディーみたいだ。
夕焼けがあまりにきれいなので、外に出たくなった。寝間着のまま、アパートを出た。建物に邪魔されず見たかったので、近場の土手まで行くことにした。
「あそこは、この辺りで1番高い場所だから、よく見えるはずだ」
10分ほど歩いて土手に着く。さっきよりも日は沈んで、少し暗くなっている。
家を出た時は、肌をそぐような寒さに萎えたけれども、歩いているうちに体も温まり、冷たい空気が今は気持ちいい。息を吐くと、白い煙みたいだ。
少し離れた橋から自動車の音が、かすかに聞こえる。川の向こうにある町に、小さな灯りが散らばり始めていた。もうすぐ、夕食の時間だ。
彼女も今、遠くの町で食事の準備をしているのだろう。
俺と似て面倒くさがりだから、適当にスーパーで惣菜を買ってきて済ましているのだろうか。いや、意外と凝り性な一面もあったから、手のこんだ料理を作っているかもしれない。
もしかしたら、調味料をまちがえて、でき上がった料理のまずさに大騒ぎしてる可能性もある。おっちょこちょいなヤツだから、きっとそうに違いない。
彼女のことを考えていたら、何だかおかしくて、笑ってしまった。
そして、自分の妄想の無意味さに、むなしくなった。
日はほとんど沈んでしまっている。俺は、自分の部屋に帰ることにした。
簡単に食事を済ませるとラジオをつけて、それを聴きながら探し物をした。
「ラジオは何か作業する時にぴったりなんだよね!」
初めて話した日、メガネの奥で目をくしゃっとさせながら、彼女がそう言ってたのを思い出す。
俺もラジオが好きだったので、彼女とはすぐに気が合った。
彼女はもっぱら音楽番組のリスナーで、深夜のお笑い番組が好きだった俺とは、聴いている番組がずいぶん違った。けれども、自分の知らない番組の話を聞くのは楽しかった。彼女も、俺の聞く番組の話をおもしろがって聞いてくれた。
気づけば俺と彼女は、ほとんど同じ番組を聴くようになっていた。
彼女とは高校3年間、どういうわけかずっと同じクラスだった。よく2人だけで、ラジオの話で盛り上がり、仲のよさをずっと周りに冷やかされていた。
けれども、不思議と俺も彼女もそれを気にしなかった。
これでは少し、語弊があるな。
俺はある時期からずっと、彼女をただの友達として思うように苦労していた。
卒業後は別々の大学に進み、それ以来彼女とは会っていない。最初のうちは連絡をとったりもしたが、今ではすっかり途絶えてしまった。
大学3年の秋を、彼女はどのように過ごしているのだろう? 好奇心とポジティブの塊のアイツのことだから、充実した毎日を送っているのだと思う。
「あったあった」
探し物は――高校時代のアルバムは、ベッドと壁の間に挟まっていて、取り出すのに苦労した。
「何でこんな所にあるんだろうな?」
ほこりをはたきながら、最後にアルバムを見たのはいつで、その後どこに置いたのかを思い出そうとした。
しかし、特に思い当たることもなかったので、すぐにやめた。
アルバムを開いて、個人写真がのるページを見た。
そこには、穏やかに笑う彼女と、同じく少し不機嫌そうな顔の俺がいた。
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