フェイズ6:永久に生きる者はなく……

 ネズミは、震えていた。

 目の前にいるのは、ひとりの老人。

 黒い肌。髪と髭は白い。理知的な雰囲気。

 目は穏やかに澄み、口調は聖職者のように優しい。

 けれど。

 けれどなぜだか、ネズミは怖くて怖くてたまらなかった。


「……ネズミくん」

「は、はいっ」

「君のマスターはさすがだね。こちらの予想を遥かに超えて早く、ここに辿り着いてしまった」

「え……?」


 巨大な金属扉が、大きくひしゃげ、そして吹き飛んだ。

 立っていたのは、墓守だった。

 傷だらけだ。しかし、眼光にいまだ衰えはない。


「マスターッ!」

「よう、ネズ公。……そこの爺さン。あンたがセルリーダー? 手下は全部殴り倒したぜ」

「私は、ユーサナトス。かつてトモエ・アマフネの教師のひとりでもあった者だよ」


 ユーサナトス。

 墓守は、その名に聞き覚えがあった。

 先代のマスターマインドが斃れたとき、後継に天船巴を推した派閥の重鎮だ。


「そンな奴が今更、天船の側近になりてェってのか?」

「いやいや。部下たちはともかく、私自身の目的は……彼女の打倒だよ」

「はァ!?」


 仲間同士の殺し合いは、FHでは珍しくない。だが、天船派の最右翼であるはずのユーサナトスが、それを望むなどと、話が間尺に合わない事はなはだしい。


「トモエなら、私の理想をより大きな形で実現してくれると思ったのだが……生憎と彼女の“欲望”は別の方向へと向かってしまってね。強引に変えようにも、もはや教え子は、師を超えて遥かに強大だ」

「…………」

「私は、ネズミくんに、トモエの擬似人格プログラムが仕込まれたという情報を手にした」


 事実だった。

 刻ヶ峰の事件では、そのプログラムのせいで、ふたりは要らぬ苦労を背負い込むことになったのだ。


「それは君ら自身の手で打倒され、もはや蘇ることはない。だが、その残骸をネズミくんの基底精神から回収することには意味がある。私ならば、そこからトモエの擬似人格を再構成し、本体を討ち果たす糸口とすることができるだろう」

「……女ひとり殺すのに、大層なこった」

「君は女性を軽んじる面があるね。嘆かわしい。ただ能力と人格のみを評価したまえ。トモエは、間違いなく怪物で、一筋縄ではいかない相手だ」

「知ってるよ。はらわたの腐った奴だ。目の前にいるなら殺すのにも躊躇いはねェ。けどな、手前ェが言うようなやり口は、俺の趣味じゃねェよ」

「ふむ。我々は協力し合えるのではないかな? 君自身の目的のため、私にもできることはあると思うが?」


 墓守の目的。かつての“実験”の首謀者を見つけ出し、殺すこと。

 だが、この老人からは、その首謀者に感じたものと同じ腐臭がする。

 墓場の死臭よりも耐え難い、精神そのものの腐臭だ。

 そんな者を信用できるはずもない。


「お断りだね」

「そうか。では―――死にたまえ、マスターグレイヴ」


 ユーサナトスは、あっさりと死を宣告した。

 穏和な笑みを崩さず、まるで生と死に差異はないとでも言うかのように。

 墓守の足元に、突如、闇が染み出した。

 闇が、底なし沼のように彼の体を飲み込んでゆく。


「し、心象結界系能力! マスターッ!」

「うおおおおっ!?」


 墓守は咆哮し、必死にあがくが―――無力だった。死そのものに抗うのが不可能であるように、彼の抵抗もまた、虚しいものだった。

 まるで墓標のように突き立っていた白き骨……名高き墓碑槍エピタフも、同じく闇に沈む。


「私の能力〈ノー・ワン・リヴズ・フォーエヴァー〉は、すべてを埋葬する。生者も、死者も。君は死なないのだったか? ならば、永久に沈んでゆけ。地の底まで」


 墓守の膂力も、槍の威力も、不定形の闇の前では無力だった。すべてのエネルギーを打ち消され、ただただ消耗し、飲まれ、朽ちてゆく。

 そして、闇はすべてを飲み込み、消えた。


 あらゆるエネルギーを無力化し、対象を虚数空間へと放逐する能力―――それが〈ノー・ワン・リヴズ・フォーエヴァー〉。

 何人なんぴとも、永久とわに生きることあたわじ。


「これで、終わりだね。“マスターグレイヴ”は、今、死んだ」


 その言葉を聞き、少女は体を震わせた。

 拒否するかのように、首を横に振る。


「マ、マスターは不死身、です……!」己に言い聞かせるかのような響き。


「この世に不滅の者などいない。星々でさえいずれ燃え尽きるのだよ。ましてや命の光など、一瞬の幻にすぎない」絶対の真理を語るかのような響き。


 そう。

 すべては、儚い幻影。

 どんなに美しくとも、いずれ消え去る仮初めの光だ。


「君には選択肢を用意しよう。安らかなる死か、あるいは……繰り返す幸せな夢を」


 ユーサナトスの声は、とても穏やかだった。

 まるで、臨終の時、終油の秘跡を授ける聖職者のように。

 ネズミの頬を涙が伝う。


「じ、自分は―――」


 選べない。

 恐ろしい。

 身動きも、取れない。


「……私はね、多くの死を見てきた。人は苦痛多き生を歩み、そして恐怖とともに死ぬ。悼ましいことだ」


 ネズミは、己の半生を思い出す。

 苦痛。

 恐怖。

 そういうものばかりが、あった。


「私の願いは単純だ。“すべての者に安らかな死を”……これは、とてもとても素晴らしいことだとは思わないかね? 残念ながらトモエは理解できなかったようだが」

「ううう、う……」


 ネズミは戦慄し、同時に、自分がこの老人に恐怖を感じていた理由を悟った。

 隠者然としたこの老人の精神は、もはや人間のそれではない。

 揺らぐこともなく、自分の“欲望”を尊いものと信じ込んでいるのだろう。

 彼の精神は“彼岸”へと達しているのだ。


 すなわち、ジャーム。


「ネズミくん。もし君が死を願うなら、我が能力で静かに送ってあげよう。私にとっても、君を分解することで人格プログラムの捜索が容易になるという利点がある」

「……し、死ぬのは、嫌、です」


 どうなろうと、生きていたかった。

 生きていてもいいことなど何もないのに、それでも彼女は、死を考えたことは一度もなかった。

 理由など、わからない。

 軽蔑されようと。

 醜く這いずり回ろうと。

 それでも、生きる。

 生きるために生きる。


 “生き延びる”


 それが、彼女の“欲望”。

 だから、不死身の墓守に特別なものを感じたのかもしれない。

 何があろうと立ち上がり、ただ前に歩いていく。振り返りもせず。強い人だ。

 羨ましかった。

 憧れていた。

 だが、その彼も、もう―――


「ふむ。苦しみに満ちた火宅かたくに拘る様は哀れだが……望まぬというのであれば、仕方ない。ならば、もうひとつの道だ。私は君を解析し、トモエを倒す知識を得る。その報酬として、君には素晴らしいものを約束しよう」

「素晴らしい、もの……?」

「我が精神の技で、すべての嫌な記憶を忘れさせるのだよ」


 忘却。


(全部、忘れられる……?)


 暗く湿った穴倉での、惨めな暮らし。

 寒さに震え、でも誰のぬくもりにも寄り添えない悲しさ。

 暴力に打ち据えられた痛み。

 這いつくばって、頭を地面に擦り付けて、踏みつけられ、汚いと罵られ、そうやって得た貧しい糧すら他の誰かに奪われる。

 どうしようもなくて、自分よりもさらに弱い者から盗む。

 泣き声が、背中に刺さった。


 忘れようとしても、忘れられない。

 忘れられるものか。

 だから自分は、心がこんなにも小さく卑屈にしぼんでしまったのだ。


 今なら、それらをすべて消し去ることができる?

 それは―――


「それは、とても素晴らしいことだと、私は思う。苦痛なき人生。恐れなき人生。君の心は……そう、眠りにつくのだろうね。面倒なことはすべて肉体に任せ、君は夢の中で繰り返し繰り返し、安らかな夢を見続けるんだ」

「繰り返し……夢を……」

「その夢には、終わりもなく、始まりもない。あたかも、メビウスの輪のように」

「…………」


 繰り返す、夢。

 ならばきっと、自分が見るのは、幸せだった刻ヶ峰での一ヶ月のような夢だろう。

 一度はその繰り返しを望み、そして、果たせなかった。

 手が震える。

 自然と、手がポケットの中を探っていた。

 指先に当たる感触は―――角砂糖の包み。


『馬鹿なンだよ、お前ェは―――』


 そう言いながら、墓守は頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。

 自分のせいでボロボロになってしまったのに、怒るでもなく。

 声が、優しかった。

 手が、温かかった。


(それも……忘れてしまうの?)


 「友達だよ」と笑ってくれた女の子がいる。その子のことは?

 ―――忘れてしまえ。何もかも。


 刻ヶ峰学園に通って、優しい人たちと過ごした。その時間は?

 ―――忘れてしまえ。何もかも。


 初めて自分を殴らない“マスター”に、守ってくれる人に巡り会えた。その人への想いは?

 ―――忘れてしまえ。何もかも。


 そう、何もかも忘れ―――「嫌だっっっ!」


「自分は、忘れたくないっ! みんなのこと、マスターのこと! 全部忘れてやり直すなんて、そんなの、全然意味なさすぎるっ!」

「ほう? 随分と立派なことを歌うね。そんなに拘る価値があるのかね? クズのような人生に」

「……じゃ、ない」

「ん?」

「自分は! クズじゃないっ!」


 “自分はクズではない”

 否定形で語る、あまりにも消極的な自己肯定。

 だがそれは、ネズミにとって初めての言葉なのだ。

 発するのに、彼女はどれほど勇気を振り絞ったことだろう。

 その勇気は、精神の変革は、彼女の中のレネゲイドを刺激し、活性化させてゆく。

 ポケットから角砂糖を取り出し、包み紙ごと口に放り込んだ。

 噛み砕く。

 くしゃりと紙が破れ、甘みが広がった。


(これは、あの人がくれたもの。儚くて、すぐに消えてしまうけど……それでも自分の大事な宝物!)


 歯を食いしばる。そして―――


「マスター! 聞こえますか、マスター!」


 己の主人に呼びかけつつ、ネズミは〈ヴァーチャル・ライト〉を展開した。

 薄暗い廃工場を、光の立方格子が淡く灯し出す。

 その光は、刻一刻と拡大し、高まってゆく。

 ネズミは精神を集中し、必死で墓守を探し始めた。

 それを敵対行動とみなして動き出す〈ノー・ワン・リヴズ・フォーエヴァー〉。

 闇による侵蝕。


 だが、闇が触れたその瞬間、ネズミの体は、光の線で描画された鼠の群れとなり、四方に散った。


「ぬうっ!?」


 初めて、ユーサナトスの表情に動揺が走った。

 視界の端に、光の格子を駆け抜けてゆく鼠。

 目で追うと、すぐに消え去り、また別の座標に出現する。


 瞬いては、消える。


 尾を引いて流れ去る。


 せわしくせわしく明滅する。


 幻惑する。


 くらます。


「この〈能力〉は……! そうか、真に警戒すべきはマスターグレイヴなどではなく、こちらだったか!」


 ネズミは、〈工作員マグネイト〉の情報隠蔽術に、〈ヴァーチャル・ライト〉を組み合わせ、この場の空間情報から自分自身を“消し去った”のだ。

 今や彼女は、この光の格子領域内のどこにでもあり、どこにもいない存在と化している。


 拡散した電子情報の霧。

 観測不能な光粒子。

 たとえ姿は見えずとも、確かに灯り続ける命の光。


 名づけるならば、〈ヴァーチャル・ライト・インコグニート〉。


 ネズミ自身、驚いていた。

 かつて検討し、「理論上は可能」という結論に達していたが、自分がそれをできるとは思っていなかった。

 一度きりの奇跡かもしれない。

 けれど、今はこれで時間を稼ぐことができる。

 だから―――


(マスター、待っててください! すぐに、自分が見つけ出します!)


 一筋の光が、闇の奥に深く潜り込んでいった。

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