蝶の夢

矢口 水晶

1話

「もう駄目だ、打つ手がない」

 僕は理科準備室の扉を開くなり、そう呟いた。理科準備室特有の、むわっとした薬品と埃の臭いが鼻先に迫ってきた。

 実験器具や薬品、標本が所狭しと並べられた準備室は、常に湿気と埃臭さに満ちていた。おまけにこの部屋は冷房の効きが悪く、窓を開けてもサウナのような蒸し暑さを保持している。窓際の水槽では小さなフナが泳ぎ回り、エアポンプがこぽこぽと絶えず音を立てていた。他にも飼育ケースがいくつも並んでいて、その中で小さな生物がうごうごと不気味に蠢いている。まるで怖ろしげな生物実験でもしていそうな、おどろおどろしい空気を垂れ流す部屋である。

 そんな理科準備室の中央、怪しげな器具と生物たち埋もれ、部屋の主は鎮座していた。

 彼――川島修二は作業台に頬杖をついて、一心にかたわらの飼育ケースを見つめていた。まるで準備室の備品であるかのように、微動だにしない。どうやら、僕の存在に気付いていないようだった。

「もう駄目だ、打つ手がない」

 僕はもう一度同じセリフを言った。今度はゆっくりと、大きな声で。しかし、彼は振り返るどころか飼育ケースから視線を反らそうともしなかった。

「おい、聞いてるのか、この野郎」

 ばしっ、と頭をはたくと、川島はようやく振り返った。彼は後頭部を擦りながら不満げに僕を見上げる。

「……聞いてるよ。何で叩くんだ」

「お前が僕を無視するからだ」

「無視してない。返事をしなかっただけだ」

「それを無視って言うんだろ」

 僕は大きく溜息を吐き、彼の向かいに腰を降ろした。彼は僕のことなど眼中になく、飼育ケースに視線を戻した。その眼差しは、まるで愛しい恋人を見つめているかのようにうっとりとしていた。

 彼が見つめる飼育ケースの中では、一匹の蝶が眠っていた。蝶と言っても、今は蛹である。ケースの中に斜めに立てかけられた木の枝に、ちょんと灰色の蛹がくっついている。窓から差し込む光を浴びて、蛹は鈍色に輝いていた。

 カラスアゲハの卵を入手してからというもの、彼は蝶の飼育に夢中になっていた。丸々と太った芋虫がようやく蛹にまで成長し、羽化して美しい蝶になるのを今か今かと心待ちにしているところである。

「……それ、まだ羽化しないのか?」

 そう言って僕が蛹を指差すと、途端に川島は顔をくしゃりと歪めた。大きな目を、悲しげに細める。

「そうなんだ。もうそろそろ、羽化してもいい頃なのに……」

 川島は語りかけるようにケースの表面を指で叩く。

 地味だが綺麗に整った顔立ち。夏の日差しを嫌う白い肌。そして知性の象徴たる黒縁眼鏡。

 黙っていればそこそこハンサムなのだが、昆虫に熱視線を送って愛を囁く様は、何とも不気味である。

「死んでしまったんじゃないのか?」

「そんなこと、あるものか。僕が手塩にかけて育ててきた、可愛い娘なんだぞ」

 そう言って、川島は飼育ケースを指でとんとんと叩き、「起きろ、メアリ」と呼びかけた。彼は生き物を飼う度にちゃんと命名するのだが、そのセンスはいつも微妙だと思う。

「蝶を一から育てるのって、難しいんだろう? 失敗することも、あるさ」

「でも、この子が羽化しなきゃ、僕は死んでも死にきれないよ……」

 川島はぺたりと机に伏して、物憂げに眉根を寄せた。

 彼がふと見せる蜻蛉の翅のような表情に、僕はいつも心を揺すぶられ、何とかしてやらねばという思いに駆られる。しかし、僕にはどうすることも出来ない。

 僕はケースの中の蛹に視線を落とす。蝶は蛹の中で、いったいどんな夢を見ているのだろう。



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