十二幕目

 梅乃は真っ暗な空間の中にいた。ここはどこだろう、と梅乃は辺りをきょろきょろと見回す。


「私、何してたんだっけ……」


 貸本屋に行って、ということを思い出してはっとした。


「そうだ、もやに飲み込まれたんだ」


 貸本屋の戸を破ってもやが飛び出してきたのだ。最後に見たのは徳蔵と弥吉やきちの焦った顔だ。

 心配しているだろう。どうやったらここから出られるだろうか。


 梅乃は辺りを見渡した。

 この空間には、暗闇が広がるばかりだ。どうしたものかと梅乃は途方に暮れる。


 その時だった。どこからともなく、ひらりひらりと花びらが降ってきた。薄紫色の花びらが梅乃の手の平の上に乗る。


「これは……藤の花?」


 梅乃は何気なく頭上を見上げた。目に入ってきた光景に言葉を失う。

 そこに広がっていたのは、満開に咲き誇る藤棚だった。目が眩む程の薄紫に、梅乃は立ち竦む。


 しゃん、と鈴の鳴る音がした。振り返ると、そこには女童が立っていた、いや、立っていたのは一瞬で、すぐに舞い始めた。

 しゃんと鳴ったのは、手にした笠に付けられたものだろう。十二単の裾がひらひらと舞い、紅や鶯色が暗闇に浮かぶ。

 鮮やかな単ではあるが、梅乃はなぜだか藤色の印象が強く思えてならなかった。


「藤の、精……?」


 女童が一瞬、目を丸くして梅乃を見た。薄く微笑むと、ふわりと梅乃の元へと舞い降りた。

 梅乃の手に一冊の本を握らせる。そして踵を返すと、また藤が舞う中を踊り始めた。

 読めということだろうか。梅乃は本を開いた。

 本は白紙の項が続いている。梅乃はぱらぱらと本を捲り続けた。


「あ」


 唐突に文字の書いてある項が現れた。そこには薄墨で文字が記されている。


『藤娘の美しきこと、言葉に代え難し』

『その姿はまるで天女 地上に舞い降りし極楽かな』


 綴られていたのは、まるで恋文かのような熱烈な想いだった。

 梅乃はちらりと舞い続ける女童に目を向ける。


 ここはおそらくこの本の持ち主の言霊の中だろう。そしてここに綴られている藤娘こそ、目の前で踊る彼女だ。


 梅乃はまた本に目を落とした。最初と同じく白紙の項が続く。薄い文字が現れて、梅乃は手を止めた。


『この手の中に閉じ込めておきたいけれど、日の目を見てこそではないか』

『店に本を置いた 借りてくれる人がいればいい』

『今日も誰も借りなかった』

『今日もだ この本は誰にも知られずに消えていくのだろうか』


 先程よりも文字が薄くなってしまっている。

 梅乃は本と女童を見比べた。


 この本はもしかしたら――。

 

 本を閉じ、梅乃は女童の元へと駆け出した。


「貴女は藤娘ですね? そしてこの本は、この本を書いたのは」


 振り返った藤娘に、口元に人差し指を突き出された。藤娘は押し黙った梅乃に薄らと微笑みかける。

 藤娘の姿が闇に飲み込まれ出した。梅乃は彼女に手を伸ばす。

 そこで気が付いた。飲み込まれているのは自分も同じだ。目の前にいたはずの藤娘は、今はもう遥か彼方のところにいる。


「待って! 私は貴女を……!」


 藤娘がこの世のものとは思えぬ美しい笑みを見せた。どこからともなく声が聞こえる。声はどんどん大きくなる。

 梅乃は完全に闇に飲み込まれてしまった。




「梅乃!」


 気が付くと梅乃は貸本屋の店の中にいた。藤棚は消え失せて、代わりに本棚が並んでいる風景に戸惑う。


「梅乃、大丈夫か!?」


 徳蔵に肩を掴まれてはっとした。さっきまで聞こえていた声は、徳蔵のものだ。梅乃の名前を呼んでいた。

 徳蔵の傍らには、一冊の本が落ちている。


「徳蔵さんが、言霊を封じてくれたんですね。ありがとうございます」

「こんなのは何てことない。それよりお前、どこか痛いところはないか? 怪我はしてないか?」


 矢継ぎ早に問われるが、梅乃は困惑の表情を浮かべることしかできない。徳蔵の様子は尋常ではない。


「徳蔵さん? 落ち着いてください、私は大丈夫です」


 そこで梅乃ははっとした。総兵衛から聞いたことを思い出したのだ。

 徳蔵は梅乃の返事を聞いても、まだ不安そうな顔をしている。やはり過去のできごとと重ねているのだ。家族を危険に晒した過ぎし日を。


「徳蔵さん、私はここにいます」


 梅乃の言葉に徳蔵は目を瞬かせた。梅乃は続ける。


「このとおり、怪我もないです。そりゃあこんな体質だから言霊を引き寄せちゃうのは仕方がないけど、このとおり、何とかなってます。それに」


 梅乃はそこで言葉を切った。うまく伝わるだろうか。ぶっきらぼうだけど、本当は優しい彼に伝わればいい。伝わってほしい。


「徳蔵さんと弥吉さんが守ってくれるんでしょう? 私も守ってもらうばかりじゃ嫌なんで、できる限りのことはします。不安なままでいないでください」


 人を寄せ付けないようにするのはきっと、過去の悔いがあるからだ。大事な者を守れなかった。そのことが彼の負い目になっている。

 彼らのように、自分には言霊を祓う力はない。だけどそれで諦めてしまうのは嫌だ。できる限り、いや、無謀そうなことでも、やるだけやってみたいのだ。


 梅乃は徳蔵の傍らに落ちている本を拾った。


「それは……!」


 弥吉の姿はここにはない。完全に封じられてはいないのだろう。

 それでも梅乃は構わず本に語りかけた。


「明日、正式な手順を踏んで借りに参ります。それまでここで待っていてください」


 梅乃はそう言うと、本がふわりと薄紫色に輝いた。

 本の表紙に書かれた題名は『藤娘』。唄が書かれた薄い本だ。

 梅乃は本を棚に戻した。


「おい、それはまだ封じていないぞ」


 怪訝そうに言う徳蔵に、梅乃は振り返った。


「もう大丈夫だと思います。もやも消えているでしょう? 藤娘はたぶん、ここの店主の想い入れのある本だったんです。でもこんなに綺麗な状態でここにある……。きっと誰にも借りられなかったんでしょう。そのことを店主は嘆いていたんです。藤娘自身が店主の身を案じてしまう程に」


 本には店主の想いが薄墨で綴られてしまう程に深く染み込んでいた。誰にも借りられない本を憂い、愛しすぎていたのだろう。


「でももう大丈夫です。私が明日借りに来るって約束しましたし、藤娘もそれに応えてくれました」


 本はもう普通の状態に戻っている。一瞬薄紫色に光ったのは、おそらく返事をしてくれたのだろう。


「……それでも、心配くらいはするだろ」


 ふいに徳蔵が呟いた。

 この人の心の傷は深い。言霊と対峙することを恐れている。傷はそう簡単には癒えることはないだろう。


「じゃあ約束します」


 梅乃はできるだけ頼もしく見えるよう、背筋を伸ばして声に力を込めた。


「私は徳蔵さんより先に死にません。このお守りに誓います」


 梅乃は懐からお守りを取り出した。徳蔵に書いてもらったお守りは、桜の柄の小さな巾着袋に入れていた。

 お守りと梅乃の言葉を目の当たりにして、徳蔵は押し黙っていた。梅乃はだんだん不安になってくる。うまく伝わらなかっただろうか。


「徳蔵さん……?」

「あぁ、約束だ」


 徳蔵は短く言った。

 その言葉に梅乃の表情は明るくなる。笑みを見せる梅乃に、徳蔵は仕方がないなとでも言いたげな表情を見せた。


 何が解決した訳でもない、だが徳蔵の心の負担を少しは軽くすることはできたと思う。徳蔵の表情がそう物語っている。


「梅乃ちゃん! 徳蔵くん! 大丈夫だった!?」


 弥吉が店の中に飛び込んできた。外でもやと対峙していた弥吉は、突然そのもやが消えたことでこちらにやって来たのだ。


「弥吉さん。こちらはもう大丈夫です。弥吉さんも大丈夫でした?」


 梅乃の顔を目にして、弥吉は安堵の表情を浮かべた。


「僕は大丈夫。二人とも無事で良かったよ。いったい何があったんだい?」


 梅乃は本棚を振り返った。

 藤娘はもう沈黙を守っている。悪しき言霊となる様子はなさそうだ。


「互いを想い合った、言霊ですよ」


 藤娘の舞う姿を思い返した。彼女はきっと持ち主のために舞い続けるのだろう。

 そして店主はきっと、この本を大事にし続ける。

 互いを大事に想う姿に、梅乃は幸せな気分になったのだった。




 柳井やない堂に戻り、寝る仕度をしていた梅乃は戸を引っかく音に動きを止めた。一瞬、また泥棒かと思ったが、続く「なーお」という声にほっと胸を撫で下ろした。


「柳さん、こんばんは」


 戸を開けるとはたしてそこにいたのは柳さんであった。

 柳さんはするりと梅乃の部屋に入ってくる。布団へと一直線に向かうと、枕元で丸くなってしまった。

 梅乃はくすりと笑って自分も布団に入ることにする。


 窓からは月が覗いていた。梅乃はそっと柳さんの喉元を撫でる。柳さんは気持ち良さそうに目を閉じている。


「柳さん、私どういいたらいいんでしょう……?」


 梅乃の問い掛けに、柳さんは応えない。目は閉じたままであるから、起きているのか寝ているかも定かではない。

 どちらでもいいか、と梅乃は続ける。どうせ誰にも漏らしはしまい。


「徳蔵さんが心配そうな顔をするのが嫌なんです。徳蔵さんは言霊使いだし、私は言霊を引き寄せてしまう……。不安の種になるのが嫌なんです」


 柳さんは喉を鳴らす。起きていたのか。


「力がほしい……。せめて自分の身は守れるくらいの」


 梅乃は柳さんを撫でていた手を止めて、拳を握った。


 約束は交わしたけれど、口先だけでは意味がない。口にした言葉が力を持ったとしても、行動に移せてこそ意味がある。

 梅乃の表情が険しくなる。


 その時、柳さんが梅乃の握った拳に顔を摺り寄せた。ぺろりと舐められて思わず手を開く。

 梅乃の目を見て「なーお」と一鳴きした柳さんは、まるで「まぁ肩の力を抜けよ」とでも言っているかのようだ。


 梅乃はくすりと笑った。そうだ、焦りすぎてもしょうがない。梅乃は梅乃のできる速さでやっていくしかないのだ。


「今夜のことは、二人だけの秘密ですよ?」


 承知した、とでも言うかのように、柳さんは目を閉じた。

 夜は静かに更けていく。誰かの決意を隠しながら。




 次の日、梅乃は貸本屋に訪れた。


「ごめんください」


 店に入ると、先日挨拶をした貸本屋の主人が一人でいた。


「おやおや、柳井堂の。今日はどうされました?」

「今日は本を借りに参りました」


 これから得意先を回るのだろう、店の一角に大量の本が纏められている。

 梅乃は「すぐ済ませますから」と棚を見回した。


 『藤娘』は棚の隅にあった。一瞬、薄紫色に光った気がして梅乃は面食らう。ふっと笑みを零してその本を手に取った。

 梅乃の背後では、店主が目を見開いている。


 店先を藤の花びらが舞った。

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