第4話

 大百足――陰鬼オニは、ひどくゆっくりとした速度で、いきなり現れたもう一つの獲物を喰らおうと蠢いた。


 ずしん、と地響きが薄暗い公園内に轟く。

 体長は5メートルほどあるだろうか。だがその分――隙がある。

 倫之助は大百足型の陰鬼を数回、駆逐したことがあった。

 紫剣シコウ総合学園の学生は、めったなことがない限り風彼此を抜いてはならない。

 めったなこととは、命の危険があるか否か。

 自分の命を守れぬものに、ほかのものの命を守ることはできない。

 学園の学園長が口酸っぱく言ってきた言葉だ。


 しかし――馨は抜けなかった。


「……」


 倫之助は馨に背を向けたまま、陰鬼を見上げる。

 その黄金色の目はどこかぼんやりとして、カタキを目の前にしているような目ではない。

 ただ抜き身の、倫之助の風彼此――通称「楊貴妃」と呼ばれるそれだけが、ぎらぎらと鈍い光を放っていた。

 まるで、獲物を前に舌なめずりするように。


 陰鬼は巨大な口で倫之助を飲み込もうとするが、その直後、その口が真っ二つに割れた。


「え……?」


 馨は目を見開き、その様子をただ見守る。

 そのままひどい腐臭と、どす赤い血液が降り注いだ。


 倫之助は動いていなかった・・・・・・・・

 ただぼんやりと立っていただけだ。風彼此――倫之助の楊貴妃を抜き身にして。


 倫之助が着ている学ランも、馨が着ているセーラー服も、血みどろになったが、倫之助は血払いをし、風彼此を収める。

 彼が馨を見下ろしたときにはすでに馨は腐臭に耐え切れず、気を失って倒れていた。


「流石坊ちゃん。お見事です」

「……なんだ。見ていたのか」


 公園のところどころに植えられている木の上から声がする。

 それほど大きな木ではないが、葉が多い。

 半蔵は木陰から音もなく飛び降りると、携帯電話でどこかへかけはじめた。

 どこへかけたのかは何も言わなくともわかる。

 対陰鬼総合機関だろう。

 やがて電話が終わると、半蔵はちらりと倒れている馨を見下ろして、ため息を吐き出す。


「やれやれ。これじゃあ思いやられますね。腐臭ごときで気を失うなんて」

「そんなものだろ。最初は」


 だんだんと暗くなってゆく空はどこか不気味で、先刻半蔵がつぶやいた、悪鬼羅刹を運び込みそうだ。

 だが、まだ後始末がある。

 倫之助は鞘に納めた楊貴妃を抜き身にし、馨へと向けた・・・


「………」


 刃の切っ先をぴたりと馨の白い頬に当てると、瞬時に赤から白磁へ刀身の色が変化した。

 背も刃紋もすべて、不自然なほどに。


 楊貴妃の斬撃以外の能力は「何らかのものを吸収する」事と、他二つあるが倫之助が好まないために滅多なことにならないかぎり、使わない。

 馨が今日、陰鬼に襲われたという記憶を吸収したのだ。


「あーあ、坊ちゃん。風彼此を人間に使っちゃって。旦那様に怒られても知りませんよー」

「半蔵が黙っていればいいだろう?」


 再度楊貴妃を鞘に仕舞うと、慌ただしい足音が聞こえてきた。

 陰鬼の処理班だろう。

 5人はいるだろうか。


「き、君が倒したのか?」


 楊貴妃を握っている、どこからどう見ても紫剣総合学園の生徒でしかない倫之助に、処理班の男が恐る恐る問うた。


「いいえ。こっちの細長い男です」

「えっ! 俺?」


 倫之助はきっぱりとかぶりを振ると、隣になっている半蔵を迷いなく指さす。

 細長い男、と呼ばれたことより、手柄を敢えて手放すことに驚いた。


「とりあえず、陰鬼を処理しますので、公園から退却願います」


 厄介なことに、陰鬼はゲームのように自然消滅しない。それ故に、「消滅させる」能力がある風彼此使いにしか処理できないのだから、余計厄介だ。


 公園から出ると、通行止めの為に駆り出された男が疲れた顔で肩を落とす。


「お疲れのようですね」


 倫之助がつぶやくと、青色の作業服を着た若い男は苦笑いをして、帽子に手を当てた。


「本当にね。最近妙に陰鬼の動きが活発でさ。寝る暇もないのが現状」

「お疲れ様です」

「ありがとう。君も、将来この機関に就職するんでしょ? 今のうちに遊んでおいたほうがいいよー。マジで」

「はぁ」


 公園の中心がわずかに光っている。たぶん、処理をしている真っ最中なのだろう。

 それを見届けて、倫之助と半蔵は公園を後にした。

 倒れていた馨は、処理班が何とかしてくれるらしい。



 暗く、あまり電灯がない道をまっすぐ歩く。


「ねえ、坊ちゃん。どうして記憶なんて消したんです?」

「なんで……って……。うーん。なんでだろう」

「はっきりしないですねぇ。どうせ、理由なんてないんでしょ」


 まあ確かに、と倫之助はうなずく。

 理由という理由はないが、記憶を吸収してしまったほうが面倒くさくなくていいだろう。


「意味さえあれば、俺はそれでいいよ」


 倫之助はちいさな声で呟き、口許をゆるめた。


 そう。

 意味さえあればそれでいい。

 理由がなくても、意味さえあれば。

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