Other Format Hero~ルビンの壺3

 明細を見て、加世子はにやける顔を押しとどめることが出来なかった。

 アパートメントの近くのバーガーショップで、届いたばかりの雑誌を眺める。WEB発行分はすでに目にしていたが、紙で実物で在るというのは記者としてまた格別な気分だった。汗をかき始めたグラスの中のスムージーを香る肉汁と共に楽しみながらぱらりぱらりとページを捲る。印字良し。発色良し。見栄え良し。誤植無し。中身の出来も加世子にしては良いと言えた。

 実に楽しく上機嫌の昼の一時を過ごす、はずだった。加世子の人生の中で出会った『不穏』に関わる中肉中背……この国では小柄に入る影を見るまでは。

「美味しそうだねぇ」

「あげませんよ」

「大丈夫。要らないから」

 不穏な空気とともに味覚破壊が起きているのではないか疑惑の男、久瀬はのんびりと加世子の前へ腰掛ける。とりあえず何を言い出す気配でもなさそうで、加世子は目の前の絶品に集中する。

 半ばまで減ったスムージーは旬の完熟ピーチを用いたもの。ミルクは牧場から直接仕入れているとのふれこみで、さわやかな香りとミルクの甘さが香りからもう絡んでいる。口に入れれば舌に馴染み桃の香りがいっぱいに広がる。飲み込めばミルクが優しくミントが喉から鼻を吹き抜けて、一口がそれでようやく終わるのだ。

 そして傍らのハンバーグに目を移す。

 柔らかいビーフにタマネギを大量に混ぜ込んだパティは表面をこんがりと焼き、中に肉汁を美味く閉じ込めた一品だった。パティと一緒に挟み込まれたレタスはみずみずしくて歯を立てればしゃくりと音を返した。氷水に曝した生のタマネギはわずかな辛みで味を引き締め、十分に厚いトマトが酸味で味を彩っている。

 パンもパサつかず生地そのものがまずおいしい。そこに、肉を焼く隣で焼いたための香ばしさと肉からにじんだ汁の染みこみが加われば、これ以上追加すべき物など何もないと思うほど。

 最後の一片まで味わった後は、アメリカンスタイルのコーヒーで歓喜に沸く胃腸を落ち着かせるのだ。

 ――ごちそうさまでした。

「おいしそうに食べるなぁ」

「美味しいんですよ」

 この店で一番高いバーガーだった。加世子の常食の三倍くらいの値段がした。いつか食べてやると心に決めて、今だとついに思ったのだ。もちろん、雑誌と臨時収入のお陰である。

 口を拭きつつ久瀬を見やる。久瀬は雑誌をパラパラ眺めている。読んでいる記事はもちろん。

「大した魔術師だねぇ。まだ十四歳? すごいねぇ」

「久瀬さんは書かないんですか」

「俺は使う一方だなぁ。書いてみようと思ったこともあったけど、無理だった。ねぇ」

 久瀬は雑誌を置いた。コーヒーを啜る加世子へとほんの少し身を乗り出す。

「この子、セフィロトの樹を使ってなかった?」

 一〇の円と円を繋ぐ幾本もの直線。アンヘラのタップを合図に浮かび上がった。

「使ってましたよ」

 それが? 上目遣いに久瀬を見やる。そうか、と久瀬は立ち上がった。

「情報提供ありがとさん」

 すれ違いざま、加世子の肩を軽く叩く。

 ――コーヒーカップが落ちて砕ける音を聞いた。

「加世子ちゃん!?」

 顔にぬるい液体が触れる。力が入らない。いや、動かない。腰が背がピクリとも動いてくれない。

 慌ててのぞき込む久瀬が見える。

 久瀬の向こうで、店員らしき影が見える。

「救急車……いや、タクシーを!」

 持ち上げられたのが判った。以前にも味わった高さだった。しかし、あの時とは多分、だいぶ違っていた。手足は鉛と言うのもまだ軽い。全くそこにないかのようにピクリとも反応しなかった。加世子はしがみつくことが出来ないまま、久瀬に持ち上げられ、そして、何処とも知れずに運ばれた。


 *


 タクシーは短いとは言えない時間を走っていたように加世子は思う。窓から辛うじて覗ける景色はビルと空とのハーモニーから空の割合が増えていき、最後は空ばかりになっていた。

 目的地に着いた後も、加世子はまた久瀬に『お姫様抱っこ』で持ち上げられた。久瀬の腕は体格のわりに不安を感じさせなかった。魔術を使っているのだろうが、落とされる心配が無いのは幸いだったし、荷物扱いされなかったことにも、ホッとしていた。

 相変わらず手足は、手足どころか口から下は全く動く気配がなかった。声すら出せない。薄くまぶたを開けて様子を窺う。窺いそして、推察する。

 ここはどこで、どうされようとしていて、自分は今どうなっていて、今後どうなっていくのか。

 タクシーは平たく巨大な建物のエントランスに到着した。久瀬は加世子を抱え、エントランスを通過して警備室前を顔パスし、奥へと何処かへと向かう。

 エレベータは顔認証か声紋認証か。何かしている気配だけを感じた。重力加速度を感じながら、上昇し、止まり。久瀬はさらに歩みを進める。

「ナツミ、いるか!?」

「ダディ?」

 ドアがひとりでに開いていく。いや、向こう側から開けられたのか。

 ナツミ・リンガーソン。見覚えのある壮年女性が目を丸くして加世子を見ていた。


 *


 天井がある。新しいわけではないが綺麗な天井だ。

 カーテンがかかっている。クリーム色の薄いカーテン。病院によくあるヤツだ。

 照明は直接見えない。けれどずいぶん白いなと思う。もちろん太陽光ではないのだろう。窓はあるかもしれないけれど、見える範囲にはなさそうだった。

「意識はある。眼球は反応している」

 まぶたをこじ開けられた時には少し驚いた。のぞき込まれて思わず気持ちばかりは逃げていた。

「でもその他は反応を返さない」

 呼ばれても声は出せなかった。しようがなくて懸命に瞬きした。

「脈拍正常、血圧正常。自発呼吸も問題なし」

 昔から時々思っているが、血圧測定はどうにも苦手だ。加世子はぼんやり感触を思い返す。

「脳波は正常」

 衣擦れの音、クリックの音。椅子がきしみを上げる音。

「じゃあ、なんで」

 珍しい。加世子は思う。久瀬の焦った声など、初めてではないだろうか。

「待って。MRIの解析中」

 人生初のMRIだった。うるさいとは聞いていたが本当だった。まだ耳に音が残っている。

 連れてこられてあれやこれやと検査をされた。ずいぶん経った気がするけれど、相変わらず手足も身体も動かなかった。ぼんやり天井を眺め、じっと聞き耳を立てる以外、正直何もできることがない。できることがないから、益体もないことばかりが浮かんで消える。

 MRI、脳波測定、お姫様抱っこの感触。なかなかできないことをしている。

 それを言えば、アメリカへ来てから、いや、久瀬と関わってから、普通では味わえないことばかりをしている。

 銃におなかをぶち抜かれるのを見たりした。ドアにクリーンヒットされて昏倒するという漫画みたいな絵面も見た。

 薬を盛られてみたり、お姫様抱っこで追われてみたり。全く動けない状態になってみたり。

 ……珍しいことには違いないが、動けぬままにムカついてきて。

 切り替えよう。あきらめるように加世子は思う。

 例えば、久瀬と、ナツミ・リンガーソンの関係だ。久瀬の口調は年上に対するものではないし、ナツミのほうもどこか気安い。しかもナツミは久瀬を『ダディ』と呼ぶ。

 ナツミは名刺には肩書があった。加世子は必至に思い出す。

 Universal E-books MANA-Technical Management Association――米国電書技術管理協会。ドクター、ナツミ・リンガーソン。

 UEMTMAは俗に米電魔局、などといわれている。ならばここは、米電魔局の中なのか。

 天井をみやる。何のことはない病院とそう違わない天井だ。

「来たわ」

「で?」

「待って」

 ぎしり。椅子が音を立てる。カタカタカチャカチャキーボードの音が続く。ぎしり、きゅるり。椅子がきしむ。

 沈黙に加世子がすっかり飽きるころ。ナツミはぽつりとつぶやいた。

「閉じ込め症候群、に見える」

「閉じ? え、なに?」

 加世子は聞こえた声を反芻する。とじこめしょうこうぐん。閉じ込め症候群、とは?

「脳の状態、とでもいえばいいのかしらね。脳活動はある部位を除いて正常。意識もあり、反応もある。自発呼吸も問題なし」

「ある部位?」

「脳幹」

 加世子は眉根を寄せる……寄せた気になる。脳幹が正常ではない、とは?

「ミズ・オオムラの状態は植物状態といえるの。死んではいない。自発呼吸がある。しばらくの間なら放置しておいても死にはしない」

 加世子は耳を澄ます……ナツミの言葉、一言一句、漏らすまいと意識を向ける。

「しばらくって」

「誰だって絶食すれば死ぬでしょ。点滴くらいは要るわね」

「突然なるものなのか」

「脳血栓、脳溢血、事故などで障害を負ったりで発症することはあるけど、ミズ・オオムラはまだ若いし、考えにくいとは思う。ないとも言い切れないけど。事故に遇った様子もなさそう」

「あの記事を書くくらいだし、ハンバーガーをおいしそうに食べていたよ」

 なら違う。ナツミは呟き。

 可能性だけど、と。言葉をつづけた。

「電書魔術なら」

 薬剤をカプセルに入れて対象となる部位に運ぶ。ちょうど効くだけの分量をカプセルから放出する。部位の決定、放出量の調整、持続性、エトセトラ、エトセトラ。

「電書魔術としても魔術師の腕は相当なものよ。しかも医学の知識も要る」

 きぃきぃと音がする。椅子が鳴いていると加世子は思う。

「でも、スタンダードは検出していない。セフィロトの樹はダディの方がわかるでしょう?」

 椅子がきしみを上げて、カーテンがわずかに開く。加世子は慌てて目を閉じる。

 温かいものが頬を覆った。わずかに顎を持ち上げられて、されるがままに上を向く。

 久瀬が何をやったのかは、わからなかった。しばらくそのままで、そして、温かいものは離れていった。

「気配はある、かな」

「気配?」

 寒いなと、ふと加世子は思う。いや、寒いはずはないのだ。快適とは言わないまでも、ベッドの感触は悪くはない。けれど、寒い。

「すごく弱い。出力をかなり制限している。微妙というか、繊細というか」

 ――繊細、と言うべきかな。

「……ピンポイントで脳幹部分だけに微量の麻酔を展開するような?」

 ――ほんの少し違うだけでダメになってしまうんだ。

「そんな感じ、なのか?」

「それが本当にできるのなら、説明は可能、って感じかしらね」

 アンヘラの言葉がよみがえる。動けない加世子の内を満たす。

「トリガーは」

「偶然、ってことはないでしょうね」

 冷たいしなやかな指先が、浮かび上がったセフィロトの樹が。

 なぜ。――なぜ?


 ――外国の無名の雑誌社の名前でコレクションの取材許可が下りた。

 ――日本人だからという名目で、楽屋裏に通された。

 ――改めての取材の確約。

 ――指定された会議室。

 ――ぼくは魔術書を書ける。そして可愛いものが好き。パパはぼくを可愛くするための知識と技術があった。ぼくはパパに魔術書を提供するし、パパはぼくを可愛くする方法を考えてくれる。利害が一致した。ぼくは可愛くなれた。


 ピースがはまった気が、した。

 目尻に熱いものが溜まっていく。限界を超え、それは頬を滑り落ちる。

 跡には冷たい筋が残った。

 悲しいわけでは、決してなかった。寂しい気持ちは少しあった。

 素敵な笑顔だと思った。無邪気なところのある、かわいらしい子、だと。

 そして。

 悔しかった。


「これだけの魔術を作ったんですもの。ダディとの接触を検知して発動、なんてこともできるかもしれない」

「俺?」

「ダディはセフィロトの樹がわかるでしょう?」

「そりゃあ、俺はね」

「同じことができないといえる?」

 言葉はもう加世子の内を素通りしていくだけだった。

 言いたいのに言えない。そうだと頷くだけなのに、それができない。それすらできない。

 悔しい。

「……俺と接触して発動、として、理由はなんだ。加世子ちゃんは治るのか」

「理由は知れてるんじゃない? 治るかどうかは……ダディができないなら、できるのはかけた本人だけでしょうね」

 カーテンが勢いよく開けられた。ナツミ・リンガーソンと目が合った。

「アンヘラね?」

 加世子は思わず瞬いた。なぜ、それを。

「なんで断言する?」

 久瀬だった。

 ナツミは加世子へと目を合わせたままでそれにこたえる。

「本人じゃないかもしれないけれどね。タイミングが良すぎる。……アンヘラ、ね?」

 加世子は、ゆっくり、確かに。目を閉じ、開いた。

 頷く代わりに。


 *


 沈黙が続く。

 変調を経て複号された微かな声を挟みつつ、久瀬だけがここにはいない誰かへと話しかける。

「私、日本の雑誌社ウィークリー新東の久瀬と申します。先日は大村がお世話になりました。その件に関してアンヘラさんにご確認頂きたいことがありまして。……えぇ。折り返しで構いません。連絡先は……」

 ため息と、薫りからするとインスタントのコーヒーだろうか。硬質な音が幾度か響き。

 衣ずれ。そして。

「アンヘラ?」

 軽やかな声が漏れ聴こえる。

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