22
研修出張から帰って来(てしまっ)た音無先生が、
「非常に有意義な研修であった。私は教育者としての使命に目覚めた。退廃的で自堕落な生徒は愛のムチで更生させてやらねばならん。赤穂、お前のような生徒をな!」
とかなんとか言って研修のストレスを発散しようとしているせいで、僕はでたらめな分量の課題をやらされるはめになり、目まぐるしい日々がしばらく続いていた。ひとつの課題を順調に終わらせても次から次へと課題が出されるし、ていうかそもそもひとつの課題を順調に終わらせるほどの力もないから、課題はどんどんたまっていく一方だ。前の小テストは確かに暗澹たる結果だったけど、これではいくらなんでもオーバーキルだ。
「しょうがないなあ……私が勉強見てあげるよ」
そんな僕の様子を見るに見かねた怜未が、女神のような微笑みで僕に救いの手を差し伸べてくれる。ソラもなんだか、いつもより僕を憐れんだ目で見てくれる。
そんなわけで、音楽室での文化研究部の活動はいったんお休みして、僕ら三人は勉強会をすることとなった。
場所は下北沢。世羽さんのいる喫茶店『路地裏』だ。
「お前らさあ、ここを自分らの都合のいい共有スペースかなんかと勘違いしてんじゃないの?」
雁首そろえて店に顔を出した僕たちに、世羽さんは苦虫を噛み潰したような表情で文句を垂れる。いのりさんは「やっほー」と笑顔で迎えてくれる。
「いいじゃんお姉ちゃん、いっぱい注文するから」
「怜未ぃ、そう言う問題じゃねえんだけどなあ」
「世羽さん、怜未の言うとおりですよ。どうせお客さんなんかロクに来ないでしょう」
思わず口を滑らせた僕に、カウンターから小ぶりのトレイが風を切って飛んでくる。危なかった、奇跡的な反応速度でかわさなければ、本当に首が飛ぶところだった。
「しょうがねえなあ。二杯目からはちゃんと払えよ」
そう言って世羽さんは、グラスいっぱいに満たしたカフェオレを僕らの人数分用意してくれる。なんだかんだ言ってやっぱり面倒見のいい人だ。
店の奥のテーブル席に座って、おのおのノートや教科書、参考書を広げた。怜未とソラは今日出た宿題、僕は法外に課された課題の数々だ。
大前提として、怜未とソラは頭がいい。生徒会執行部に所属し、毎度の定期試験で学年トップクラスの成績をあげている怜未はもちろんだが、意外とソラも侮れない。普段なに考えてるのかわかんない不思議オーラを放っているけれど、ちゃんと試験科目と試験範囲を教え、問題の解き方を示してあげれば、みるみる吸収して憶えていくことができるみたいだ。これには怜未先生も気を良くしたようで、本日の主役であるはずの僕をいつの間にかほったらかしにして、ソラにばっかり勉強を教えている。こうして『路地裏』での勉強会は、大局的に見ればつつがなく進行し、やがて僕は勉強に飽きた。
僕は椅子から降りて、凝り固まった身体をほぐすために店内を歩こうとした。カウンターの近くまで来ると、レジの奥に小さな書棚があることに気付いた。
何とはなしにいくつかの本を手に取る。『カフェをはじめるための本』『おいしいコーヒーの淹れかた』『カフェ経営論』などといった、カフェを営むための本がぎっしりと並んでいる。ほう、世羽さんはこういう本を読んで、カフェの勉強をしているのか。そういう柄じゃないくせに意外と勉強家である。感心感心。ふむふむ唸りながら書棚を眺めていると、どうやらほかの本とは雰囲気のちがうものが、書棚にまぎれていることに気付いた。
「フランス語辞典……?」
カフェの経営方法やコーヒーの作り方などの本が並ぶ中で、分厚いフランス語の辞書がひときわ異彩を放っている。どうしてこんなものがあるんだろう。カフェの経営には特に必要でもなさそうだけれど。
僕はその辞書を手に取ってみた。ずしりと重いそれは、幾度にもわたって使い古されたように紙がしなしなになっている。
「なんでこんなものが――」
「ああ、それねぇ」
いつの間にか近くに来て僕の手もとを覗きこんでいたいのりさんが、なんでもないような口調で言った。
「それ、『MES CHERIS』が使ってた辞書だよ」
「へえ。そんなものがあるんですね」
そう言って僕は辞書を書棚に戻そうとする。が、すんでのところでその手を止めた。
「って、えええええッ!?」
「うぅぅ……やだ、詠人くん、私の耳がいま、キーンって……」
「あ、す、すみません」
耳もとででかい声を張り上げてしまったために、いのりさんは耳を押さえてうずくまった。本当に申し訳ないことをした。でも、いのりさんには悪いけど、それどころではない。
なんだって? 「MES CHERIS」が使ってただって?
「なんでそんなものが……」
「そんなの普通だよ、あの人たちよくここに来てたんだから。私とセイちゃん、『MES CHERIS』のスタッフだったんだよ。……て、セイちゃんから聞いてなかった?」
そう言っていのりさんは、カウンターの奥にいた世羽さんを呼んだ。気怠そうな返事とともに現れた世羽さんに、いのりさんがくだんの話を持ち出す。それを聞いた世羽さんも、なんでもないように「ああ、そうだけど?」と言った。
「まさか……嘘ですよね?」
「嘘ついて誰が喜ぶんだ」
「僕ですかね」
「詠人を喜ばせるために、私がこんなくだらない嘘をつくと思うか?」
「思いません」
「だろ? 私は詠人を喜ばせようだなんて、たとえ世界が終わっても思わない。しかし、私は依乃里の話を否定しない。なぜならそれは真実だからだ」
すごい。僕はいま完璧に説破された。あまりにも完璧で、感心しすぎてなんだか哀しくなってくる。世羽さん、世界が終わっても僕を冷たくあしらうつもりなのか……。
それにしても、とんでもないものを発見してしまった。どうやら「MES CHERIS」が曲を作るとき、その歌詞を書くのに使った辞書らしい。確かに「MES CHERIS」の曲には、聞きなれた日本語やなじみの深い英語のほかに、耳慣れない言葉が混じっているものがある。たとえば『ルシエル』なんかがそうだ。そのわけのわからない言葉の部分に強いメッセージ性がありそうなんだけど、いかんせん何言ってるかわからない。そうか、あれはフランス語だったのか。
僕は好奇心から辞書のページをめくっていった。適当な言葉を索引してみた。と、そのなかのひとつの単語が、綺麗な空色の蛍光ペンでなぞられていることに気付いた。
「……」
その言葉を見て、僕は言葉を失う。
そうか、これはそういう意味だったのか。あの曲にはこんな想いが込められていたのか。僕はぜんぜん気付かなかった。これがこんな大切な言葉だったなんて、僕には知る由もなかった。
じゃあ、彼女はどうなんだ? あの曲に込められた想いに、気付くことができていたんだろうか?
僕がテーブル席に目を向けると、そこにはひとりの姿しかなかった。「……ソラは?」と僕が問いかけると、怜未は「休憩だって」と言ってカフェの階下を指差す。スタジオフロアのことだろう。僕は辞書を棚にしまい、スタジオへ足を向けた。ルームのドアガラスから中を覗きこむと、ソラが僕のギターを弾いているのが見える。口許は何かを口ずさんでいる。
僕は彼女のその姿を見て、なにかとてつもない不安に襲われた。
彼女の表情は、えも言われぬ昏い感情に取り憑かれているような気がしたのだ。なにかにひどく絶望しているような、諦めているような――そう、あの日のライブで逃げ惑う群衆を見つめていたときのように。
しばらくすると、上のフロアから怜未が降りてきた。
「もう、ソラも詠人もなにしてるの?」
僕の脇から怜未がルームの中を覗き込んでくる。
「まったくもう。結局みんなここに来ちゃうのね」
半ばあきれたような口ぶりで、怜未が溜息混じりの声を漏らす。声は不満そうだけれど、その表情は柔らかく緩んでいる。
「じゃあ、今日の勉強はおしまいにして――特訓といきますか!」
彼女がドアの脇にあるボタンを押すと、スタジオルームの中で青いライトが点滅したのが見えた。音漏れを防ぐために、入室する際に楽器の音出しをやめてもらうための装置だ。白いライトはスタジオの利用時間を知らせるもの、赤いライトは緊急事態を知らせるためのものである。青いライトの明滅を見て、ソラはギターを弾くのをやめた。それを確かめてから、怜未と僕はスタジオルームの中に入っていく。
「ソラっ、今日は特訓だからねっ!」
「うん」
怜未がドラムセットの前の椅子に腰掛け、ソラはベースを肩に掛ける。そしてソラがそれまで握っていたギターを、今度は僕が手に取る。軽くチューニングを済ませたあとで、僕たち三人は静かに視線を交えた。怜未の「いくよ」という声とカウントが弾けたあと、僕たちの音が重なり合う――。
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