17
駅の南口から降りて小田急線沿いを北上し、小さな劇場のまわりをぐるっと半周したところにあるのが、下北沢『路地裏』。世羽さんが経営している小さなライブハウスだ。普段はカムフラージュのためにカフェやバーの体裁をとっていて、外見はとてもライブハウスには見えない。古着屋やら居酒屋やら雀荘やらが所狭しと入っている雑居ビルのなかに、『珈琲・路地裏』の名で慎ましやかな看板を掲げている。黒地に白文字、ごくごく普通のサンセリフ書体で書かれた看板は、まわりの店の商魂逞しい華やかな看板とはいかにも対照的で、あるんだかないんだかわからない妙な存在感を醸している。
看板の下の扉を開いて薄暗い店内に入ると、外の喧騒から切り離された店内の静寂が、じんわりと身に沁みてくるようだった。休日のこの時間にも関わらず、店内にはほとんど客の入りがない。六つあるテーブル席のうち一つには二人組の客が座り、入口から入って右手にあるカウンター席は、八あるうち四分の一しか埋まっていない。まばらな客の交わす話し声や、グラスの中で氷の踊るカラン、という音が、店内の静謐な空気をかすかに震わせている。
僕は店内をゆっくり見回した。やはりここがライブハウスだとは思えない。そもそも店舗にはステージがない。あるのは店舗の地下だという。音が外に漏れないように入念に防音設備が調えられた箱へ、『路地裏』の店内の奥にある階段から繋がっているのだと聞いたことがある。
「お姉ちゃん」
怜未が誰もいないカウンターへ近づいて、世羽さんを呼ぶ。洗い物でもしていたのであろうか、カウンターの奥からは水の流れるような音が聞こえていたが、怜未が呼ぶとその音が途切れ、やがてひとりの女性が姿を現した。
「いらっしゃ――なんだ、おまえらか」
世羽さんだ。
「なんだ、ってずいぶんな挨拶じゃない。せっかく妹が会いに来たっていうのに」
怜未が決然たる口調で異議を唱える。すると、世羽さんは片手をひらひらと顔の横で振った。
「すまんすまん。いらっしゃい、怜未。よく来てくれたよ」
世羽さんが破顔した。それにつられるように、怜未も相好を崩す。
「怜未。来てくれたのはいいが、感心しないな。金魚のフンみたいなのがひとつくっついてきてるのを、どうして途中で払ってこなかったんだ」
世羽さんが僕を見るなりひでえことを言う。こいつら姉妹揃って僕を宇宙人にしたり金魚のフンにしたり、いったい僕のことをなんだと思っているんだ。せめて人間だと思えよ。
「おお、金魚のフンだと思っていたら、そこにいるのは詠人じゃないか! 元気でやってるか」
「ええ、まあ」
「そうか、それはよかった……ような、ぶっちゃけどうでもいいような」そこどうしてぶっちゃけるの?
「ところで」
世羽さんは僕の後方に突っ立っているソラに目線を向けた。
「そこの美少女はどちらさま?」
「………」
頭から足の爪先まで興味津々、世羽さんはソラを眺めながら言う。舐めまわすような視線を浴びている一方のソラは、まじろぎもせず世羽さんを見つめ返している。
「この子はソラっていうの。かわいいでしょ?」
「うむ。なかなかだね」
満更でもないように世羽さんは深く何度もうなずく。それに合わせて怜未もうなずく。頭を上下させるタイミングがぴったりだ。なんだかんだで仲がいいな、このふたり。
「私は世羽。怜未の姉をやってる」
「……せいは」
「そう、よろしくな」
そこで、世羽さんはカウンターの奥を覗きこんだ。
「依乃里、ちょっといいか」
世羽さんに呼ばれて、カウンターの奥からひとりの女性が顔を出した。ブラウンのニットにカーディガンを羽織り、白地に暖色系を基調としたスカートをはいて、明るい栗色の豊かな髪をふわふわと揺らしている。いのりと呼ばれたその人は「はぁい、なに?」と小首を傾げると、怜未を見るなり「あ、怜未ちゃん! 久しぶり!」と言って両手を広げた。怜未も「いのりちゃん!」と声をあげてそれに応える。ふたりがひとしきりハグを交わした後、蚊帳の外に追いやられていた僕とソラに、世羽さんが紹介してくれた。
「そうだ、ふたりは初めてだったな。彼女は江鳥依乃里。私の昔からのなじみで、一緒に仕事したりもしてた。いまはこの店の手伝いもしてもらってる」
「いのりです。よろしくね」
「ど、どうも」
「……いのり」
「あなたがソラちゃんねっ。かわいいっ!」
そういっていのりさんはソラに飛びつくと、両手でソラの両頬をはさんだ。タコのようになったソラの口から「むぐう」という呻き声が漏れる。
「あの……」
苦しそうに唸るソラに助け舟を出そうと、僕はいのりさんに声をかけた。
「ああ、きみは――詠人くん、だね?」
「はい、そうです」
「きみは……まあ、うん、きみもかわいいよ」なんのフォローだよそれは。
「もし女の子だったらかわいかったかも。ええと、かわいいっぽい? 愛らしそう? なんて言うんだろう」
「依乃里、それはね」そこで世羽さんが口をはさむ。「かわいそう、って言うんだよ」言わねえよ。意味がぜんぜんちがうじゃねえか。いのりさんも「ああ」とか言いながら得心したように僕を見るのやめてくれないかな。
「なにか飲む? 私からおごってやるよ」
世羽さんはそう言って、僕たち三人にカウンター席を勧める。
「怜未はカフェオレでいいよね。角砂糖はふたつ、だっけ?」
「うん。ありがと」
相手の好みを知っているとういうのは、さすがは姉妹といったところか。
「詠人は?」
「僕もカフェオレで」
「え、泥水?」そんなわけあるか。確かに色は似てるけど色しか似てねえだろ。
「え、詠人くん泥水飲むの?」
世羽さんの隣から、いのりさんが真顔で訊いてくる。この人ほんとうに信じそうだから怖いな……。
「飲まないですよ」
「変わってるね……じゃあ特別に、枯葉も拾ってきてトッピングしてあげるね!」
「いらないですよ!」
「わかったわかった、詠人もカフェオレね。ソラは?」
「詠人とおなじ」
「え、泥水っ?」僕は思わず身を乗り出して訊いてしまう。
「カフェオレね」
世羽さんが氷みたいに冷え切った声で訂正してくる。あ、うん。そうだよね。なんで世羽さん僕が喋ると急に真面目になるんだろ。
「じゃあ特別に、かわいいソラちゃんにはサービスでキャラメルソースとヘーゼルナッツシロップとエクストラホイップ追加しちゃう!」
いのりさんが嬉々とした表情で声を弾ませる。なにこの扱いのちがい……。
『路地裏』のふたりはてきぱきと作業をし、僕ら三人分の飲みものをカウンターに出してくれた。僕の前に出された液体の匂いを嗅いでみると、ちゃんと泥じゃなくてカフェオレの香りだったので安心した。
「そうだ、おまえら。私がおごってやるかわりに、この店のポイントカード作っていってよ」そう言って世羽さんは、レジ下のひきだしから白文字で店名の入った黒いカードを三枚持ってきた。「セイちゃんが導入したはいいんだけど」
横からいのりさんの補足。「セイちゃん」とは世羽さんのことだろう。
「誰も作ってくれなくてね。在庫が余って大変なのよねえ」
「そりゃあこんな場末のカフェのポイントなんて誰もいらないでしょう」
「……おまえ、今なんて?」
「ちょうど財布にポイントカード一枚分の空きスペースがあったからなにかぴったり収まるものないかなあ、って思ってたんですよ! なんたる奇遇、このカードならジャストフィット!」
後ろから「当り前でしょカードのサイズなんてみんなおなじよ」という正論を背中に喰らい、正面から「うるせえな黙って名前書けよ」と罵声を浴びせられ、「あはは、詠人くん変なのー!」とおもしろがられながら、僕はカードの裏側にサインペンで名前を書いた。続いて怜未も自分のカードに記名する。
「ソラは?」
「………」
ソラはまじまじと黒いポイントカードを見つめている。目の前のものがはたして食べ物であるかどうか観察しているみたいに見える。彼女がポイントカードという庶民的なツールを使うとはとても思えないので、僕は「彼女はこういうカード使わない主義なんですよ」と言ってカウンター奥に押し戻した。
「そうか、それは残念だ。まあ、気が向いたら頼むよ、ソラ」
世羽さんはソラの分のポイントカードを脇の方へ押しやった。
出された飲みものをストローでちゅるちゅる吸っていると、カウンター内の椅子に腰を落ち着けた世羽さんが訊ねてくる。
「ところで、こんな美少女を連れてまで、この店になんの用事だ?」
怜未の表情がにわかに硬くなる。
彼女は僕とソラを振り返ってから、まなじりを決して敢然と言い放った。
「私たち、バンドをやりたいの。ここでライブをやらせて」
世羽さんの眉間がわずかに動いた。僕ら三人を順に睨みつける。
「おまえら……本気で言ってるのか」
「うん。本気だよ」
「よりによって、なんでそんな……」
世羽さんは右手を額にあてがい、諦念の滲んだ溜息を漏らした。
「だめだ」
彼女は怜未を見据えてはっきりと言い放つ。
「まあ、怜未の言うことだから、ただの思いつきじゃあないんだろうけど」
「もちろん。私、本気だよ」
「だからこそだめだ」
これで話は終わりだとでも言うように、世羽さんはカウンター内の片付け作業を始めた。僕らのことには目もくれずに、黙々と洗い物をしている。いのりさんは黙ったまま、困ったように僕らと世羽さんを見比べている。
「本気だって言ってるでしょ」
「………」
「妹の頼みなんだよ。訊いてくれてもいいじゃん」
「………」
「なんで……お姉ちゃんだってやってたんだよねえ」
洗い物をしていた手がふと止まる。金属が擦れ合う「きゅっ」という音がして、蛇口から流れ出ていた水の音がやむ。
「……おまえら、覚悟はあるのか?」
「……覚悟?」
僕は思わず訊き返してしまう。
「世間様を敵に回す覚悟だよ。なにを目指してそんな世迷言ぬかしてんのか知らんが、世の中はもうおまえらの夢が通じるような場所じゃないんだ」
それは充分わかっている。いま音楽をやるということがどういうことか、自分なりに理解しているつもりだ。こう言われることは予想していた。
「だからこそ、音楽をやりたいの」
怜未もそう思っていたようで、突き放すような姉の言葉にもひるみを見せない。
「お姉ちゃん」
『路地裏』の店内に、しばらく重苦しい沈黙が流れた。濃いカフェオレに氷が溶けだし、グラスのなかでぐるぐると混ざり合っていく。沈黙に渦巻く僕らの思惑。その空気を最初に掻き乱したのは、世羽さんの声だった。
「おまえら、ビートルズって知ってるか」
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