12
明日の出張に必要な持ち物を教室に置き忘れてきたという音無先生から、それを教室へ取りに行くように言われた。どうして僕が行かなきゃならないんだと思うが、先生がしきりに職員会議をちらつかせてくるし、怜未が横で「私も行くよ」と言ってくれたので、観念した僕は素直に先生に従った。
「教卓の中に本が一冊入ってるから持ってきてくれ。なんのことはない、取るに足らない啓発本だが、いいか、中身は絶対に見るなよ」
「なんでですか」
「教員向けの啓発本は、生徒には刺激が強すぎるんだ。読むと爆発する」
「そんなわけないだろ」
「啓発じゃなくて爆発するんだぞ、なんと恐ろしい!」
いざ教室で中身を見てみると、啓発本のカバーに隠された漫画だった。「一週間でみるみる授業が上手くなる!」といういかにも胡散臭いタイトルのカバー表紙をめくると、主人公が敵キャラと熱いバトルを繰り広げる少年漫画が現れる。いろいろ突っ込みたいけどここは誰もいない放課後の教室だ、突っ込むだけむなしくなるからやめておこう。
「ねえ、詠人」
「ん?」
漫画のページをぺらぺらめくっていると、ふいに怜未がつぶやいた。
「ソラって、すごいね」
ページをめくる手が止まった。僕は顔をあげて怜未に目をやる。
彼女は教卓前の机に腰掛け、両脚をふらふらを遊ばせている。
「どういうこと?」
「ソラはちゃんと『自分』を持ってる。音楽が嫌いだって、ちゃんと自分の意見を、自分の気持ちを言えてる。なにかに対して自分はこう思うって、なんて言うか――心の芯って言うのかな、そういうのがソラにはある気がするの」
怜未にしてはめずらしく、ずいぶん歯切れの悪い話し方だった。僕は無言で彼女の次の言葉を待つ。
「私には、ないの」
「……ない?」
「うん。私にはそういうのがないのよ。さっきは音楽が好きだなんて言ったけど、それすら本当かどうかわからない。まだ音楽とは向き合えないし、これから音楽に対して自分がどうしたいのか、本当の気持ちがわからない。自分自身がわからないのよ」
怜未はまだ机に身体を預け、自分のつま先を見つめている。めくるのを止めた手が開いた漫画のページには、自分の心の弱さをヒロインに吐露する主人公が、沈痛な表情で描かれていた。
「……無理もないだろ。そんな、音楽と向き合うなんて。だって、怜未は家族を――」
「詠人だってすごいよ」
彼女の言葉が僕のそれを遮った。
「……僕が? すごい?」
「うん。詠人だって、ちゃんと自分の意志で音楽やってるんだもの」
僕は窓から差し込む夕陽が、怜未の影を長く伸ばしていることに気付く。それはまるで、彼女が抱えている不安定な感情を映し出しているみたいに見えた。怜未は音楽に、家族をめちゃくちゃにされたんだ。どうして今まで気が付かなかったんだ。もしかしたら僕は、彼女を知らぬ間に傷つけていたんじゃないのか。僕が音楽をやっていることが、彼女にとってどれだけの精神的苦痛になるのか、今まで考えたことがなかったんじゃないのか。もしそうだとしたら――僕はどれだけ無神経なことをしていたんだろう。
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
彼女はか細くつぶやく。「私は詠人がうらやましいんだよ」
「うらやましい?」
「うん。うらやましい。詠人だって、やりたいこと、なりたい自分があって、音楽をやってるんでしょ。そういう『自分』が詠人のなかにはあるんでしょ」
「でも、音楽はいま禁止されてて……」
「私はね、音楽が悪いことだとは、やっぱり思えないの。音楽を聴いたり、楽器を弾いたりするのが、人のものを盗ったり、人を傷つけたりすることとおんなじだなんて、全然考えられない。音楽をやるひとが悪い人だなんて、そんなの嘘だよ。確かに私の家族はばらばらみたいになっちゃったけど、それでもやっぱり、まだ音楽をやってる世羽お姉ちゃんはすごいと思うし、詠人のことがうらやましい、って思う」
僕はかばんの中から、「MES CHERIS」のCDを取り出して、なにを見るともなしにぼうっと眺めた。僕がうらやましいだなんて、僕はそんなんじゃなくて、ただなにも考えずに自分勝手にやりたいことやってるだけじゃないか。
怜未は溜息まじりの声を漏らす。「私にはできない。そんな勇気ないの」
「……」
「私には勇気がないのよ。もしお姉ちゃんみたいに音楽をやり続けたら、いつか警察にみつかって、捕まっちゃうかもしれない。そしたらお父さんとお母さんが悲しむかもしれない。今よりももっと笑わなくなっちゃうかもしれない。そういうふうにふたりを悲しませるのが怖い。だから私は、ふたりを喜ばせるために、頑張って勉強してテストでいい点取って、生徒会なんかにも入って、禁止されてる音楽には興味ないふりして……昔はあんなに好きだった音楽をあきらめて、ふたりに少しでも安心してほしかった」
わずかに開いた教室の窓の隙間から、ふわりとあたたかな風が流れ込む。怜未の髪が柳の葉のようにたおやかに揺れる。
「自分のやりたいこととか、なりたいものとか、よくわからなくなっちゃたなあ」
僕は戸惑っていた。彼女はいったいどうしたんだろう。こんな不安げな怜未は今まで見たことがない。
「……なんだよそれ。怜未らしくないじゃないか」
「……私らしくない?」
「うん。怜未らしくない」
「じゃあ」
彼女は静かに言葉を繋ぐ。
「私らしさってなに?」
「それは……」
頭がいいこととか、まわりのみんなに人気があることとか……言おうとして僕は口をつぐんだ。そんなの、怜未がさっき偽物だって言ったばかりじゃないか。つくりものの自分だって言ったばかりじゃないか。僕は落胆する。僕は、怜未が困っているときに励ましてやることすらできない。怜未にうらやましいなんて言ってもらえる人間じゃない。
「なんて、詠人にはわからないよね。私にだってわからないんだよ」
「……」
「やっぱり私、もっと音楽をやりたいのかもしれない。さっきソラの歌を聴いて、やっぱり音楽ってすごいなって思った。私は結局、自分の家族をばらばらにした音楽を、嫌いになれないんだなあって」
彼女は僕が教卓に置いたCDケースを撫でた。「MES CHERIS」の文字を細長い指がなぞる。
「ねえ詠人、私――」
そのとき、教室のうしろの扉から、「あ、怜未いた」という声が聞こえた。突然の声に驚いて目を向けると、ひとりの女生徒が立ってこちらを見ている。かばんの陰に隠しながら、僕はあわててCDを教卓の中に突っ込んだ。
「生徒会長が呼んでるよぉ。生徒会室に来てほしいんだって」
怜未が呼び掛けに応える。「今すぐ?」
「うぅーん、よくわかんないけど、そうなんじゃなぁい?」
怜未は僕に向き合って「ごめん、私、行くね」と言った。そのあと小声で「さっきの話は忘れて、ね?」と付け足す。そうして女生徒のあとについて教室を出て行ってしまった。
静かになった教室で、僕は怜未の言葉を思い返した。
――やっぱり私、もっと音楽をやりたいのかもしれない。
彼女が音楽と向き合える日が、いつか来るんだろうか。家族をばらばらにした音楽を、心から楽しめる時が来るんだろうか。彼女がうらやましいと言った僕は、その手助けをすることができるんだろうか。
「おい、赤穂」
ふたたび教室の扉から声が聞こえた。声の方に目を向けると、鈍く目を光らせた音無先生が、扉に身体を預けて立っていた。
「せ、先生、なんでここに」
「なんでじゃねえよ。遅いから見に来てみたら、お前そんなところでなに突っ立ってんだ」
先生は不機嫌そうに僕を見据える。「倉城は?」
「生徒会の仕事があるみたいで、呼ばれて行っちゃいました」
「あっそう」
先生はいかにも興味なさそうに応える。じゃあ訊くなよ。
「本、あった?」
「ありましたよ」
僕は漫画本――じゃなかった、教員向けの自己啓発本を右手に掲げて見せた。
「中身は見てないだろうな」
「も、もちろん」
力なくそう言った僕を、先生は獲物を狙う鷹のような目で睨みつける。
「ならいいんだが。そうだ赤穂、ちょっと来てくれないか。手伝ってほしいことがあるんだ」
「またですか……」
「文句あんのか?」ないと思ってんのか?
「まったくもう……いいですよ、なんの手伝いです?」
「明日の出張の準備をまったくしていないことに気付いた。私の机のもの、いろいろかばんに詰めるの手伝って」
「ほんとしょうもねえな……」
僕は溜息をついて、教卓の上に置いていた自分のかばんを取り上げた。
「赤穂、早くしろ」
先生はいつの間にか教室の扉まで歩いていってしまっている。僕は走って先生に追いつく。
その後、完全下校時刻になるまで、僕は音無先生の半奴隷としてこき使われるのであった。
このとき自分の犯した、最悪の失敗に気付くこともなく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます