空の泣き声がきこえる

音海佐弥

第一章 音楽の子供はみな歌う

01

 僕はこれまで、自分の世界を変えてくれた、ふたつのものに出逢った。

 ひとつめは、庭の物置でホコリに埋もれていた。

 僕の家の庭には、小さな物置がある。

 父親はいわゆる断捨離ができない人で、なおかつがらくたばかり集めてくる変な収集癖があった。集めてきたがらくたで自分の部屋をどんどん混沌の空間に作り変え、新しい生物でも発生しそうなほどの小宇宙ができつつあったため、母親が見るに見かねてどこかから使われていない物置を調達してきたという。百人乗ったら音を立てて崩れ落ちるのではないかというようなぽんこつななりをしたその中には、たくさんのがらくたがホコリまみれのまま眠っていた。しかし小さな物置だけでは父親の部屋から溢れたモノを収容しきれず、結果的には分裂した小宇宙が家の敷地内にふたつ存在するようになっただけであった。僕は父親の部屋を「魔界」と名付け、庭の物置を「魔窟」と呼んだ。

 僕は「魔窟」を探検するのが好きだった。ロールプレイングゲームに出てくる魔物の棲むダンジョンになぞらえて「魔窟」に足を踏み入れ、その中を探検した。魔物が出てくるなどとはもちろん思っておらず、特に宝物や掘り出し物が見つかるという期待も持ち合わせてはいなかったが、それでもなにか心躍る発見があるのでは、というようにこの些細な探検を楽しんでいた。探検というにはあまりに小さい、それどころか足を一歩でも踏み入れればたいていの場所に手が届くほどの狭い物置だったが、父親の創り出した混沌の「魔窟」は探りの入れ甲斐があり、僕はわくわくしながら中に入っては、来る日も来る日も中を引っ掻き回した。

 その日も僕は「魔窟」を探検していた。

 奥の方にたくさん積まれた段ボールをひとつひとつ開いて、中身を検めた。そのなかには、僕が小学校時代、しかも低学年に描いたと思われる絵が何枚か入っており、僕は恥ずかしい思いをしながらそれらを眺めた。子どものころに描いた絵というのは不思議だ。僕が描いたその絵には、両脚が曲がってはいけない方向に曲がってはいけない角度で曲がってしまっている人間が三人描かれている。おそらく僕と僕の両親だろう。そしてさらに不思議なことに、描かれている三人はとても楽しそうなのだ。

 よく見ると、僕の右側に描かれている父親と思しき人物は、何か茶色い大きなものを体の前にぶら下げている。それはひょうたんみたいな形をしていた。これはなんだろう。自分の描いた絵ではあるのだが、小学生のときに描いた絵の一枚に、いったいなにを描いたかなんて覚えているはずがない。

 僕はそれらの絵を段ボールにていねいに戻した。人によっては思い出と呼ぶかもしれない、人によっては黒歴史と呼ぶかもしれないそれらを、もうしばらくは見なくてすむように奥の奥の方にしまおうとしたとき、僕の目にあるものが留まった。

 たくさんの段ボールが積まれているそのまた奥の方に、大きな黒いケースのようなものが立てかけられていた。何年も前からここに眠っていると思われるそれは、長い年月を経て光という概念を忘れてしまったかのように、「魔窟」の隅で暗い闇に沈んでいる。僕は吸い込まれるようにそのケースに手を伸ばして触れた。時を経てこびりついてしまったホコリのざらざらとした感触が、触れた右手の指先を刺激した。

 僕の胸はざわついた。この中にあるものが、僕を呼んでいる気がする。

 うずたかく積まれたたくさんの段ボールをひとつひとつ降ろして、「魔窟」の外に出していくことにした。四つほど搬出し終えると、隅の空間を占有していた段ボールの山は姿を消し、奥にしまわれていた黒いケースの形を見てとれるようになった。

 どうやらひょうたんみたいな形をしている。

 意を決してそのケースを引っ張り出した。外の地面にひょいと置くと、こびりついていたホコリが久しぶりの外界の空気に躍って宙に舞い、それを吸い込んだ僕は思わずむせた。思ったよりも年季の入ったものらしい。父親はいつからこんなものを「魔窟」にしまい込んでいたのだろう。

 まだふわふわと宙に漂っているホコリを振り払い、ケースの金具を掴んで開くと、中には木製の道具が入っていた。

 取り出してみると、ケースの汚れ具合とは似ても似つかないほど、道具は思いのほかきれいだった。黒いケースと同じひょうたんのような形をした木製の胴に、長い手みたいな一本の木の棒がくっついており、その棒の先端から胴の真ん中あたりまで、六本の細い糸が張ってある。胴の真ん中は大きくくり抜かれていて、中が空洞になっているのがわかる。なにかお宝でも入ってやしないかと喜び勇んで覗き込んだが、木の独特なにおいを思い切り吸い込んでむせただけで、大した収穫はなかった。

 いささか落胆した僕は、木の道具が収まっていたケースの方に視線を向けた。すると、中に手のひらほどの大きさの機械がひとつ入っていることに気づいた。円盤のような形の胴体に細長いコードが繋がっており、そのコードの先は二股に分かれている。僕はこれを知っている気がする。昔よく父親が使っているのを目にした覚えがある。これは……そうだ、確かCDプレイヤーとかいうやつだ。機械の横には四角くてうすいプラスチックケースがある。これがCDだろうか。ケースを開いてみると、CDを収めるところと思われるまるいくぼみには何もはまっていなかった。

 頼りない昔の記憶を頼りに、父親の使い方を見よう見まねで機械を操作してみた。二股のコードの両端を両耳にはめ込み、いくつかのボタンを適当に押していると、胴体の液晶画面が鈍く光り、「PLAY」という文字がぼうっと浮かび上がった。機械が静かに唸りをあげ始め、中でなにかが回っているようなかすかな振動が手のひらに伝わってくる。

 やがて、両耳から音が流れ込んできた。

 今になって思う。このとき僕の世界は変わった。音楽というものにみずからはじめて触れて、僕の世界は変わったんだ。両耳の穴から直接脳を揺さぶられているみたいな感覚だった。あのひょうたんみたいな道具で、誰かに頭をぶん殴られたみたいだ。

 僕は小さなプラスチックケースを手に取った。四人組の写真が表面に載っている。その上のほうに、四人組の名前であろうか、「MES CHERIS」という装飾付きの文字が書いてある。真ん中のふたりは女性だ。そのうちのひとりが、身体の前に茶色いひょうたんのような道具をぶら下げている。僕ははっとした。

 楽器だ。

 小学生の僕が描いた父親が抱えていたもの、CDの写真に映った女性が握っているもの、そしていま僕のそばに横たわっているもの。これは楽器だ。人の頭をぶん殴るための凶器じゃない。音楽を奏でるための楽器だったんだ。

 おそるおそる楽器を手に取る。CDの女性のように身体の前に抱えてみる。なにか悪いことをしようとしているような、それでも逸る好奇心を抑えられないような、そんな危うい感情が心臓の鼓動を速くさせた。六本の糸を、上から順に引っ掻いてみる。すると、乾いた音をあげて楽器が鳴った。巣から落ちてしまった雛鳥が親鳥に助けを求めているみたいな、だれの耳のも届かないような場所で壊れたラジオが鳴っているような、そんな哀しい音だった。

 庭の門のほうで音がした。車のタイヤが砂利を踏む音だ。両親が帰って来たらしい。僕は急いで楽器をケースにしまい、CDプレイヤーとプラスチックケースを投げ入れた。乱暴にケースの蓋を閉め、金具を留めた。ケースを抱えて立ち上がり、「魔窟」の中に黒いケースを放り込んでドアを閉じた。両親と庭で鉢合わせにならないように裏口から家の中へ入り、自分の部屋へ逃げ込んだ。ただいまと言って玄関から入ってきた両親に、僕は必死に平静を装っておかえりと応えた。

 なぜこのとき、楽器を見つけたことを両親に知られるのを、僕がこんなにも恐れていたのかはわからない。僕は昔から臆病で、とるに足りない些細なことでもやたら怖がってしまう。でもあの楽器に触れているときは、なにかとてもいけないことをしているような感覚がしたのだ。

 僕はそれでも、隙を見ては「魔窟」へと赴き、そっと楽器を取り出して触った。あの楽器に触れてあげないといけないような気がした。糸を引っ掻いて音を出し、それを僕自身が聴いてあげないとならないような気がした。

 あの楽器がギターという名前だってこともあとでわかった。おんなじように発掘した分厚い本で「コード」というものも勉強したし、「楽譜」というらしい音楽の設計図みたいなもので練習もした。CDプレイヤーで曲を聴きながら、何度もなんどもバンドの音の真似をした。プレイヤーの電池が切れると、プレイヤー専用にコンビニで電池のパックを買ってきた。近所の人たちにばれないように、決して大きな音がでないようにしながら必死で練習した。

 僕は音楽に魅せられてしまったんだ。自分の魂を絞り出し、削り取りながら、なにかを訴えかける力をもった、音楽の魔力に。

 世界中で音楽が禁止されてから、しばらく経ったころのことだった。



 僕はこれまで、自分の世界を変えてくれた、ふたつのものに出逢った。

 でもこれは、僕とギターの話なんかではない。

 僕の世界を変えてくれた、もうひとつのものの話だ。

 どうしようもなく不器用な、ひとりの少女の物語だ。

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