第12話 第三章・衝撃(2)
確かめるんだ。ヴィックの無事を。
恋なんかしていない。ちょっと優しくしてもらっただけ。ヴィックの笑顔が素敵だと思っただけ。そばにいたいと思っただけ。
そんな些細な気持ちが恋なんて、そんなの残酷だ。
ラーラは漆黒の闇を走った。休むことを忘れ、無我夢中で街までかけおりた。何度も転んだり、木にぶつかったりしても、その足を止めることはなかった。
長い長い森。
迷える人を受け付けない森。
こうこうと音が反響していた。それがラーラの息なのか、森の声なのかはわからない。何もかもが吸収されてゆく。この『死者の歌』は村の人に喰された人達の怨念なのかもしれない。そんな気がした。
今ほど、森を恐しく思った日はなかった。けれど、今ほどその森より恐ろしいものが、目の前にあるときもなかった。
街に着いたとき、東の空が明るくなっていた。そこで、あがりきった息を整える。大丈夫。ヴィックは無事に決まっている。
そう言い聞かせても、動悸は収まらなかった。今度はゆっくり歩いてヴィックの家に向かう。
記憶を頼りに探すと、遠くからその大きな家――アパートが見えた。でも怖くて足が動かなかった。
大丈夫、無事ならなんてことない。その場で帰ってしまえばいい。森に入り込めば、ヴィックは追ってこれない。そうすれば、ヴィックを殺すことなく済む。二度と会うことは出来ないけれど。
まだ街は眠りについていた。道行く人もいない。ラーラは足音を忍ばせそっと一階のヴィックの部屋のドアに手をかけた。金属の冷たさが、ラーラの肝を冷やす。
ぎぃ、と鳴るドアにおののきつつ、リビングに目を走らせる。いない。
その右手側、ベッドのある小さな寝室。首が動かない。怖くて視線を走らせることが出来ない。室内に入り、そっとドアを閉じた。
頭の中が鼓動しているような錯覚に陥る。耳鳴りがひどい。こんな状態は初めてだった。
ゆっくりと、ベッドの上に視線を移す。ヴィックはそこに横になっている。
死んでいる。そう思うと、血の気が引いて倒れそうだった。
私はとんでもないことを。
叫びだしそうになるのをこらえるため、口に手をあてる。涙があふれてとまらない。なんてこと、なんてことを。
おぼつかない足取りで、ヴィックに近付く。
ヴィックは靴を履いたまま、布団もかけず、仰向けに倒れている。
恋なんてしたから。あなたを好きになってしまったから。でも、好きになるしかなかった。ヴィックはとても優しくて、ラーラに好意を寄せてくれていた。何もわからないラーラが、恋してしまうのは仕方のないことだった。
だからって、こんな簡単に……。
絶望を味わいながら、その顔に触れようとすると、表が騒がしくなった。反射的に姿を隠したほうがいいと思い、クローゼットに姿を隠した。
部屋に入ってきたのは、グロリアよりも年上の男女二人。穏やかそうな、そしてヴィックに似た顔や背格好だ。
女性はヴィックの母親だろうか。ヴィックの姿を見ると、かけよった。
「ヴィック……ヴィック起きて」
しかし、起きない。女性は目に涙を浮かべている。
「起きなさい!」
大きな声。無駄だ、とラーラがその声に耳をふさぎたくなったとき、ヴィックは目を開いて起き上がった。
「どうしたの、母さん」
その声に、ラーラは息が止まりそうな思いだった。
生きている……!
まさかの事態に、今度はうれし涙が溢れてきた。
「おじいさまが、危険な状態なの。意識を保てなくなってきている」
女性が、ヴィックに話す。そうか、だから涙を流していたのか、と、ぼやけた視界でラーラは部屋の様子をうかがっていた。
「えっ、そうなの?」
瞬間、ヴィックは顔を青ざめさせる。
「孫の顔が見たいからって。ヴィックも早く顔を見せに行きましょう」
「わかった」
慌てた様子でベッドから起き上がる。
「いって……」
ヴィックは後頭部を押さえる。
ふと、我に帰ったように女性が首をひねりつつ、口を開く。
「あなた、どうしてそんな格好で寝ていたの? 頭痛いの?」
言われて改めて、ヴィックは自分の姿を眺めて、首を捻る。
「ほんとだ。なんでだろう」
「湿布もある。頭に湿布でも張るのか?」
男性が、サイドテーブルに置きっぱなしになっていた湿布を手に取る。
「え? まさか……なんでだろう?」
ヴィックは何もかもわからないといった様子で首を捻ってばかりいる。男性はヴィックの後頭部を覗き込む。
「昨日……なんだか……」
「傷とコブが出来てる。どこかにぶつけたのか?」
男性があたりを見回す。サイドテーブルがずれていた。角に、赤黒いものが付着している。
「ベッドに入るとき、軽くぶつけたんだろう」
「そう、かな。よく覚えてない」
「いいわ、何も無いなら早く行きましょう。気分悪くなったらいいなさいよ」
女性にせっつかれ、ヴィックは頭を気にしつつ身支度を始めた。クローゼットを開けられるのでは、とヒヤヒヤしたが、大丈夫だった。
「これ……」
支度の最中、手持ぶさたな女性が、サイドテーブルを元の場所に戻しながらあの絵本を見つけた。あの、ラーラとヴィックを結んだ絵本。
「まだ持っていたのね。大昔盗まれたと言っていたのに」
振り返り、ヴィックの姿を見る。首を捻ったヴィックは、その絵本を手に取った。
「小さい頃、こんな女の子向けの絵本に感動していたな。いつか、大切な人に読んでもらいたいって思っていたけれどなくしてしまって……。なんでここにあるんだろう?」
ラーラはただ、声を押し殺して泣くことしか出来なかった。
こんなにも自らの存在を呪ったことはない。
彼は、ラーラの存在を覚えていない。そうだ、それでいい。それがいいと、ラーラは思った。何よりも、生きていてくれた。それだけで十分だ。
間違いを犯す前に、正気になったのだ。おそらく、ラーラが突き飛ばしてしまったのだろうけど……。
ほどなくして、両親は部屋を後にした。
「ヴィック、早く」
「うん……」
母の問いかけに、生返事をする。ヴィックは何を考えたのか、空の部屋の中、しばらく絵本を手にじっと見つめた。その後、その絵本をサイドテーブルの上に置く。そっと表紙を撫でた。そして名残惜しそうに部屋をでる。
ラーラはそっと、クローゼットから出た。部屋はひんやりとした空気でラーラを出迎えてくれる。
「ヴィック……」
窓辺に寄り、ヴィックの行方を追った。歩いてどこかに向かったようだ。
海の側に住む血縁、とは、おじいさまという人のことなのだろうと認識した。
ラーラは窓辺に立ち尽くした。
もう、会うことはないだろう。その後姿を、しっかりと瞳に焼き付けた。その姿が見えなくなるまで。
しばらくして、呪縛が解けたように体から力が抜ける。ようやく窓辺から姿を離し、ベッドサイドに寄る。
ラーラは絵本を手に取った。
これは、私が持っていっていいものだろうか。
わからなくて、だけど置いてはいけなくて、両腕に握り締める。そして、そっと部屋を出た。街を抜け、森の中へ。
森は、すべてを受け入れてくれる。
明るい日が差し込む森の中、笑顔に涙を流しながら歩いた。
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