第8話 第二章・変革(2)

 ようやくわかった。つまり、グロリアが生んでくれた仲間ということになる。

「じゃあ、ゼフィラは妹じゃありません。母は別の人だから」

「そう。じゃあ友達か」

 うなずいたけど、ちょっと違う気がした。どちらかというと、今聞いた「妹」に近いような気もする。二人の関係に、ようやくぴんとした言葉が当てはまった。

「その、ゼフィラって子を探しているのかい? だから走り回っていたというわけか」

「はい。この街で好きな人を見つけたって言って、私の元を去ってしまったんです」

「友達より、男ってことか」

 ラーラは黙りこんだ。それはとても恥ずかしいことのように思えた。

 小さな部屋の中、沈黙が続く。

 何か話したほうがよいのか、それとも黙っておくべきか。ラーラは天井に目を向けながら落ち着かなかった。あまり話は得意じゃないし、余計なことを言ってヴィックの気分を損ねたくはなかった。

 結果、口をつぐむというのが最善策となった。

 その沈黙、ヴィックも居心地悪く感じていたのか、ふいに立ち上がった。どこかへいってしまうのか、ラーラは不安になる。

 しかし、ヴィックは笑顔で問いかける。

「ラーラは、この国の生まれだよね」

「はい」

「てことは、海、見たこと無い?」

 少し得意そうに言う。それは知らなくていい事実らしいので、ラーラは素直にうなずいた。確か、グロリアに地図を見せてもらったとき、この世界の広い面積が陸ではないと教えてもらった気がする。幼き頃、たった一度だけ。広い世界を見せてくれたことは、それ以降ない。

 ヴィックはとなりのリビングの姿を消し、すぐに出てきた。手には、マゼンタ色の小さなビンが握られていた。

「中身、海水なんだ。海の水」

 よく見ると、そのビンの中には透明な液体が入っていた。

「海の、水?」

 横になっているラーラの顔の近くまで持ってきてくれた。ポン、とコルク栓をはずして鼻に近づける。

「これが、海の匂い」

 今までかいだことのないような、不思議なニオイだった。でもどこかでかいだことのあるような、懐かしさもある。

 マヤが買ってくる、魚の燻製がこんなニオイを発していたな、と思った。

 ラーラの住むこの国は山や陸に囲まれていて、海を見に行くのは一苦労だ。余裕がない人は海を見ずに一生を終えてしまうくらい、珍しいもの。

 ヴィックはピンから少し海水を手のひらに出し、指にとった。

「舐めてみて」

 指先に付いた水滴が、ヴィックの人指し指を伝う。

 ラーラが躊躇していると、ヴィックはほらほら、と指を突き出してくる。おそるおそるその手を握り、自分の口に近づけた。舌を少し出して、その水滴を口に含む。

 塩辛い、と思った。しかも、ちょっとくさい。見た目は普通の水なのに。燻製とはだいぶ味が違う。

「海って、味があるんですね」

 普通の感想を言ったけれど、ヴィックは満足そうにビンの蓋をしめた。

「あんまりおいしくないけどね」

 嬉しそうに、誇らしそうに言った。

 けれど、正直、海の味なんてどうでもよかった。ヴィックの体を舐めたことが、どうしようもなくいたたまれなかった。舌に感じた、皮膚の厚い男性の指。ざらり、と舌を撫でた少し冷たい指。

 そう思う反面、どこか嬉しかった。その気持ちが、ラーラ自身気味が悪かった。どうして、嬉しいなんて思うのだろう。

「よかったら、これあげるよ」

「でも、大切なものなんじゃないんですか」

 慌てて首を振るが、ヴィックは気にしていない様子で辺りをきょろきょろ見回す。手近にあった皮紐を、ビンのくびれた部分にまきつけた。

「いいんだよ。血縁が海の側に住んでいるから、よく海には行く。海についても、興味があるから調べているんだ。学校では海のことは学べないから、自分で調べているんだ」

 やっぱり、お金持ちなんだな、とラーラは思った。

 はい、と寝ているラーラの首にそのビンをかけた。

「これなら、落とさない」

 さっき、絵本を落としたことを言っているのだろうか。あれは落としたんじゃなくて、落ちてしまったの、という反論はしないでおいた。それくらい、ヴィックだってわかっているのだろう。

 学校。ラーラには遠い存在だった。学校というものがあるのは知っているし、普通の人はそこに行って、同世代の人と一緒に勉強をするのだということも。でも、そこに通えるのは一部の人だけだ。やっぱり、ヴィックは凄い人なんだ、と思った。

 でも、今更羨ましがっても仕方ない。ラーラは頭を切り替えた。

「海って、どんなところですか?」

 行ったこともない海の世界を知るばかりか、勉強までしているなんて。

「そうだなー、すごく広い。向こう全体が青いんだ。海の生き物も興味深いよ」

「生き物?」

 うなずいたヴィックは、またリビングに姿を消し、すぐに現れた。

「たとえば、こういうの」

 見たこともない生物の絵だった。紙に書かれたもので、どうやらヴィックが書いたものらしい。陸しか知らないラーラには、相当異形の生き物に思えた。

「これが、海の生き物……」

 気持ち悪い、と思った。細長くて、青くて、目がひとつしかない。こんなものが海には存在するのか。

「魚っていうんだ。他にも貝とか、エビとか色々いるよ」

 魚の燻製も、元はこういう形だったのか。ラーラはなんだかいたたまれなくなった。知らなかったとはいえ、こんなものを口にしていたなんて……。

 その時、初めて森で人を見たときのことを思い出した。

 自分と同じ姿をしていることで安心した。もしかしたら、ラーラもこうやって気持ちの悪い生き物だとののしられていたかもしれない。

 そう思うと、この生き物たちに申し訳なくなった。ちゃんと、生きているのに。

 ラーラが無言になったことで、ヴィックはまたその表情を伺った。

「ごめん、気が利かなくて。なんか飲む?」

 そういえば、今日一日何も口にしていなかった。おなかもすいているし、喉の渇きは相当なものだった。

「あの、お水ください」

 食事はともかく、喉の渇きだけは思い出したら我慢できそうにない。遠慮がちに言うと、ヴィックはにっこり微笑んだ。

 ヴィックが笑うと、安心する。自然にラーラも笑顔になった。

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