第35話『More Sweet』

 金曜日にあんなことがあって、練習を始める前にも乃愛ちゃんや玲奈先輩のことを話していたからか、いつも違ってあまり声が出なかったように思える。


「美来ちゃん、今日はこのくらいにしよう」

「はい。すみません、今日は上手に歌えなくて……」

「今の美来ちゃんの状況を考えたら、よく頑張っていた方だと思うよ。ただ、気持ちが揺らいでいたのか、声に雑味があったというか。……上手く言えないな。ただ、いつものような声じゃなかったかな」

「……はい」


 金曜日に下校するときに比べたら、だいぶ元気になった気がしているけど、今までと比べたら程遠いのかも。


「思い返してみれば、金曜日に乃愛ちゃんの声の調子があまり良くなかったのは、玲奈に告白する直前で緊張していたからだったのね」

「まさにそうです。ここから出て、玲奈先輩が待っている図書室へと向かう間は更に緊張している様子でした」

「告白するのって緊張するもんね。あたしは一度も経験ないけれど。緊張して、実際にやってみて、思うような結果にならなかったら……それはショックだよね」


 うんうん、と花音先輩は乃愛ちゃんの感情を理解している模様。

 そういえば、さっき栞先輩が言っていたけど、どういう状態になれば今回のことが解決したと言えるのだろう?

 乃愛ちゃんと玲奈先輩がまた姉妹として仲良くなること?

 それとも、恋人として付き合うこと?

 2人の考えが分かっていないので、私もよく分からない。また、私自身にとっても、何をもってして解決したと言えるのかもはっきりとは分かっていない。


「美来ちゃん、あまり深く考えすぎないように気を付けてね。それに、美来ちゃんが何かしたわけじゃないんだから」

「……そうですね。気を付けます」


 何かしたわけじゃない……か。でも、


『美来が天羽女子に転入してこなかったら、あたしがこういう気持ちになることはなかったのかも』


 まただ。あのとき、乃愛ちゃんから言われた言葉が頭の中で何度も蘇る。

 今日、花音先輩や栞先輩の話を聞いて分かったことは、私が天羽女子に転入してきたことで玲奈先輩の気持ちが私に向けられたということ。それを考えると、乃愛ちゃんがあんな言葉を言うのも仕方ないのかも。


「美来ちゃん、思い詰める必要はないからね。それに、悩んだら私でも、栞でも、亜依ちゃんでもいいからいつでも相談してきて」

「……ありがとうございます」

「うん。でも、美来ちゃんには大人の彼氏さんがいるから、彼と一緒にいるときは彼氏さんに相談するか」

「その可能性は高いかもです。彼にも週末の間に金曜日のことは話しましたので」


 思い悩んでいる私のことを優しく包み込んでくれて。甘えさせてくれて。智也さんは本当に優しい人だなって思う。気持ちに余裕ができたら智也さんを甘えさせてあげたい。あと、いつかは声楽という形で恩返しもしたい。


「やっぱり、彼氏さんの力は強いね。美来ちゃん、いい笑顔になってる」

「……自慢の未来の旦那様なので」

「ふふっ、そっか。できれば、近いうちに彼氏さんの姿を見させてよ」

「学園祭は土日ですから、たぶん来てくれると思います。もしかしたら、その前のコンクールにも来てくれるかも。有休を取るって言っていましたから」

「そうなんだ。楽しみが一つ増えた」


 本当に楽しみにしているのが分かる。これは智也さんの姿を一目見たら、もしかしたら恋をしてしまうかも。


「それじゃ、途中まで一緒に帰ろうか」

「はい」


 私は花音先輩と一緒に学校を後にする。

 花音先輩が潮浜市に住んでいるので、乗り換えの駅である畑町駅まで一緒に帰る。それからは私1人で大田急線に乗り換えて、自宅の最寄り駅の桜花駅へと向かう。

 午後7時前。

 私が乗っている電車は桜花駅に到着する。智也さんからは残業をしてくるとか、急な呑み会が入ったという連絡は一切ないので、今くらいの時間に帰ってくると思うけど。

 今日の夕ご飯は何にしようかな。智也さんのためにも美味しい夕ご飯を作りたいけれど、なるべく健康的なものにもしたい。


「美来」


 後ろから智也さんの声が聞こえたので振り返ると、私のすぐ目の前にベスト姿の智也さんが笑顔で立っていた。


「智也さん!」


 智也さんの姿が見えた瞬間、今日の疲れが一気に吹き飛んだ気がした。智也さんも同じだと嬉しいな。嬉しすぎて、周りの目なんて気にせずに智也さんに抱きつく。あぁ、智也さんの温もりと匂いたまらないよ。色々な気持ちが膨らんでいく。


「美来も今、帰ってきたんだね。そっか、僕が定時過ぎに会社を出て、美来も部活があるとちょうど同じくらいになるのかな」

「私の方も寄り道はしていないので、これからもこういう風に会える日があるんじゃないでしょうか」


 お互いに今、どこにいるとか連絡をしたわけじゃないけど、こうして家の最寄り駅で会うことができると運命って感じがする。


「なるほどね。じゃあ、定時に退社できたら、桜花駅で美来と会えるかもしれないっていう楽しみができるんだ」


 智也さんはそう言いながら優しい笑みを見せてくれる。あぁ、何て優しくて可愛らしい未来の旦那様なのでしょう。家にいたら絶対に夕飯は智也さんって言っているところだよ。


「そうだ、夕飯です。智也さん、夕飯は何が食べたいですか?」

「夕飯かぁ。そうだね……お昼ご飯は会社の食堂で豚の生姜焼き定食にしたんだ」

「智也さんもですか! 私もお昼ご飯は生姜焼き定食にしたんですよ!」


 お昼ご飯が一緒だなんて何ていう運命なんだろう。あぁ、余計に智也さんを夜ご飯にしたくなってきちゃった。


「美来もだったんだね。僕、お昼ご飯は麺を食べることが多いんだけど、たまには定食もいいかなと思って。学生時代から生姜焼きが大好きでさ。それに、定食だと野菜もたくさん取れるからね」

「食べたい物を食べるのが一番ですけど、栄養も考えないといけないですからね。では、今日の夜ご飯は、いつもと違う感じにするということで麺類にしましょう」

「おっ、いいね」

「智也さんはどんな麺料理がいいですか?」

「ラーメンかな。麺料理で一番食べたいのは」

「分かりました。では、野菜たっぷりの味噌ラーメンにしましょう」

「味噌ラーメンか。楽しみだなぁ」


 智也さん、嬉しそう。思い返せば、智也さんはラーメンが大好きだもんね。私が見守った8年間の中で、智也さんが一番多く入った飲食店はラーメン屋さんだったし。


「さっ、一緒に家に帰ろうか。途中で野菜を買っていく?」

「まだ冷蔵庫の中にある程度あるので大丈夫です。真っ直ぐ帰りましょう」


 智也さんと手を繋いで、家に向かって歩き始める。

 夜の桜花駅周辺の風景も段々と慣れ始め、引っ越して間もないときに抱いたちょっとした怖さもなくなった。でも、それは智也さんが隣にいるからなのかな。こうして一緒にいると本当に幸せで。金曜日にあんなことがあったのに、こういう温かな気持ちに包まれてしまっていいのかなって思ってしまう。


「色々と考えているみたいだね、美来」

「えっ? ど、どうして……」

「手を繋いだ感じが、いつもと少し違うから」

「智也さんには何でもお見通しなんですね」

「さすがに何でもじゃないけれど、再会して間もないときに比べたらね。もちろん、言いたくないこともあると思う。ただ、僕はいつでも美来の相談に乗るからね」

「……はい。でも、智也さんになら話せます。実は……」


 今日、学校であったことを智也さんに話す。家に向かって歩きながらだったけど、私が話している間、智也さんは真剣に話を聞いてくれていた。


「なるほど。乃愛ちゃんが学校に来ないことは、金曜日に告白したときの話から想像はしていたけれど、お姉さんの方が思ったよりもショックを受けている印象かな。でも、告白してくれた乃愛ちゃんのことを振って、その上で喧嘩してしまった感じだから気持ちは沈んじゃうか」

「私も玲奈先輩が予想以上にショックを受けている印象を持っているんです。もちろん、私にとっては……なんですけどね」


 その言葉を言ったときには、もう玄関の前だった。一旦、話をストップして私達は家の中に入る。


「それに、どうすれば今回のことが解決したと言えるのかが分からないんです。乃愛ちゃんと玲奈先輩が姉妹として仲良くなるか。それとも、恋人として付き合うのか。そして、今回のことは2人だけの問題ではなく、私も深く関わっているから、私にとっての解決って何なんだろうって……」


 乃愛ちゃんや玲奈先輩が悲しんだり、辛かったりするような目には遭ってほしくなくて。少しでも笑顔になってほしくて。でも、どうすればそうなるのかが分からなくて。


「今の時点だと見つけるのは難しそうだね。これまでは、いじめた人に自分のやったことについて謝ってもらうとか、事実を明らかにして、僕を嵌めた真犯人を逮捕するとか明確なゴールがすぐに見つかったからね」

「はい。これまでのように、目標みたいなものがはっきりと分かればいいのですが……」

「そうだね。あと、今回の場合は好きだっていう気持ちがベースにあるからね。ただ、焦ることはないと思うよ。それに今日、美来がやったように友達に協力してもらったり、2人の共通の知り合いに話を聞いたりするのはとてもいいことだと思う。情報を持っていないと見えないこともあるし、1人だと先に進めないこともあるからね」


 智也さんはそう言って、私の頭を優しく撫でてくれる。


「できれば、一歩ずつでもいいので前に進みたいんです。これから、どうすればいいのでしょうか」

「……まだ、今は神山姉妹について、色々なことを知っていく段階なんじゃないかなって思う。今日の美来の話を聞く限りだと、特にお姉さんの方かな。美来や乃愛ちゃんへの想いとか」

「なるほどです。……考えてみると、今日、玲奈先輩のクラスメイトで友人の先輩方から話を聞いたんですけど、何かモヤッとするんですよね」


 特に栞先輩には金曜日のことについて自分の想いを含めて話していたけれど、まだ誰にも話していない本音が隠されているような気がする。


「じゃあ、そのモヤッとした部分が取れると、何かが見えてくるかもしれないね」

「……そうだといいです」


 明日も玲奈先輩のことを調べていくことにしよう。

 ただ、誰に聞くか迷うな。一番知っていそうな栞先輩から話を聞いたから、玲奈先輩本人に直接話を聞いてみるのも一つの選択肢として考えておこう。


「智也さんに相談して良かったです。本当にありがとうございます」

「少しでも役に立てたならとても嬉しいよ」

「お礼に、今日の味噌ラーメンはいつも以上に気合いを入れて作りますので、楽しみにしていてくださいね!」

「楽しみだなぁ。今の一言を聞いてよりお腹が空いてきたよ」

「ふふっ、じゃあ……その前菜として」


 私は智也さんにキスする。前菜なんて言っちゃったけど、本当は相談に乗ってくれたお礼と、今日もお仕事を頑張ってきたごほうび。

 唇を離すと、そこには智也さんの優しい笑顔があって。そのことに凄くキュンとなって。


「……デザートに、今日も智也さんに甘えてもいいですか?」


 つい、そんなことを口にしてしまった。

 すると、智也さんは普段通りの優しい笑みを浮かべる。


「ちょっとずつ、いつもの美来に戻ってきたね。もちろん、甘えていいよ」

「あ、ありがとうございます……」


 いつもの私に戻ってきたって……私、普段はそんなに甘えちゃっているのかな。普段から智也さんのことばかり考えて、家では智也さんの側にいることが多いから、それで智也さんは私がとても甘えているって思っているのかも。


「塩梅といいますか、甘梅といいますか。加減を考えて甘えたいと思います!」

「思うように甘えてくれていいけどね。どうしてもまずそうな感じがしたら、そこはちゃんと僕が止めるから」

「……ま、まずはそのお言葉に甘えさせていただきます」


 約束の意味を込めて再び智也さんとキスした。

 その後、夕食に私の作った野菜たっぷりの味噌ラーメンを智也さんと一緒に食べて、寝るまでずっと智也さんに甘えたのであった。

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