第117話『未来(みらい)』

 6月7日、火曜日。

 午前11時前。僕は株式会社テクノロジーシステムズの本社ビルの前にいる。

 昨日の夕方、本部長から僕の今後のことについて決定し、今日の午前11時に話がしたいと連絡が来たからだ。


「どうなるか……」


 わざわざ本社に呼び出すということは、僕にとっていい報告でないことは予想できる。元の現場に復帰できるのであれば、チームリーダーか僕の所属している部署の部長から復帰の連絡が入るはずだ。

 入り口前には未だに報道陣がちらほらいる。本社ビルに入ろうとしたとき、記者に今後のことについて質問されたが適当に答えておいた。

 エントランスで本部長に到着したことを連絡すると、数分ほどで本部長がやってきて僕は会議室へと通された。本部長は色々と紙を持っているけれど。

 僕は椅子に腰を下ろす。僕がこの椅子から腰を上げるときには、僕の今後が決まっているんだろうな。


「氷室君。まずは無実で釈放されたことについて、本当におめでとう」

「ありがとうございます」

「ただ……無実であっても、今回のことで色々と騒がれすぎた。マスコミやネットなど色々な形で今回の事件は報道された。会社として、君のことを先週の水曜日付で懲戒解雇処分とし、謝罪会見まで行なった」

「その節は大変ご迷惑をお掛けしました。申し訳ございませんでした」


 会社側に色々と迷惑をかけてしまったことは事実だからな。謝罪会見の映像は繰り返し流され、その様子を写した写真はネットを通じて公開された。思わぬ形で会社の名前が国際的に知られることになったのか。


「本題に入ろう。今日、ここに来てもらったのは君のことについて決定し、君に直接伝えるためだ」

「……はい」


 すると、少しの間、静寂の時間が流れていく。その時間がとても長く感じる。


「氷室智也君。無実だったということで、君の懲戒解雇処分を撤回する。ただし、会社に多大な迷惑を被らせたということで、その責任を取ってもらうために、会社都合という名目で退職を命ずる」


 ここに呼びされる連絡を受けてから、何かしらの処分は受けると思っていたので、本部長からの今の言葉にはさほど驚きはなかった。


「そうですか。分かりました」

「……意外と落ち着いているんだな」

「ここに呼び出されるということは、元の状態には戻れないだろうと覚悟していました。それに、僕は逮捕も経験しましたからね。勾留されているときに比べれば、今はよっぽどマシです。懲戒解雇が撤回されただけでも良かったです。今後の転職活動も多少はマシになると思いますから」

「そう……か」

「……1人の少年が、1人の少女に対する異常な執着心により、今回の事件が引き起こされた。僕はそれに巻き込まれた無実の人間だった。それは今後も報道されていくと思いますが、本部長の方からも会社の方々に伝えておいてください。退職前に僕が言いたいことはそれだけです」

「……分かった。伝えておこう」

「ありがとうございます。短い間でしたが、お世話になりました」


 この会社から離れることになるのか。仕事の上で、有紗さんと関わる可能性ほとんどないんだろうな。それがとても寂しく、悔しくもあった。まったく、諸澄君……君は僕の人生を滅茶苦茶にしてくれたね。

 僕は退職の手続きをして、本社ビルを後にする。


「氷室さん! 会社の方から何か今後のことで言われたのでしょうか」


 まだ、本社ビルの入り口前には記者が数名ほどいた。規模は小さいけれど、釈放された直後に警視庁の入り口前で会見を行なったときのように、いくつものICレコーダを向けられる。

 何てコメントをすればいいのか。会社都合の退職となったと正直に言えば、それはそれで会社側に迷惑がかかりそうだからなぁ。


「……ノーコメントということでお願いします。あとは会社の人間に聞いてください。もう事件も解決に向かっているので、そっと見守っていただきたいです。失礼します」


 今、僕に訊いた女性の記者の勘が良ければ、ノーコメントと言ったことの意味を正しく汲み取ってくれるだろう。僕の言葉を使ってどのように報道するかは、それぞれのメディア関係者に任せることにしよう。

 さっき、本部長に言ったように懲戒解雇が撤回されただけマシに思おう。転職活動も若干はしやすくなるし。退職金や夏のボーナスも出るとのことだし。それでいいと思って、早く気持ちを切り替えられるようにしよう。

 両親に会社都合によって退職させられたことを電話で伝え、その後に同じことを美来と有紗さんに対してグループトークにメッセージを送っておいた。すると、すぐに僕の送ったメッセージが『既読2』となり、


『そっか。一緒に仕事ができなくなるのは残念だな。グループのみんなにはあたしから伝えておくよ。あと、今はゆっくりと休んで』


 有紗さんからすぐにメッセージが返ってきた。残りの有給休暇を全部消化してから退職することになったので、半月くらいは休むことに徹しよう。

 有紗さんのメッセージが来た直後に、


『そうですか。残念です。まずはゆっくりと休んでください。私の家でもかまいませんから、智也さんさえ良ければ一緒に過ごしましょう。智也さんの好きなお料理を作りますから!』


 という美来のメッセージが届いた。

 そうだな。退職日まで、半月くらいはあるから……その間に美来と一緒にリフレッシュできるといいな。


『2人ともありがとう。有休を消化しきってから退職することになったので、半月くらいはゆっくりしようと思います。今日は外で昼飯を食べて家に帰ります』


 というメッセージを送っておいた。後で羽賀や岡村にも連絡しておこう。

 時刻も正午を過ぎたし、近くのチェーン店の定食屋にでも行くか。あの定食屋、家の近くにはないし……あそこの鶏カツ定食が凄く美味しいんだ。本社での研修中、特に給料日の直後は同期と一緒に食べに行ったっけ。ご飯のおかわりが自由だから、たまにハメを外してご飯を食べ過ぎたこともあったな。


「……寂しいな」


 自分の都合で退職するわけでもないし、有紗さんのいる会社だし。退職させられてしまうことの怒りも当然あるけれど、今は寂しい気持ちの方が強かった。


「美味しいものを食べて、元気を付けよう」


 退職はショックだけれど、いつまでもしょんぼりとして、悔やんでも仕方ない。とりあえず、思い出のお店の鶏カツ定食を食べて、家に帰ることができるくらいの元気を付けることにしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る