第41話『背徳キッス-ARISA Ver.-』

 有紗さんが先にお風呂に入っている。

 その間に、タンスやクローゼットがどうなっているか見てみると、僕の買った覚えのない女性ものの服や下着が入っていた。これじゃ、本当に美来や有紗さんと同居している感じだよ。

 僕は替えの下着と寝間着を持って脱衣所に向かう。かごの中には今日着ていた有紗さんの服が入っている。

 浴室からはシャワーの音が聞こえたりして……ああ、今からあそこに行かなければならないのか。


『智也君、髪と体を洗い終わったから、入ってきていいよ』

「あっ、はい」


 ついに、そのときがやってきた。

 僕は服を脱いで、タオルを巻いた状態で浴室の中に入る。

 すると、中にはバスタオルを巻いた有紗さんが立っていた。良かった、バスタオルを巻いていてくれて。あと、化粧を落としたはずなのに、ほとんど変わってないな。


「さあ、智也君。あたしが髪と体を洗ってあげるから覚悟しなさい」

「えっ? い、いいですよ! 有紗さんは湯船でゆっくりと体を伸ばしてください」

「ええ……」


 露骨に不機嫌な表情をされる。そこまでやりたかったのだろうか。


「じゃあ、まずは自分で髪を洗いますから、その間はゆっくりしてください。その後……僕の背中を流してくれませんか?」

「……うん!」


 僕の考えた折衷案に有紗さんは喜んで頷いてくれた。有紗さんは湯船に浸かる。

 さっそく、僕は髪を洗う。お酒を呑んだ後だから、有紗さんをあまり長く待たせてはいけない。


「髪を洗うのを見るのもいいね」

「そうですか?」

「……うん」


 じっと見られると、何だか恥ずかしくなってくるな。このまま黙っているのもアレだし、何か話をして気を紛らわそう。


「そういえば、有紗さんの髪はサラサラですよね」

「……ふふっ、嬉しい」

「あそこまでサラサラにするには、毎日しっかりと髪のケアをしないといけないんでしょうね」

「ちゃんと洗って、すぐに乾かせば大丈夫よ」

「じゃあ、持って生まれたものなんでしょうね」


 羨ましいな、そんな髪を持っているなんて。僕はそこまでサラサラじゃないから。そういえば、美来の髪も結構サラサラだったな。

 髪を洗い終わると、有紗さんは湯船から出てボディータオルを持つ。鏡越しで有紗さんのことを見ているけれど、やる気満々のご様子。


「洗ってあげるね!」

「……お願いします」


 背中を有紗さんに洗ってもらう。力加減が絶妙でとても気持ちいい。


「どう? 痛くない?」

「大丈夫です。むしろ、気持ちいいくらいで」

「そっか、良かった。やっぱり、男の人の背中って広いのね。あと、智也君の肌が意外と綺麗でムカつく」

「綺麗ですか。昔は乾燥肌で、ボディーソープやボディータオルも肌に優しいものを使っていたんですよ」

「そうだったんだ」


 今ではあまり肌のことで悩まなくなったけれど、昔は定期的に肌が痒くなったり、赤くなったり、湿疹ができたりしたものだ。


「ふふっ、こうして背中を洗っていると、彼氏と一緒にお風呂に入っているみたい」

「そうですか」


 そんなことを言われてしまったら、振り返って有紗さんを抱きしめたくなってしまうよ。

 僕はもう、有紗さんのことを職場の先輩だけでなく、1人の女性として見ているんだ。きっと、美来よりも。

 シャワーで泡を落として、僕と有紗さんは一緒に湯船に浸かる。お互いに向き合っている形で浸かるけれど、そんなに湯船も広くないので互いの脚が当たっている状況だ。


「気持ちいいね、智也君」

「ええ、そうですね」

「智也君、ごめんね。あたしのわがままを聞いてもらっちゃって。美来ちゃんのことを考えると、心苦しいよね」


 そう言う有紗さんは寂しい笑みを浮かべている。


「さっきの電話で、美来は有紗さんとお風呂に入っていいとは言っていましたけど……正直、何とも言えない気持ちです」


 実際は、僕と有紗さんがこうしていることに辛いのかもしれない。今すぐに行きたいっていうのが美来の本音なんだと思う。


「ねえ、智也君。もし、美来ちゃんがいなかったら、今頃、あたし達はどうなっていたのかな。もちろん、美来ちゃんが嫌だってわけじゃないよ。ただ、智也君に好きだって伝えているし、こういう状況だと、そう思うことが何度もあるんだよね……」


 有紗さんはそっと手を握ってくる。

 美来がいなかったら、今、有紗さんとどういう関係になっていたのか。一緒に働いている職場の先輩だけではなくなっているのか。


「はっきりとは分からないです。ただ、僕に見せてくれる笑顔だったり、僕だけに甘えてくれるところだったり、僕の側にいてほしかったり。有紗さんにそう思っているんです。もちろん、それは美来にも言えることで……」


 あれ、おかしいな。誰かに怒られているわけでも、責められているわけでもないのに。僕は今、どうして涙を流しているんだろう。


「……智也君は優しいね」

「2人に告白されたのに、未だに返事を返せていないんですよ。そんな僕が優しいはずがありません」

「でも、智也君が美来ちゃんやあたしに抱いている気持ちは、今の言葉で分かったよ。笑顔を見たい、一緒にいたい……それって、好きってことなんじゃないかな。あたしはね、そういう智也君のことがずっと好きなんだよ」


 僕は美来と有紗さんのことが好きなのか、やっぱり。僕は2人の女性を好きになってしまったというのか。

 有紗さんはゆっくりと自分の巻いたタオルを取ろうとする。


「待ってください、有紗さん」


 僕はぎゅっと有紗さんの手を掴んだ。


「このまま、ありのままの有紗さんを見てしまったら、僕、どうなってしまうか分かりません。美来のことを守れなくなるかもしれない。むしろ、苦しめてしまうかもしれない」


 僕はきっと、今もなお美来のことを傷つけているんだ。美来の側にいないことや、有紗さんと一緒にいることが、何よりも美来にとって辛いのかもしれない。それは学校で受けてきたいじめよりも苦しいことなのかもしれない。


「有紗さん。僕はどうしても美来のことが頭から離れません。美来は10年間、僕のことを好いてくれている。僕を陰から見守ってくれました。やっと、僕と再会することができた矢先に、自分と同じように僕が好きな女性が現れて……僕の気持ちが揺れ動いてしまうかもしれないと、美来は不安で仕方ないと思います」

「智也君……」


 至近距離で見えている有紗さんの眼は潤んでいた。


「有紗さんが悪いわけではありません。優柔不断な僕が悪いんです。今でも、美来と有紗さんのどちらと付き合うかが迷っています。ですが、せめても美来のいじめの問題が解決するまで、できるだけ美来の側にいたいんです。美来はきっと、僕と再会するためにこの10年間頑張ってきたんだと思います。その想いに応えたいです」


 目の前にいる有紗さんよりも美来の側にいてあげたい。

 今、美来はどんな想いで過ごしているんだろうか。さっき、僕に送ってきてくれた写真ではピースサインをしながら、頬を膨らませていたね。


「そっか……」


 一言そう呟くと、有紗さんは僕を抱きしめてくる。


「智也君を悩ませちゃったね。美来ちゃんのことを考えたら、こうしちゃいけなかったのに、自分の欲に身を任せてた」

「何度も言っているじゃないですか。有紗さんは何も悪くないです。人を好きになることに、その人の側にいたいことに……罪なんてありません」


 僕は有紗さんにキスをする。そのときにも美来の悲しげな表情が脳を横切って背徳感を抱いた。けれど、今は有紗さんの気持ちを安心させたかった。彼女に唇で僕という存在を感じてほしかった。

 唇をゆっくり離すと、有紗さんはとても嬉しそうな表情をしていた。


「嬉しい。あたしが何も言わずに、智也君から初めてキスをしてくれたね」


 今度は有紗さんからキスをした。そのキスはとても甘く思える。


「あたし、智也君にフラれていないって考えていいんだよね」

「……はい」

「そっか。美来ちゃんのことを考えると申し訳ない気持ちもあるけれど、やっぱりそれ以上に嬉しい気持ちの方が強いんだ」

「絶対に決断します。それまで待っていてくれませんか」


 本当に僕は自分勝手な人間だと思う。こんな僕が美来のことを守り切れるか分からない。美来のいじめのことに決着が付くまで、僕は多分、どちらと付き合うかという答えは出せないと思う。

 そんな僕に対して、有紗さんは優しい笑みを見せてくれる。


「うん。待ってるね。ただし、あたしの告白にOKでも、ダメでもあなたの口で伝えること。これだけは絶対に約束してね」

「……はい」

「じゃあ、智也君。解決までのある程度の見通しが立つまでは、有休を使って、明日からずっと美来ちゃんの側にいてあげて。会社の方にはあたしの方から言っておくからさ」

「いいんですか?」

「智也君がいないのは寂しいけれね。ただ、いつまでも智也君に甘えてばかりじゃいけないからね。その代わり、美来ちゃんに存分に甘えさせてあげて。あの子は……10年も智也君を想い続けているんだから」


 気付けば、有紗さんの眼には涙が浮かんでいた。大丈夫だと口で言っているけれど、本当は僕がいなくて不安になっているのかも。


「もう、眠くなってきたからお風呂から上がって寝ようか」

「そうですね」


 お酒の酔いと湯船の温かさによって、僕も凄く眠くなっている。

 僕と有紗さんはお風呂から出ると、すぐに眠りについたのであった。

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